↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
40/47

やがて見る空・2

 四ツ谷警察から放りだされた片桐は、両掌と全ての指がへし折られ、脛も叩き割られていたので歩く事もできなかった。しばらく往来に転がっていたが、門前の警備の巡査に目障りだと蹴飛ばされ、棒で車道に突き転がされた。

 危うく轢きそうになった大八車の車夫が忌々し気に片桐を荷台に放り投げ、呟いた。


「乞食か頭がおかしいかだな。転狂院にでも放り込んでおけばいいんだよ。往来じゃ邪魔でしょうがねえ」


 手ぬぐいと頬かむりで顔を隠した車夫は大八車を弾いて軽快に進み、あっという間に坂を下って四ツ谷愛住町に着いた。きょろきょろと周囲をうかがい、わざと入り組んだ小道を曲がって進み、人気のない道で止まった。車夫は大八車を捨て片桐を抱え上げ、道に迷う事なく一直線に柘植さやの家に向かった。

 どすん。音を立てて粗末な借家の塀の中に片桐を放り投げると、一目散にいずこかへ走って行った。彼の仲間の一人であろう。


「片桐さん!」


 物音を聞き、家の中からさやが走り出ると、這いつくばる事もできない血みどろの男が転がっていた。腫れ上がり変形した顔からは、彼が誰なのか、もはや分からない。喉を何度も竹刀で突かれて潰されたので、苦し気な吐息が聞こえるだけで声にもならない。

 さやの息子の光はまだ幼児だったが、素早く隣家の碧生家に知らせに走った。大人達の会話と様子から事情を察していたようだ。物音で玄関先まで出ていた碧生達はすぐに飛び出してきた。顔立ちではもはや判別がつかず、衣服も日頃の瀟洒な洋装ではなく寝起きを急襲されたので肌着に浴衣である。だがそれはリカが幼い頃から目を注いでくれた片桐だった。


 さやが顔を寄せ様子を診ている彼の体を、リカは急いで膝に抱き上げた。抱いてきた赤ん坊の亜希子は碧生がさっと引き受けた。さやは折られてぐにゃぐにゃになった片桐の手首から脈をとり、静かに首を横に振った。掌だけでなく全部の指の関節が砕かれた片桐の手は、生爪も全て剥がされていた。さやもリカも碧生も、こんな酷く拷問された体を見るのは初めてだ。


「片桐さんもう大丈夫です。私達がいます。戻って来たんですよ」


 リカは取り乱して叫んでいた。その姿を、集まってきた遠巻きの近所の人々に交じり、後をつけてきた特高の私服警官が見ている。


「ただいまお嬢さん」


 辛うじて吐息だけで聞こえる片桐の言葉は、いつもの彼だったが、もはや声にはなっておらず、耳を寄せてやっと聞き取れる微かなものだ。


「今家に運びますから。お布団敷きますから」

「不要です。もうすぐ旅に出ますので」

「片桐さん、そんなの駄目です」


 彼の言う意味は死出の旅だという事は、リカには分かった。彼女が腕に抱いた片桐の浴衣はべっとりと血に塗れ、ぐずぐずにはだけた襟元からも赤黒い竹刀かこん棒での殴打の跡が、幾筋もあざになって見えた。逮捕されてそれ程日が経っていないのに、その体は骨と皮だけになっていた。どれだけ凄まじい拷問が加えられたのか、浴衣の裾からのぞく股間はふんどしも剥ぎ取られ、陰部には荒縄がねじ込まれ、その先が数センチ見えていたが、黒く焦げている。尿道にねじ込んで縄に火をつけて責めたてたのであろう。


「そんな顔をしてはいけません。貴方は私の前では常にレディーで居ないと」


 リカとさやは涙でぐしゃぐしゃの顔を袖で拭き、無理に口角を上げ笑顔を作った。片桐の目はあらぬ方向をさまよっている。きっと拷問で神経が切れ、もう見えていないのだ。それでも女二人は微笑もうとした。例え見えていてもそうでなくても、最後に瞼の裏に浮かんだものが笑顔であってほしかった。

 ああ、美しい。それでこそレディーです。

 片桐の息がそう呟いた気がした。あばらが折れべっこりと凹んだ胸からすーっと息を吐き、片桐はこときれた。

 

 さやの息子「光」と自分達の娘「亜希子」が並んで、窓の外を流れる景色に興奮し、しきりと歓声を上げる。自分の向かいには片桐の骨壺を収めた風呂敷包みを膝に乗せた妻のリカ、そして元々父の妾であった柘植さや。思えば奇妙な取り合わせで、一行は湘南の丘の上の駅に向かっていた。


 下車した駅は自分が飛行学生として横須賀の訓練所から降り立った頃と全く変わらなかった。だが一行は碧生の実家には立ち寄らなかった。既に兄の一族が管理し栄えている実家のミカン農園。そこは彼らにとっての目的地ではない。駅から実家と反対方向。より海に近い崖の上に、3人と子供達は向かった。丘陵沿いの村の共同墓地とは反対方向、厳しい潮風に晒されて海にせり出した高い岩場に松の木が数本。そんな寂しい断崖絶壁に彼らは着いた。


「蒼太郎おじ様、怖い」


 光は少々尻込みしている


「そうだな。小さい子にはちょっと危なかったかな。亜希子がふざけて落っこちたりしないようにしっかり手を繋いでいてくれ」

「はい」


 リカが風呂敷を解き骨壺のふたを開け、碧生は中身をさーっと海に向かって撒いた。白い遺灰は海と陸の接する所から風に乗って散り、空に吸い込まれていった。


「さあ、おじちゃんの為にお花を撒きましょう」


 さやが持ってきた重箱を開くと、中には白い菊を千切った花びらがぎっしりと詰められていた。秋のバラやコスモス、金木犀も。徳永のサナトリウムに咲いていた花を医師が全部摘んでいいと言ってくれたので、花びらを摘んで詰めてきたのだ。


「さ、両手に持って風に流して」


 碧生、リカ、さや、そして光と亜希子。5人の手がそれぞれ花びらをつかんで吹き付ける風に撒いた。白に黄色や桃色の花弁は、遺灰と同じような大きな軌跡を描いて海と空に吸い込まれていった。


 「片桐さんは綺麗なものが好きだったから……」


 リカはようやく口を開いた。どんな時でも自分を見守ってくれた片桐はもういない。だが彼に一番ふさわしい所に還って行ったのかもしれない。


「そうだね。ここならいつもお陽様と風の中で眠っていられるよ」


 崖の上から海に先に目をやると、碧生達の視線の先には海軍基地からひっきりなしに飛び立つ小型飛行機で一杯だった。中国でもない、ヨーロッパでもない、日本での戦争が近いのだ。飛行機は碧生も在籍した横須賀の飛行学校や空母から飛び立ち、訓練をしているようだった。雲の中に、上に、キラキラと光る機体は空のどこを見ても眼に入る。碧生の愛する、そして片桐が眠る空は、訓練機や戦闘機がひっきりなしに飛ぶ所になっていた。


 1941年12月8日、日本時間深夜午前1時30分、司令官山下奉文中将の指揮の下、陸軍の25軍はイギリス領マレーに上陸し、半島を攻め進んだ。

 同じ12月8日、日本時間午前3時19分、日本海軍第一航空艦隊と特殊潜航艇5隻がハワイ・オアフ島の真珠湾内停泊のアメリカ海軍太平洋艦隊を攻撃し、圧勝した。

 ここに中国、南亜、広大な太平洋を戦場とした、アメリカ軍相手の太平洋戦争が幕を開けた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。