鉄の鳥籠・2
「おはようお嬢ちゃん、お坊ちゃん。ちょっと開けてくれない?」
朝も早くから玄関で呼びかける声が聞こえる。
「はあい」
眠い目をこすりながら出て行ったリカは、戸を開ける前にしばし外を窺った。特高警察にパートナーが追われた恐怖がまだ拭えていないのだ。
「……どなたですか」
「私よリカちゃん。貴女のママンよ。この声を忘れたの」
寝起きの悪い母親が牛乳屋や行商の八百屋と同じくらいの早い時間に訪ねてくるなんて、天変地異でも起こるのだろうか。しかも何て弾んだ声出しているのよ。
「お母さん早いわ。私まだ寝てたんだけど今玄関に出なきゃダメ?」
「ダメ。この子がまだ温かいうちに」
「この子ってなあに?」
木戸を開けたリカは悲鳴を上げた。洒落た銘仙の袷を着た母が、鼻先にしめたての鶏をぬっと突き出したのだ。悲鳴を上げた娘は顔を覆ってしゃがみ込んでしまった。
「リカ、どうしたんだ!」
はだけた寝間着姿で飛び起きてきた碧生は、玄関先で悲鳴を上げ続けているリカを抱き起し、きっと母をにらみつけた。
「どなたですか。いったい何を」
「あら私とは初対面だったかしら。碧生の坊ちゃん先生。この子の母親でございます」
「お母様……お初にお目にかかります。で、お嬢さんに一体何を」
「それはこっちの言葉ですよ。うちの娘に一体何をしてますの。お体悪いくせに。だからこうして滋養のために、出入りの鶏屋から飛び切り新鮮なのを買ってきたんですよ」
またまた碧生の鼻先に、がくりと首を垂れて目を閉じた鶏を突き付けたものだから、彼もひきつった悲鳴を上げた。
「あら召し上がらないのお嬢ちゃん」
「朝からこんなの食べられるわけないじゃないの」
「朝って言ったってもう10時過ぎじゃないの。充分お昼兼用よ。せっかく殺したてのを買ってきたんだから食べなさいよ」
無理よ、と首を振る娘と彼氏先生の目の前のちゃぶ台には、なるほど、朝っぱらから食うにはきつい「鶏のポトフ」と目玉焼きが鎮座している。
「無理ならスープだけでも。碧生先生も召し上がってよ。これからはより一層体力付けてもらわなきゃいけないんだから」
「すみません、じゃスープをいただきます」
そういって碧生は目の前の椀をとり、ふうふう吹きながら啜った。新鮮な鶏から煮出したポトフスープには肉、青ネギのざく切りと生姜、豆腐と昆布と椎茸が入っていて具沢山だ。これ一杯で充分、起き抜けの胃袋にはもたれそうなボリュウムがある。
しかしさすが朝締め、今朝まで生きていた鶏だ。それを捌いた状態ではなく、わざわざ羽根の着いた生前の姿で持ってくるところに、リカの母のそこはかとない悪意を感じる。
「美味しいですねこれ。後で作り方教えてください」
「貴方に教えるのもいいけどまずはリカちゃんに教えなきゃね。鶏を捌くくらいでキャーキャー言ってちゃ女がすたるわ」
「捌くとかそういうレベルじゃなかったじゃないの」
リカは思い出していた。朝の台所の惨状を。
「本調子じゃないみたいだから教えてあげるだけ。元気になったら自分でもやってみなさい」
そう言った母が目を閉じた鶏の首をつかみ、煮え立ったお湯を柄杓ですくい、さあっとかける。何度かかけて濡れた熱い羽根を手でしごくと、羽毛はぺろりとはがれ、ぶつぶつの皮がむき出しになった。
リカは悲鳴を上げ、吐き気を我慢しきれずバケツを引き寄せた。厠に走っていく余裕がなかったのだ。
慌てて台所に入ってきた蒼太郎がリカを抱きかかえ、またまた茶の間の座布団を重ねた上に横にさせた。
母は、仕方ないわねえ、ちょっとお嬢さんに育て過ぎたかしらとぶつくさ言いながら、包丁で鶏の首を叩き切り、腹を割いて内臓をかきだすと、ダンダンと音を立てて骨を断ち、身をぶつ切りにして先程の熱湯をくぐらせ大きなスープ鍋に入れた。
「どうせあんたの家にはないと思ったから」
と持参した葱の固い青い葉先や丸ごとの生姜、ニンジンの皮なども放り込み、スープをとる。薄めに味付けして他の具材も入れ、肉も軟骨も野菜もとろとろに煮込んだのが、今碧生とリカの前に並んでいる鶏ポトフだ。
「パパがフランスの本で読んだんだって、よく作らされたものだわ。羽根をむしるところから家でやったのよ。意外でしょう」
「うん。お母さんはもっと何も出来ない人だと思っていたわ」
手つかずで冷めていくポトフのお椀を前にして、リカは憮然と呟いた。こら、と蒼太郎が嗜める。
「はっきりした言葉ありがとう。あんたとヨハネが好きだったお雑煮も鶏蕎麦も、こうして作ったのよ」
「それで、どうして急に鶏なんか持ってきてくれたの?なんか狙いがあるんでしょう?」
リカはお椀から立ち上る鶏の匂いを避け、そっぽを向いている。言葉に棘がある。蒼太郎はまずいなあ、と呟いた。
「そりゃもちろん、あんたのおなかで育っている私の可愛い孫と、そこに気まずそうに座って鶏を食べさせられてる、ベビーのパパさんにご挨拶に、よ」
ガリッ
目を丸くした碧生が口にした鶏の骨をかみ砕いた。
「並んだ並んだ。さあ」
「はい、皆さんこっち向いて」
四ツ谷から靖国神社に向かう途中。古い写真館の中は時ならぬ賑やかさに包まれていた。碧生蒼太郎とリカの結婚写真を撮ろうと仲間達が集まってきたのだ。
「リカさん綺麗」
留め袖に、白い乳児服を着せた赤ん坊『ひかり』を抱いた柘植さやがスツールに座り、隣のリカに微笑みかける。その顔はもうすっかり母親の顔だ。
「姉さん素敵だ。本当に妖精みたい」
「こんなお腹に子供のいる妖精なんていないわよ」
「いえ、貴女はいつまでも私のニンフでありファム・ファタールです。おめでとう」
英国製のスーツに身を包んだ絵師・片桐が長身を屈めて花嫁の耳元で囁いた。
彼女の長いベール、花を散らした髪飾り、波打つように下ろした黒髪。肩の大きく開いたすんなりとした白い絹のドレスはおなかや体を締め付けず、だがほっそりとした後ろ姿や美しいデコルテは強調され、エドワード・バーン・ジョーンズの絵画のようなロマンティックなデザインだ。ウエディングドレスにしては少々独創的すぎるのでは、と夫となった蒼太郎は思ったが、これは片桐が幼少からのお気に入りのモデル・リカお嬢さんの為にデザインし縫わせたものだった。
妻の体を心配し気遣いつつ座る蒼太郎は、ドイツ製の生地で仕立てた細身のスーツに手袋、長身に青白い顔で妻の隣で笑っていた。
僧服の湯浅神父、礼装の徳永医師、若々しい礼服姿の弟のヨハネは最近ぐんと背が伸び、身体の調子もよくなってきた。顔は青白いが姉に似て目鼻立ちが涼し気な美男子で、今日も椅子を拒否し母親の隣に立っている。
留め袖ではなく派手なモダン柄の着物を着こなした母の間宮ゆふは
「幸せにね、リカちゃん」
と囁きつつ笑う。母だけではない。皆笑っている。
「それじゃそろそろ撮りますよ、この人形を見て下さい。瞬きをしないで、はいっ」
撮影助手の差し出した人形に目をやり、一同はにっこりと笑った。
「ああ目をつぶっちゃいましたよ」
「碧生先生だめじゃないですか」
「じゃもう一回撮りますよ。これで最後ですよ。はい3・2・1」
昭和11年11月23日。
四ツ谷区の役所に結婚の書類を出した碧生蒼太郎と碧生リカは、写真の中で家族や友人達に囲まれて笑っていた。
印画紙の裏に全員で書いた名前と新郎新婦への一言は、歳を経ても二人の心にあつく沁みるものとなった。




