ゲルニカ
2・26事件と言う帝都を揺るがす事件で幕開けした昭和11年(1936年)は暮れ、昭和12年(1937年)が明けた。
ベルリンオリンピックはとうに終わり、国際社会の関心は工業の発達と貿易拡大にシフトしつつあったが、スペインの内乱は広大な国土を分断し終わる様子はなかった。多くの国がそれぞれの思惑を持って参戦し、州ごとのつぶし合いの様相を呈してきた。
1937年(昭和12年)4月26日。
この日は日曜日で、バスク州の古都ゲルニカの人々はいつもの日曜日を迎えていた。戦争は起こってはいるがゲルニカの街から遠く、同じ州のビルバオやドゥランゴの空爆の話を聞いても、この街は大丈夫だろうという根拠のない安心感が漂っていた。
午後4時30分、フランコ軍配下の飛行部隊の指揮官ルドルフ・フォン・モロー中尉の駆るハインケルが、ゲルニカ駅上空から50キロ爆弾を投下した。それが虐殺の合図だった。イタリア空軍機6機を含む12機がゲルニカ上空から一斉に市街に襲い掛かり波状攻撃を加え始めた。街の中に炎とがれきの壁で閉じ込められた住民達に逃げ場はなかった。
爆弾や焼夷弾(最新鋭のナパーム弾が史上初めて実戦で使われた)を投下し終えた機体は発進した二か所の空軍基地にそれぞれ戻り、弾の補充をしてまた爆撃と機銃掃射に戻った。
焼夷弾とは爆弾の中に粘り気の強いゲル状の発火体ナパームを詰め、それが爆発四散すると炎の滴となって飛び散り、建物や木々、人間に付着したまま超高音で燃え上がるものだ。戦略の為に戦闘に参加していない一般の市民を大量に殺す。第二次世界大戦で行われる殺戮がここでリハーサルとして行われていた。
3段攻撃は3時間以上続き、イタリア空軍とドイツのコンドル軍団が全ての爆弾を投下し終えて飛び去ったのが夜の7時30分。夜の9時半頃に連絡を受けて向かった外国の報道機関タイムズ、デイリー・エクスプレス、ロイター通信、ス・ソワールの4社の特派員がゲルニカの街に到着したのが翌4月27日の深夜2時。この時点でもまだ街は一面赤々と燃え、爆撃や機銃掃射で殺された住民の体がそこかしこに転がり、ナパームを浴びて燃えていたという。
バスク地方最古の街の一つ、美しい古都ゲルニカは、こうして破壊しつくされた。その様子はロイターの記者ジョージ・スティアがいち早く伝え、世界に衝撃を与えた。死者数ははっきりしていないが2000人から100人と、フランコ軍・反フランコ派のそれぞれの調査により大きな幅がある。現在では300人前後だろうと言われているが詳細は不明である。
日本での報道は甚だ乏しい。ゲルニカ爆撃に関しては東京朝日新聞も、東京日日新聞も報じていない。唯一大阪朝日新聞のみが「サン・セバスチャン29日發」という短い一報を載せている。東京朝日新聞はそれまで盛んにスペイン内戦について報道してきたが、この爆撃を記者が取材をした事をフランコ軍に知られ、後にスペインを出国する際足止めされたという。そしてその取材記事が日本国内で発表されることはなかった。
これは大量虐殺の始まりであった。ゲルニカ空爆以前にもバルセロナや他の都市への爆撃はフランコ率いるファシスト軍、人民戦線軍の双方からあったが、空を牛耳ったものが無抵抗の市民を虐殺していくという本格的な焦土戦、対市民戦略爆撃・航空戦の始まりになった。
空はもはや神聖な美しい空間ではなくなった。上から人々に炎を落とす悪魔の階段になっていた。世界中の、空を愛するパイロットはここに一つの時代の終わりを体感した。日本の小さな元パイロット、碧生蒼太郎の愛する空は否応なく大量虐殺の『道具』として利用されていく事になるのである。




