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深い河・2

 市電を降りて江戸川橋から目白に向けて坂を上がる、その道沿いの街並みは少しも変わらない。坂の途中には、カトリック教会が孤児達の自活のために建てたパン屋が相変わらずいい匂いをさせて賑わっていたし、坂沿いの瀟洒なお屋敷も、冬の陽に庭の木々の紅葉が映え、穏やかな山の手の街の景色を見せていた。ただ一つ変ったのは、院長の逮捕されたサナトリウムの入口の門には警官が何人も立っている事だ。

 患者の家族であるとを告げ中に入ろうとした碧生達は誰何され、中庭で止められた。建物の中には患者とごくわずかな職員以外、入る事は許されないようだった。それを告げる憲兵の強い口調が、前院長・徳永医師の逮捕案件への危機感を示していた。


 入所中は自分の庭のようだった英国庭園風の中庭で、碧生とリカと幼い亜希子、間宮ゆふはヨハネを待っていた。自分も過ごしたサナトリウムの変わりように、碧生蒼太郎は愕然としていた。常に専属の庭師がいてよく手入れされ、木々も季節の花々も溢れ返り生命力に満ちていた庭はもうない。草木に囲まれて座っているだけで病んだ肺に緑の滋養成分が染み渡るような心地よさだったベンチも、ブルジョワの利用者が豪華な軽食を持って来させ、光を浴びながらランチを楽しんでいた大理石のテーブルも今はない。木のベンチも雨に打たれ風にさらされ、手入れをする人のないままに放置されている。建物全体も荒れてくすんで見える。もう大半の利用者が退所し、残っているのはヨハネ達ごくわずかの患者だけだった。


「おかあちゃま、ここなんか怖い。絵本のお化けが出るお家みたい」

「大丈夫よ。あまりお掃除できないから怖く見えるだけよ。ヨハネおじちゃまをもう少し待ちましょうね」

「おじちゃまって呼ばれるの、結構堪えるねえ、姉さん」


 突然近くから声がして、一同は驚いて腰を上げた。健康そうな白い歯を見せて笑顔の青年が立っている。しばらく見ないうちに見違える程身長が伸びたヨハネだった。


「え、ヨハネ……君?」

「貴方ちょっと見ないうちに大人っぽくなって」


 蒼太郎と姉のリカが驚いているうちに、母のゆふがさっと息子を抱きしめた。小柄なので腰にしがみつくセミのように見える。


「ヨハネ、車椅子は大丈夫なの?」

「ああお母さん、もう大丈夫だよ。近頃めっきり体調がいいんだ。背中も大丈夫だし長い時間立ってもいられる。重いものだって持てるし咳もほとんど出ないんだよ」

「それはよかったけど男前になりすぎて分からなかったわよ」

「やめてよ。でも背筋が伸びて実際背も伸びてるし、職員さんがいないから自分の事や人の事もさっさとやるようにしたら、筋肉がついてきて」


 ほら、とセーターの袖をまくって見せたヨハネ青年の二の腕には、数年前のぽっきり折れそうなか細さはなく、うっすらと固い筋肉がついていた。

 蒼太郎に挨拶をし、姉のリカもぎゅっと抱きしめたヨハネは、義兄に気づかれないよう姉の耳元にささやいた。


「痩せたね、姉さん……」


 サナトリウムからの帰り道、碧生達は幸せな気分に満ちていた。特高に監視されてはいるが、それはもう仕方のない事だ。

 ヨハネは回復を喜ぶ家族に言った。


「もう大丈夫だって、院長に代わって来たお医者様も仰っていたよ。近々退院できるよ。家に帰って働き始めるから、お母さんも義兄さんも姉さんも心配しないで」


 そして幼い姪の亜希子を抱き上げて


「この近くに美味しいフランスパンのお店があるんだ。そのパンをお土産に持って、おじさんはおばあちゃまの家に帰るからね。亜希子ちゃんも楽しみに待ってて」

「わあ、ありがとう。亜希子は『じゃみぱん』がいいな」

「有り難いけどおばあちゃまは余計だわ」


 すましてずんずん歩く若いおばあちゃまの背後で、娘の手を引いた蒼太郎とリカは笑いをこらえた。義弟が退院して来る。そして母のゆふと一緒に住んで手に技術をつけて働き始めるという。逞しく成長したヨハネを皆が頼りにしたがるのは無理もない事だった。

 と、軽くこほんと咳こんだ蒼太郎が、失礼と呟いて道沿いのお屋敷の生け垣に走って行った。軽い咳だと思ったら、振りむいた蒼太郎の口元から顎に、一筋の血が垂れていた。


「先生!」


 ハンカチーフで口をぬぐって、ふらつきながら大丈夫だよと言う夫に、リカは駆け寄った。


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