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鉄の鳥籠・1

 日本人選手・日本支配下の朝鮮人選手がメダルを獲得し、日本のみならず世界を熱狂の渦に巻き込んだベルリンオリンピックは8月16日に閉幕した。開催国ドイツ以外では水泳、陸上など遠いアジアから来た選手達、またアメリカの黒人選手の活躍が目立ったが、その熱戦の模様と選手のしなやかな筋肉美はレニ・リーフェンシュタール監督によってドキュメンタリー映画に仕立てられ、高い評価を得た。日本でも昭和15年の公開時に爆発的なヒットをし、キネマ旬報誌上では一位を獲得している。


 民族と政治とスポーツの祭典が終わり、世界の空にはためくものは国旗とナチスの党旗と戦闘機の翼だけになった昭和11年初秋。柘植さやは男の子を産んだ。

 2・26事件の叛乱軍とされた夫は送られた北支戦線から戻らず、妻のさやは碧生蒼太郎、間宮リカ達隣人、リカの母親、隣組の婦人達に見守られながら自宅で子供を産んだのだった。

 汗まみれになって三日間苦しみ陣痛を耐え抜いたさやは、大きな声で泣く赤ん坊を目にして泣いた。愛する夫、柘植譲二一等兵にそっくりだったからである。

 大声で元気に泣く赤ん坊のへその緒は、産婆の手によって10センチ程残して切られ、くるりと巻いて結ばれた。そうしておけば後は自然にポロリと取れてくる。取れたへその緒はよく乾かして仏壇の引き出しに過去帳と共に入れておくのが通例だった。

 柘植夫婦の質素な借家には立派な仏壇こそなかったが作り付けの神棚があったので、片桐が赤子の名前を書いた懐紙に包んで桐箱に収め、そこにお供えした。

 夫の希望通り、さやは生まれた男の子を「光」と名付けた。読んで字の如く、小さくても良いから、例え一隅だけでも闇を照らす「ひかり」になって欲しいという願いが込められていた。

 碧生蒼太郎・間宮リカのカップル、絵師片桐、湯浅神父、徳永医師らは皆「柘植光」の誕生を心から祝った。


 秋風が本格的に吹く頃、東京の大気は急激に乾燥する。武蔵野の山々から吹き下ろす木枯らしが空気から暖かな湿り気を奪い、替わりに肌にピリピリ来る痛さをもたらすのだ。大気の変化につれて碧生蒼太郎の体調は少しずつ悪化していった。乾燥から来る咳が常態化し体力を奪い、小康状態を保っている結核が悪化してくる。春夏から秋のはじめ、曲がりなりにも普通の生活を送ることができたのは、パートナーのリカを得て心身と生活が安定したからでもある。だが11月、悪化した体を引きずって暗い顔で四ツ谷の町を歩き回る碧生の姿があった。

 恋人の間宮リカも碧生の気が滅入っているのには気づいていた。思い当たることはある。先日の依頼原稿に対するダメ出しと、それに不満を感じて依頼そのものを断ってしまった一件だ。いつもの甘美な作風とは違うものを求められたとはいえ、碧生はその後目に見えて仕事が減った。

 詩画集の第一巻の売れ行きはそこそこだったが、二巻目の話や増刷の話は来ないし広告もほとんど打たれない。大丈夫だよと力ない笑顔を碧生は向けるが、反対にリカへの童話や子供向け読み物の依頼は増えているのがまた気まずかった。


 四ツ谷の路地裏に住む都会の勝気な少女を主人公にしたリカの少女文学は好評で、たちまち複数の出版社から依頼が来た。家事と、隣人さやの育児の手伝いの合間に書きとめ、碧生が寝ついた後に本格的に執筆を始める。アイデアは無限に出てくるが、なにせ求められているのは読む側の年代もまちまちな子供向けの文学だ。言葉遣いや使える漢字、表現は、依頼されている出版社によって全て違う。

 夜中に根を詰めて何晩も徹夜をし、やっと書き上げた原稿を持って何社もの児童書出版社を回っていたリカは、突如悪心を覚えた。腹の底から気持ち悪さが込み上げ立っていられない。急に顔が火照って熱くなり脂汗が噴き出る。眩暈と耳鳴りにまで襲われ、リカは市電の中でしゃがみこんでしまった。


「リカちゃんどうしたの。気分悪いの?」


 たまたま乗り合わせたリカの母・間宮未亡人が気付き声をかけた。


「次で降りなさい」

「大事な原稿を渡しに行かなきゃならないのよ」

「たまに親らしい事言ったんだから聞きなさい」


 毅然とした母の口調に押され、リカは次の停車場で降りた。残りの原稿は一社分。母は所在地を聴くとうなずいた。編集部があるのは母の見知った街らしい。


「私が代わりに持って行ってあげるわよ。貴女への伝言は手紙にしてもらって、後で届けるわ」

「ありがとうお母さん」 


 停車場のベンチでしばらく座り風に吹かれていると、リカは次第に落ち着いてきた。だがまだ吐き気と気持悪さは尾を引いている。


「その様子……リカちゃんねえ、メンスはきちんと来ているの?」

「ここ何か月か来ていないけど、元々来たり来なかったり不規則だから」


 不安を押さえるようにリカは強めの口調で答えた。だが母ははっきりと言った。


「貴女の気分の悪いの、私はつわりだと思うわ。間違いないとは言わないけれど高確率で当たっているはずよ」

「……」

「お産婆さんに行くには早いけど、貴女とヨハネを生んだ聖路加病院に行って、診てもらう?」

「……いいわ。まだもう少し様子を見る」

「根を詰めて書き物してるみたいだけど、絶対に無理をしちゃだめよ。少しでもおかしいと思ったらママを呼びなさい。……碧生先生には話したの?」

「ううん。心配かけたくないし、まだそうと決まったわけじゃないから」

「貴女ねえ……逃げるような相手じゃないと思うけど、生まれてくる子供の為にもきちんとお話して、今後どうするか決めなさい」


 母はこんなにしっかり者だっけ? リカは娘を労わりつつきちんと必用な事を言い聞かせてくれる母の姿に驚いていた。物心ついた時から、我儘で男を男とも思わない天真爛漫すぎる姿しか記憶になかったからだ。


「碧生先生の事好きなんでしょ、リカちゃん」

「……」

「好きだったらちゃんと結婚するのに何の支障もないじゃない」

「先生とは……そう簡単にはいかないのよ」

「赤ん坊が出来るような事しておいて何言ってるのよ」


 最後にちくりとトゲを刺して母はリカの原稿を取り上げ、じゃこれは間違いなく編集部に届けてあげるわと去って行った。

 確かに。

 リカは停車場のベンチから立って家に向かって歩き出した。確かに子供が出来るような事はしている。相手が胸を患ったままの男であっても、好いているのには変わりないのだ。二人は今すぐにでも結婚してもよいとお互い思っている。だがそれをためらっているのは蒼太郎の結核だけが理由ではなかった。彼が「書けなくなっている」のが最大の理由だった。

 自分の書く世界が世の中から求められていないと思い知らされた碧生蒼太郎は、漠然とした不安を抱いていた。それが、ただ世相に対しての不安だけかは自分でもわからなかったが、間宮リカと正式に結婚し所帯を構え「家族」を作っていく自信はなかった。

 作家生活においても蒼太郎が殆ど専属のように作品を発表していた出版社、暁星社が事業を縮小し、蒼太郎は書き上げた作品を他社に持ち込まなければならなくなった。だが時節柄、観念的な作品や高踏的な美文は以前ほど尊重されなくなっていた。碧生蒼太郎も『世間がこういったものは求めていない』『高尚過ぎる』『なよなよし過ぎている』等の理由で断られ続けた。蒼太郎は歯を食いしばって自分を曲げるか、それとも世間とやらの潮目が変るのを待って耐え忍び文章を磨き続けるか、選択を迫られていた。


「あのね碧生先生」

「何ですか?」


 痩せてあばらが浮き出て、首の後ろの関節も骨の一個一個数えられそうな後ろ姿。裸にいい加減に寝間着を引っ掛けて、その夜、蒼太郎は珍しく枕元の書き物台に向かっていた。煎餅布団に重たい木綿綿の掛け布団に包まったリカは、その姿を見上げながら、今日こそ妊娠を告げようと口を開いた。


「……お忙しそうね」

「珍しく仕事が来たんだよ。徳永院長の口利きなんだけどね。僕があまりに悶々としているように見えたからか」

「あら……いい事もあるんですね」


 碧生のあけっ広げな笑顔に、リカはなかなか切り出しにくくなった。


「何でも偉い人達のグループの為の原稿だとか。徳永先生からは内緒にしてと言われたのだけど」 


 碧生はリカに顔を寄せて囁いた。先程まで情を交わしていた肌から暖かな体温が立ち上っている。碧生は彼女の湿り気のある体臭を好んだ。


「近衛文麿貴族院議員の、私的な政策機関からの依頼なんです。徳永院長が以前その会に出入りしていたコネだとか」

「まあ、近衛議員と言ったら、次の首相に指名されるかもしれない大物じゃないですか。徳永先生はどこからそんな」

「僕には到底わからないが、勉強会の叩き台として僕の原稿がほしいと言われたのです。まあ錚々たるメンバーだろうから僕なんかおよびじゃないが、ズタボロに酷評される材料して必用としたんでしょうね」


 この年の政界編成は、後にA級戦犯として処刑される広田弘毅首相の内閣であり、貴族院議員・近衛文麿は次期首相の最右翼と目されていた。その近衛が設けた私的な勉強会は「昭和研究会」といい、哲学、経済、外交等多角的に世界をとらえる集まりであった。メンバーには京都派哲学の雄・三木清プロレタリア科学研究所哲学研究部主任や、後にゾルゲ事件で逮捕・処刑される東京朝日新聞社当時の尾崎秀実などがいる。

 この会は後に変容し、大政翼賛会や軍部に都合の良いように利用されやがて解散する運命にあるが、徳永医師、碧生や間宮リカには知る由もなかった。ただ自分の文が求められ、高い知性を持った人達に読んでもらえる事が嬉しく、碧生は生き生きと情熱を持って原稿を書いていた。


「貴方のそのままの原稿がほしいだなんて、なんて素敵な依頼でしょう。徳永先生には本当に感謝だわ。でも」

「でも?」

「いいえ何でもありません。私はちょっと疲れたから先に寝るわ。おやすみなさい」

「おやすみ。何か言いたい事があったんじゃないの?」

「いいの。よく考えたら今でなくてもいい事だから。先生の原稿が満足いくまで書き上げられた後で」

「じゃ、僕はもう少し頑張るよ」


 電気スタンドの灯りがリカの顔に当たらないように傾け直し、蒼太郎は再び書き物台に向かった。

 言えなかった。リカはまた、自分が蒼太郎の子を宿している事を告げられなかった。このナイーブな書き手の集中を途切れさせたくなかったからだ。あとは、自分とこの男の関係が変ってしまうのではないかと恐れたのだ。

 彼は無邪気過ぎる。こと文章を書くという事に対して純真すぎる。周囲の状況や風向き等全く目に入らないようだ。

 だがリカには蒼太郎以上に時代の不安は感じられた。オリンピックからこっち、次期オリンピックの開催地に東洋から名乗りを上げた日本。新聞各紙でも政府のオリンピック会議への多数派工作、外国からの悪評等が連日書きたてられた。その国の意欲が逆に、絡めとられやすい蜘蛛の巣にわざわざ向かっているような、そんな不安をリカは感じていた。そしてそれが蒼太郎の物を書く姿勢に対して抱く「危うさ」と同じだという事に気付き、愕然とした。


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