根無し草の見た夢
1937年(昭和12年) 夏。北平(北京)西南の豊台地区には日本の陸軍第三大隊および歩兵大隊が展開し、国民革命軍第二十九軍と相対していた。7月7日夜は盧溝橋付近において両軍周知のもと夜間演習を行われる予定である。
ところが午後10時40分頃、中国兵が日本軍に向け実弾を発射したとの報が入った。事態を重く見た北平の部隊は事態の収集を図るべく交渉を申し入れたが、交渉中の翌8日朝四時過ぎ、集結中の日本軍に中国軍より迫撃砲と小銃による掃射が浴びせられ、両軍は衝突した。盧溝橋事件である。
日中の戦闘の端緒が切られた事は日本ですぐさま報道された。夫の柘植譲二が2・26事件の報復人事として一兵卒に降格され、所属の歩兵第三連隊ごと満州のチチハルへ派遣されている妻のさやは、幼子を抱えただ胸を痛めていた。
8月、四ツ谷舟町の碧生家では妻のリカが産気づいていた。夫蒼太郎の反対を押し切って、産み月ぎりぎりまで依頼された原稿を書いていたリカは、ようやく書き上げた原稿を送ろうと近所の郵便局に出かけたところで、下半身に違和感を感じた。
洋装では既にせりだしたお腹に合わせられなくなっていたから、彼女は白い長じゅばんに薄い絽の着物、半幅帯を胸高に緩く締めていた。吹きだす汗を拭き郵便局を出てすぐ、水風船を破裂させたような衝撃を体内に感じ、水が太ももの付け根のあわいからほとばしり出た。思わずしゃがみ込み考えたが、混乱して状況が自分でもつかめない。
尿ではない。これはもしかしたら。
「破水じゃ、奥さん」
局舎から出てきた郵便配達の職員が慌ててリカの体を支え、手空きの女子職員と、通りがかりの近所のご婦人が家に連れて行った。
碧生や、背中に息子・光をおぶった柘植さや、連絡を受けて来たリカの母が、駆けつけた産婆の指示の元布団を敷き、汚れてもいいボロ布を大量にひき、水を汲んで湯を沸かした。
ベテランの年老いた産婆は陣痛に苦しむリカを見ながら落ち着いて言った。
「そんなに慌てなくても大丈夫ですよ。初めての子は時間がかかりますから。破水したのでそりゃ普通の初産よりは早いでしょうけど」
そんな産婆の予想を裏切る勢いでリカのお産はみるみる進んだ。額にびっしりと汗をかき陣痛に苦しむ妻を前に、夫の碧生蒼太郎はうろうろするばかり。せめて額の汗だけでも拭いてやりたいと手拭いを持って妻の元へ近寄ったが、
「お産は女の大仕事です。無事生まれましたよどうぞと呼ばれるまで、殿方は待っていてください」
と背中を押されて、産室代わりの六畳間から追い出された。産婆や母と共にリカに付き添うさやから託された幼子・光を抱っこしたまま、ここで待っていなさいと指示されたリカの生家に引っ込んだ。そこにはリカの母が作り置いた食べ物もあったし、広めの室内で光を遊ばせる事もできた。蒼太郎は妻の心配をしながら、お昼寝と寝かしつけた光と一緒に眠ってしまった。
破水から約半日。夕方5時、碧生リカは大声で泣く元気な女の子を生んだ。産湯を使い、涙で顔がくちゃくちゃの新米母の隣に寝かせられた娘は、驚くほど夫の蒼太郎に似ていた。駆け付けた夫は、顔に畳の跡をつけながらへなへなとくずおれて泣いていた。『泣き虫な両親だなあ』口がきけたら赤ん坊はそうつぶやいたに違いない。
出産の一報を聞いて駆け付けた絵師片桐・湯浅神父、そして泣き虫の新米父親は、生まれたばかりの赤ん坊を『亜希子』と名付けた。文字通り東亜に平和という希望を繋ぎたい人々の願いだった。疲れ切った新米の母親リカも微笑みながら了解した。
1939年(昭和14年)9月1日未明、ドイツとその同盟国スロバキア共和国軍は、南北に分かれながらポーランド国境を突破し東へ進んだ。同年のチェコスロバキア割譲で、ボヘミアの豊かな鉱物資源と、戦車の生産施設を手に入れたドイツは、高速の戦車を主体とした機動部隊を編成していた。
驚異的なスピードで兵を進め、ポーランド陸軍はソビエト国境近くまで追い詰められ留まった。電撃戦と称されるドイツの戦車の進軍スピードに対し、ポーランド軍は未だ、馬に乗った騎兵が突っ込んでくる状態であった。
同盟国であるイギリスとフランスがドイツ軍の背後から援護してくれるのを抗戦しつつ、ポーランド軍はじっと耐えて待つ体制に入ったのである。間もなく世界の全面戦争と発展していくこの戦いを、ポーランド・ドイツ戦争と呼ぶ。
9月3日、ポーランドの同盟国であるイギリスとフランスは相互援助条約に基づきドイツに宣戦布告をした。ここに第二次世界大戦が始まった。
ヨーロッパと、日本が中国軍と戦う大陸での血の匂いが、風に乗って日本上空まで到達するのに時間はかからなかった。
1940年(昭和15年 )大粛清の嵐が吹き荒れ、百万人単位での逮捕・銃殺、流刑が行われて国の維持に重大な支障をきたすようになっていたソビエトに、人事面での異変が起こった。ゲンリフ・ヤゴーダを「粛正が生ぬるい」と拷問・処刑しソビエト国家の治安組織の全権力を奪ったニコライ・エジョフが、今度は公的な場から引きずり降ろされたのだ。定期的に組織の上位にあるものを粛正して取り替えてゆくスターリンにとっては常套手段で、何も珍しくはないのだが、当事者にとっては迫る死の恐怖に怯える事になる。
エジョフシチナと呼ばれたソビエト内部人民委員部と国家政治保安部を総動員した粛正の嵐はソビエト連邦そのものを機能不全一歩前まで追い込んでいた。勿論それはスターリンの意図を十二分に受けたエジョフの忖度だったのだが、スターリンは彼に全責任を押し付けた。
赤軍の内部粛正は特にひどく、大佐クラス以上の軍人の処刑率は65%に及んだ。軍司令官に至っては15人中13人が銃殺、兵士を監視する為派遣される思想将校である政治委員にしてからが2万人、共産党に籍を置く赤軍兵士に至っては元々30万人いた者が1938年までに半数の15万人が処刑された。この指揮官不在の状態で、1941年には独ソ戦を始める。
エジョフは極東ハルピンから引き揚げてきたソビエトの人間も「日本のスパイ」と決めつけ何万人も処刑した。モスクワに渡った槇村と佐田が姿を消したのはまさにこの頃であった。 まもなくスターリンは、常に傍に置いて行動を共にしていたエジョフを徐々に遠ざけるようになっていった。エジョフの栄光は実質1年半しか持たなかった。
1938年8月、ラウレンチー・ベリヤが突然政治将校として内務人民委員代理についた。彼は疑心暗鬼で仕事どころではない状態のエジョフからNKVD長官としての仕事を奪い始め、11月にはスターリン自らエジョフを批判し始めた。彼にとってそれは処刑命令の様なものだった。この手順を踏まえて、何人もの高官が濡れ衣を着せられ残忍な拷問の末処刑されたのを彼は知っている。なぜなら自分が笑いながら命令を下したからだ。それが今自分の身に迫っている。恐怖でアルコール中毒になるまで酒に溺れたエジョフは夫人を疑い、自らの手で粛清した。彼はスターリンに直接会って弁明をしたかったがスターリンにとって彼はもう用済みだった。
11月25日、ラウレンチー・ベリヤが正式に内務人民委員NKVD長官に就任し、翌1939年3月初め、ニコライ・エジョフはソビエト人民委員会の全役職を解任された。それが何を意味するかはエジョフ自身が一番よく知っていた。彼は拷問と死に対する恐怖で殆ど廃人のようになった。あとはスターリンが気まぐれに逮捕状にサインを出すだけであった。
1939年4月10日、ついにニコライ・エジョフに逮捕状が出た。自分が君臨した組織によって逮捕され、自分が数え切れないほどの被害者を送り込んだ刑務所に、彼は送り込まれた。護送される際も酒浸りの上恐怖で足がすくみ、だらしなくかつての部下に引きずられていったという。
「血まみれのこびと」と呼ばれたエジョフは拷問の苦痛に泣き叫んだ。そして簡単に「自分はスパイである」と(嘘の)自白をした。かつてあれほど自分で拷問の手を下すのを好み、考えうる限り最も残忍な方法でスターリンの政敵を始め、無実の人々、一般市民や労働者まで殺してくださいと叫ばせるほど容赦のない拷問を加えてきた男は、いとも簡単に吐いたのである。
1940年2月3日、ベリヤが監獄から執務室に呼びつけ罪状を読み上げると、見るも無残に変わり果てた姿のエジョフは泣き崩れ、なおも否定した。
「レオ君、入りたまえ」
ベリヤが馬鹿に仕切った表情でエジョフに目を走らせ、証言者の入室を促した。ドアが開き、カツカツと長靴の音を響かせて入ってきたのは、NKVDの制服に身を包んだ美しい混血の青年、レオ・フジミであった。端正な顔の大きな目に嫌悪の表情を浮かべ、床に這いつくばる拘束されたエジョフを一瞥し、レオはベリヤの前に立った。エジョフの眼に涙が浮かび、だらしない嗚咽が漏れ聞こえた。
「君はアジアからの優秀な留学生で、我々の組織に一員に迎え入れられたわけだが、ここにいる男に妙な真似をされたかね?」
「長官、それはお答えしなくてはなりませんか」
「ああ。調べはついている。だが君の口からはっきりとした証言がほしい」
「……自分は極東日本及び沿海州で、この男に命じられた通り我が国のスパイの監視及びアジアからの移民の中から危険思想の持ち主の選別および逮捕に従事しておりましたが、この男は……」
「どうした。言いたまえ」
ベリヤは同性愛の趣味こそなかったが猟色で有名で、エジョフに劣らぬ変態性愛者であることは知れ渡っていた。生粋のサディストとして、今レオ青年の明るい色の瞳に浮かぶ苦悩を楽しんでいる事は確かだ。
「自分は、極東アジアから来た者は日本のスパイだ、だが自分のいう事を聞けば家族と自身の命は助けてやると言われ、何度となく変態的性行為に及ばれたものであります」
「それは何度か」
「10回程度だったと記憶しております、長官」
「分かった。ご苦労だった。下がってよろしい」
記録に残るエジョフの容疑には『同性愛的、異性愛的に変態行為を強要し、好んだ』という点があるが、今日の調査においても幾多の証言や証拠からそれは事実だったと認められている。
同性愛の相手を強いられたと証言したレオ・フジミNKVD隊員が下がると、ベリヤは悪名高い裁判官ヴァシリー・ウルリヒを呼んだ。あらかじめこの執務室内に控えていたウルリヒは、エジョフの顔見知りの同業者でもあった。映像などで残るナチス・ドイツ悪名高い裁判官・フライスラーと同様の高圧的で残忍なでっち上げ裁判官である。
鼻水と涙でぐしゃぐしゃのエジョフに、ウルリヒは死刑判決を下した。獣の様に泣き喚き吠えるエジョフは引きずり出され、翌2月4日銃殺された。即座に火葬された遺灰はモスクワ市内の墓地にうち捨てられた。
同じ2月4日、モスクワ市内のエジョフの自宅に踏み込んだのはレオ・フジミNKVD隊員とその部下ら数人だった。逮捕時やその後に既に捜索を受け荒らされ切った室内だが、彼らはレオの指示の元、天井から壁紙の影、床の建材まで引っぺがして調べ始めた。エジョフの写真や2人の妻、養女の写真の額が隊員達によって割られ、踏みつけられ転がっていた。やがて隊員の一人が壁の洗面台のパイプの中からある物を発見したと知らせた。
「すぐ行く」
エジョフのマンションの粉々に打ち砕かれた洗面台、その下のパイプを切断し、初めて発見された物。茶色の封筒とビニールにくるまれ、ぎりぎりと固くねじった紙類。それはエジョフが毒牙にかけた犠牲者の屈辱的な写真だった。レオは自分の写真が組織によって発見されるのを恐れたのである。
巧みに封筒の中から自分の裸にされた写真を抜き、打ち砕かれた浴槽の中で火をつけて燃やした。ライターで火をつけ、簡単に燃え上がっていく写真を、彼は空虚な思いで見つめていた。
「さあ証拠は発見した。行くぞ」
他にも撮影されていた犠牲者、美しい若者達の写真を手にレオは立ち上がり、床一面にばらまかれた写真を踏みつけて部下と去って行った。これらのレオにとってはどうでもいい、100万人単位の拷問写真は後程ベリヤの別の部下が集めに来るだろう。
それら犠牲者の写真の中に、アジア人の顔があった。よく見ればレオにはわかるはずの人間達だ。痣と傷で風船のように脹れ上がり、鼻骨は折れ、目も内出血でほぼ塞がり、変わり果てた劇作家・槇村良吉と女優・佐田芳子であった。彼らは印画紙の中からじっと虚空を睨みつけていた。
日本国内でも、ソビエトに渡った槇村と佐田が粛正にあって処刑されたという噂が、コミンテルン派を中心に流れて来た。共産党は必死にソビエトを擁護し噂を打ち消そうとしたが、ソビエト連邦内に渡ったまま行方知れず、連絡が取れない同士が何人もいるという事実は隠しようが無くなってきた。そしてその噂は特高警察の知るところとなり、2人のソビエト渡航の手引きをしたと目される片桐は捜査対象に上った。特高警察は何人もの要注意人物をソビエトに渡らせた『ドイツルート』について調査を始めた。
1941年昭和16年10月18日、第3次まで続いた近衛内閣は軍と外交のパワーバランスを御しきれず突然瓦解し、第四十代内閣総理大臣として任命されたのは、陸軍主戦派の東條英機であった。以降東條は首相、陸軍大臣、内務大臣の三つの要職を兼ね、絶大な権力を振るう事になる。
同日、ソビエト軍GRU労農赤軍参謀本部第4局のスパイ、リヒャルト・ゾルゲは東麻布の自宅で逮捕された。彼の仲間で元朝日新聞社記者の尾崎秀実はこれに先立つ10月15日、彼がブレーンを務める近衛内閣が瓦解する直前、目黒区の自宅から逮捕されていた。
既に10月10日に逮捕されていたアメリカ共産党員の宮城与徳の国内における行動から、彼の出入りしていた四谷の小道具商も捜査対象に上がった。ゾルゲや尾崎に直接的、思想的に連なると目された者は次々と拘束され、厳しい尋問を受けた。古物商店主のドイツ人、マダム・ブコウスキーは姿を消し、店は徹底的な捜索を受けた。楽譜や楽器、レコードは壊して中まで調べられ、店の中は破壊され尽くした。
客の中に学校をさぼって頻繁に出入りしていた不良中学生の混血少年がいる。取り調べを受けた店の顧客達は次々に証言した。よく目立つ美しい少年は確かロシアの血が混じっていて外国の文学や音楽に興味を持っていたと。
彼、富士見レオ少年の身元は簡単に割れ、日本のカトリック中学校を休校しヨーロッパに留学した事、美術商の両親は商品の買い付けの為長期間外国に逗留中な事も判明した。
両親はポルトガル領マカオで拘束され、日本の官憲の取り調べを受けた。ポルトガルは第二次世界大戦中、中立の立場をとり続けた国であった。彼らは泣きながら訴えた。息子はまだ世間知らずのほんの子供な事、ゾルゲというドイツ人とは家は近所だが出入りはさせていなかった。だが、正体不明のとある日本人の手引きで、レオ少年がゾルゲの屋敷に出入りしていた事実が明らかになり、マカオに留められた両親へも厳しい取り調べが為された。だがその厳しさは国内の特高刑事の暴力に比べればごく軽いものであった。
富士見レオの両親はいずれもドイツ・ロシアの血を引いており、日独伊三国軍事同盟、日ソ中立条約を結んでいる手前、事を荒立てたくはなかった。
「あの子は子供です。好奇心を利用されたのです」
父親はそう特高刑事に訴えた。
「一生懸命勉強して、見聞を広めて商売の後を継ぐよと言っていたんです。誘拐されたようなものです。あの子の国際旅券でも狙ったのだと思います」
「レオを助けて下さい。スパイに利用されて殺されているかもしれない」
両親にとって富士見レオ少年は、伸び盛りの長身と長い手足を窮屈そうに中学の制服に包んだ、音楽と勉強が得意なまだ可愛い子供だ。我が子に降りかかった想像を超えた事態に、両親は半狂乱になった。
「そうだ。一人心当たりがあります。うちの子に近づこうとする男がいたと」
父親は旅券や大事な書類の中から一通の手紙を取り出した。それは我が子レオと一緒にヨーロッパで姿を消したという、息子の忠実な子守『みかねえ』からの手紙だった。
富士見レオに近づいた男の情報はすぐ日本の特高に連絡され、国内の捜査が始まった。両親は入国禁止処分とされ、戦後まで日本の地を踏む事はできなかった。彼らの経営する国内の店舗や屋敷は没収され、彼らは海外資産を頼りに、留められていたマカオから船でアメリカに渡った。以降、レオの両親は死ぬまでアメリカ連邦局の監視が付けられる事になる。




