やがて見る空・1
夜明け、片桐の四ツ谷のアトリエを特高警察が急襲した。寝ているところを踏みこまれた片桐は抵抗したが叩き伏せられ、母屋から引きずり出された。あとは大勢の刑事や巡査による荒っぽい家探しである。
書きかけのノートや便箋の図案、少女誌の挿絵、外国の人形やおもちゃ、絵本、全て引きだされ、入念に調べられ、床に放り出された。そのたびに片桐は悲痛な声を上げた。自分の創造の材料が音を立てて投げ出され、荒々しく踏みつけられる。捜査陣によってアトリエと言う天国の空間が荒らされてゆく。それは彼にとって耐えがたいものだった。
その頃になると何かが起こったと、寝起きの眠い目をこすりながら近所の人々が集まってきた。
「課長、こんな物が出てきました」
刑事がキャンバスに書いた油絵を持ってきた。額装こそされていないが確かなデッサンと入念な筆致、暗く燃えるような色使いで描いたそれは、片桐が今まで本気で描いた少年少女の絵だった。幼いリカ、和装の娘さや、白い肌を窓辺の光に晒した富士見レオ。他にも多くの少年少女が、片桐の好みの素肌に薄物をまとった妖精のような姿で描かれている。
「なんだこれは。子供の裸の絵か。胸糞悪い」
刑事達は次々に絵を目にすると、心底気持悪そうな、蔑んだ目で片桐を見た。
「お前は小児偏愛の変態か。なぜ子供の裸ばかり描いているのか。スパイもコミュニストも抜きにして立派な色情狂野郎だ! 」
刑事は何枚もある画を床に叩きつけた。それを見て片桐は狼のような吠え声を上げた。刑事の指示の元巡査達がナイフを抜き、キャンパス地を大きく切り裂いた。中に不審な手紙やメモが隠されていないか見るためだ。
「やめろ! お願いだ! やめてくれ! 」
片桐は首を絞められたような声をあげたが、取り押さえる刑事達にうるさいと殴られるだけだった。
手紙もメモも隠されていないと分かると、刑事達はズタズタに裂いたキャンバスを忌々し気に蹴飛ばした。ああっと、拾おうと飛び出した片桐はたちまち抑えられ、袋叩きにあった。
「舐めてるのか貴様! 」
刑事は一喝し、連れて行けと命令した。刑事達は子供達の絵をわざと踏みつけ、叫び続ける片桐を引きずり車に放り込んだ。特高の車列が去った後には荒され尽くしたアトリエが、切り裂かれた絵を床一面に巻き散らかしたまま残された。ご近所の人達の
「やっぱり怪しかったのよね」
の声が囁き交わされていた。
片桐のアトリエの異変に気が付いたのは、家の一番近い間宮未亡人、リカの母親だった。近所から聞こえる喧騒と物の壊れる荒々しい音。火事か事故かと玄関から顔を出すと、他の家からも住民が顔を出し、何事かと顔を見合わせた。やがて音のした方から『特高の手入れだ! 』と声が上がり、住民達は恐怖から家の中に引っ込んだ。
間宮夫人が覗きに行くと、ちょうど切り裂かれた絵を踏みながら巡査が片桐を連行していくところだった。
床にまき散らかされた絵には見覚えがある。母親にはわかる。娘のリカを描いた絵だ。暗いゴシック的な色調ではあるがリカの幼い姿、多感な少女期、女学校を卒業した頃。女子大学を卒業し、作家として活動し始めた頃。そして碧生と交際を始めた頃の幸せそうな姿。いずれも妖精のような薄いドレスをまとって美しく輝いている。幼い、父親の間宮記者が存命で片桐の友人だった頃から、リカは彼のお気に入りのモデルだった。
片桐は未亡人の目の前をこずかれながら引きずられていった。目が合う事はなかった。夫人も声などかけなかった。プライドの高い片桐はそんな事を望まないとわかっていたからだ。
リカが片桐検挙を知ったのは昼近く、原稿の受け渡しに蒼太郎が出かけた合間だった。4歳になった娘・亜希子の手を引いたリカと碧生蒼太郎、そして5歳の息子・光を連れたさやが片桐のアトリエに着いた時は、室内は既に荒らされ、巡査が厳重に見張っていた。
「何だお前達は」
「いえ、子供達がよくここの家の人にお菓子をもらったというので」
「そうか。だがこれ以上お前達には関係ない。帰れ」
リカとさや、蒼太郎は茫然と帰途についた。
やがて捜査の手は湯浅神父にも及んだ。彼は友好国イタリア、そしてスペインに本部のあるカトリック修道会の神父だったが、特高から目をつけられている米英系のプロテスタント教会の牧師としばしば親しく交わっていたのが、疑われる要因となった。
目白の教会でのミサ直後に神父は連行された。彼の逮捕はバチカンの知るところとなり、教皇庁から直に抗議が寄せられたため、湯浅は厳しい尋問を受けはしたが数日で解放された。だが目白の由緒ある教会は家宅捜索を受け、幾つものラテン語の文書が押収された。官憲はその内容の解読に大層苦労する羽目になる。
心身共に傷ついて釈放された神父は、修道院預かりの身分になり、都心から離れた修道院の奥で半ば軟禁のようにひたすら祈りと清貧の生活を送る事になる。
一方片桐に対する四ツ谷警察の拷問は苛烈を極めた。ヨーロッパ留学経験があり、海外の共産党員と頻繁に接触し、国内ではゾルゲと逢っていたという目撃情報もある。おまけに小児愛の性癖がありモデルを裸に近い格好にして絵を描く。常に美しい子供が家に出入りしていたという近所の声もある。これら全て取調官の心証を悪くするのに十分だった。
ゾルゲに何を話していたか、行方不明になった混血の良家の子息とはどういう関係か。お前が接触した共産党員を言え。初めからまともな尋問などするつもりもなかった。片桐はいきなり四方をコンクリで囲まれた窓のない地下室に連行され、下着一丁にされ椅子に縛り付けられ木刀で打擲された。叩く所は太ももと脛。そして腹部。全身に渡った。口からは血の混じった胃液や膵液が溢れ、何時間も便所に行かせられず大量の水を飲まされては刑吏が歌いながら拍子をとって木刀で下腹部をで突くので、真っ赤な小便が漏れ出た。
「なんだ貴様、汚ねえなあ」
刑吏が床の小便の中に片桐の顔を付け、ごりごりと皮膚が剥けるまで擦り付け、また髪を掴んでは引き起こし、がんがんと叩きつける。それでも片桐は黙っていた。ここまで来たらもう彼を『社会』に繋ぎ止めておくものはない。特高刑事は舌打ちし、片桐を椅子に座らせた。
「お前はペンは剣よりも強しという言葉を知っているだろうな。なにせ外国帰りのインテリ様だからな」
片桐は殴られ膨れ上がりほとんど塞がった瞼を開いて虚ろな目を上げ、自分の正面に座る刑事を見た。早く殺してくれないか。そうぼんやりと思いながら先刻よりもっとひどい苦痛の嵐が襲い来る前の一瞬の静けさを体感していた。
「でもペンっていうのは握って書いて、初めて強さを発揮するもんなんだ。残念な事にな」
刑事は片桐を押さえつけている部下に眼で合図を送った。縛られ縄のすり傷だらけの片桐の掌を、2人の部下は左右から取り調べ台の上に置き、力づくで広げた。
刑事は無言で銃を抜き、笑みを浮かべて片桐の額に当てた。当時の警察は銃の絶対数が足りず、武装ゲリラや暴力団体から押収した銃や弾をそのまま使う事もあった。おまけに樹脂製などではなく金属製だ。当然小さな拳銃でもずしりと重い。これで楽になれると片桐が目をつぶった瞬間、刑事はくるりと銃を回し、その固い台座で力任せに片桐の掌を砕いた。骨の破砕する音と片桐の擦れた叫び声が響いた。
「うるさいよ、ジェントルマン殿」
刑事はうそぶくと、もう一方の掌にも渾身の力を込めて銃を叩きつけ、骨をへし折った。
「こうすればペンを握るのもなかなかに不自由だろう。違うか? おや、まだ書けるのか。そうか」
刑事は再び部下に指示を出し、骨が砕かれぐにゃりとした片桐の手の、指を一本一本真っ直ぐに伸ばした。そしてその指を順番に銃の台座で潰していった。




