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深い河・1

 ドイツのポーランド侵攻を電撃戦と称したが、イギリス領マレーを攻めながら南下する日本陸軍の進軍速度もまた、イギリス植民地軍の予想をはるかに上回るものであった。

 日本軍を侮り油断していた英連邦軍の慢心が、またその進軍を手助けする結果となった。 

 1942年(昭和17年)2月15日、破竹の勢いでマレー半島を侵攻しシンガポールを攻め落とした日本軍は、彼らが想像だにしない数万人のイギリス・イギリス植民地軍の捕虜を受け入れる事となった。マレー作戦全体の戦力は日本軍が35000人、イギリス・オーストラリア・英領インドの連合軍が88600人と伝えられる。

 兵站軽視で自分達の糧食や水も充分とは言えなかった日本軍にとって、数万人の捕虜の後方移送、収容する施設建設は重い負担となってのしかかった。何より、それだけの人数が残りながら降伏するという事が日本の軍人達には理解できず、イギリス軍捕虜への蔑視に繋がった。

 

 一方日本では各地の都市で戦勝パレードが目抜き通りを彩り、にぎやかなお祭り騒ぎが繰り広げられていた。碧生の隣人の柘植さやは、自分の息子・光と碧生夫妻の娘・亜希子の二人を連れて銀座や日比谷の戦勝行列を見にいった。彼女は多忙な碧生夫妻に代わり隣組の『南方米の美味しい炊き方講習』に行ったり、両家の子供の面倒を見てくれた。リカの母親のゆふも、戦争が始まっても変わらずお洒落で突飛な洋装を着こなしては、気紛れに娘の書斎に顔を出し、孫の面倒を見てくれた。

 リカは、若い頃は自分勝手で唯我独尊過ぎると毛嫌いしていた母が、実は自分をしっかりと持った芯のある女なのだと気づいて、何となくばつが悪かった。私は母親のようになりたくない。男に寄生し男を利用して生きる女にはなりたくない。そんな粋がっていた若い頃の自分が、逆にとても浅はかに思えてきたのだ。いい加減と思われていた家計管理も、記者だった父が残した貯金の利息管理や生前に購入していた土地の地代の管理できちんと賄い、地域の婦人部の活動や民間の慈善事業にも参加する。勉強と執筆活動ばかりの自分よりも、余程世間一般の女性としての経験を積んでいる。そう思うとリカは何を自分の反骨精神の拠り所として良いのか分からなくなっていた。

 夫の碧生蒼太郎は静かに欝々と過ごしていた。机に向かう時間は沢山あるし新作を書き貯めてはいる。しかしそれが出版される望みはほとんどない。碧生が書きたい、本来得意とする耽美な詩や随筆は見向きもされないし、どこの出版社に行っても時間がないと原稿を受け取ってすらもらえない。せっせと書いた「幻の新作」が貯まっていくだけだった。


 珍しく木枯らしも吹かぬ冬の日。編集部との打ち合わせから戻ってきたリカは路地に立ち込める焦げ臭い臭いに顔を上げた。このところ彼女はすっかり背を丸めて、下を向いて歩くようになっていた。


「おかえりリカ」

「おかえりなさいおかあちゃま」

「おかえりなさいリカお嬢様」


 夫の蒼太郎、娘の亜希子、隣家の柘植家の息子・光が三者三様の挨拶をしながら、玄関先の焚火を囲んでいる。庭の植木の葉はもうすっかり落ち切っているのに、何か燃やすものがあったのだろうか。


「ただいまです。焚火なんて珍しい。焼きいもでも?」

「そうだよ。南方で栽培されたサツマイモだって。こうしてじっくり焼いているんだ」


 絣の着物にマフラーを撒いた蒼太郎が青白い顔を上げた。このところ食べたくないとろくに食事をとらないのでまた一段と痩せたようだ。


「蒼太郎先生も食べるのでしょう?」


 妻はいまだに夫の事を先生と呼ぶ。もう口についてしまって替えられないのだ。


「君達が沢山食べなさいよ。僕はあまり食べたくないんだ」

「だめよ」


 何を燃やしているのだろう。ふとぱちぱちとはぜる炎の下を見ると、壊れた桶や枝打ちした庭の木の小枝や松葉に交じって、何やら文字が見える。手紙か何かだろうか。 更にのぞきこんでリカは仰天した。それは碧生の字だ。そして燃やされているのは物語が書かれた原稿用紙だ。


「原稿を燃やすなんて、先生。だめよ」

「構わないさ。むしろこうした方が気が楽で居られる」

「でもそんな……大事な貴方の作品でしょう、なんでこんな事を」


 リカは慌てて燃え残りを枝で掻き出そうとしたが、夫が止めた。子供達はきょとんと彼らを見ている。


「いいんだ。書いても家族やさやさん以外誰の目に触れるわけでもない。世に出る見込みのない文章ばかりだ。こうしてお焚きあげする方が僕も落ち着く」

「何を言っているの。先生の血や肉や、心の一部でしょう。それを書くのに貴方がどれだけ血を流しているか……」

「それがどうした?」


 蒼太郎の静かな声に、リカはハッとして子供達を抱き寄せた。


「人に読まれる見込みのない物を部屋に置いている事が、それがどんどんたまっていくのが、それを日々見るのがどんなに心痛いか。君は分からないだろう」


 碧生は懐から最後の原稿用紙の束を取り出すと、ばっと火の中に放った。炎と火の粉が瞬間上がり、灰がフーっと赤く染まり火がその勢いを増した。


「必用な事は全部頭の中に入っている。このご時世だからと僕を切る奴らには、時世が代わったら改めて傑作を見せてやるだけだ。それまではくだらない叩き台を書いて糊口をしのぐか、君の書く児童文学の清書を手伝うさ」


 さ、もう少しで芋が焼けるよ。焼けたら家に入って食べよう。子供達と妻にそう声をかけると、碧生は明るく笑った。

 確かに今は童話や児童文学を何作も抱えるリカの方が、収入の面では勝っている。心無い文壇人から『力関係逆転夫婦』と揶揄されている事は、恐らく碧生の耳にも届いているに違いない。だからこそ妻のリカは悔しかった。自分が未来ある子供達の為に、街で生き生きと暮らす娘達や、蒼太郎の幼い頃に題材をとった悪戯坊主のお話を書いて人気が出るのは、それは嬉しい事だ。だが夫が文壇から半ば追放されるというのは思いもよらなかった。

 とはいえリカには書きたい題材が山ほどある。お話は次から次へと湧いてくるし、編集者の覚えも目出度いし刊行された本は売れている。作家としてというだけなら、彼女は最高に充実している。だがそれは全部が望んだ通りではない。彼女はどうしたらいいか分からなかった。だが日々の生活は続く。悲しい事も寂しい事も、虚しい事も、原稿用紙に向かえば忘れられた。子供の面倒は夫と母親が見てくれるし、仕事に集中できる環境ではある。しかしそれが自分の望んだ生活かというと、違うとしか言えなかった。


 一方特高警察では、逮捕されたソビエトのスパイ、リヒャルト・ゾルゲとその関係者の取り調べが進んでいた。ドイツルートも徹底的に調べられ、拷問死した片桐や一度は逮捕された湯浅神父と親しかったという事で、碧生夫婦にも取り調べの手が及ぼうとしていたが、不思議と監視されるだけで逮捕はされなかった。近衛内閣当時のブレーンの文章作成担当、という肩書が効力を発揮したのであろうか。

 だが三人と親しかった作家の徳永医師は逮捕され、目白の豪奢なサナトリウムも閉鎖されるとの報が、碧生達の耳に入ってきた。今は隣接した教会が運営を手伝っているが、患者達は続々と他の病院に転院させられているという。それを知った碧生とリカはやりきれなさを感じた。

 結核が悪化し人生に希望も持てず、ひたすら漠然と暮らしていた自分に手を差し伸べてくれた恩人。自分の才能を認めて最高級の医療と環境を無償で与えてくれた徳永医師。それはリカにとっても同じだった。入院患者の姉である自分とその友人の絵師の破天荒を面白がり、自由に出入りさせてくれた上に、庭園を舞台に好き勝手な写真を撮らせてくれた。それは片桐のメランコリックな趣味全開のものだったが、間違いなく彼女の一番美しい瞬間を切り取ったものだ。そしてリカと碧生は出会う事が出来た。

 まだ入院中のヨハネも心配なので、碧生夫婦とリカの母親はサナトリウムを訪ねる事にした。


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