ウラジオストックの青年・2
ホテル・ベルサイユの玄関から少し階段を下り、夜霧に溶け込むように長身の男が立っていた。先程のあどけない笑顔とは別人のような、鋭いまなざしのレフ青年、いや富士見レオ少年である。
彼は槇村と佐田の二人をしばしつけた。その美青年ぶりに惹かれるように、同じく街角に佇む夜の女が近づき、何事か囁く。グイッと抱きしめ頬にキスするふりをして、少年も甘い声で囁き返した。がっかりしたわ、という風に離れていく夜の女は、きらりと鋭いまなざしを返した。
「網に二匹の蛾がかかった。よくもまあ疑いもせず……」
くっくっくと少年は笑い、ホテルに戻り中に消えた。奥の秘密の会議室に彼の上司が待っているはずだ。内務人民委員会NKVDのウラジオストック担当委員と、沿海州担当の高官が。
「坊ちゃま、おかえりなさいませ」
ウラジオストックの支配層や共産党員が住む高級住宅街の一角。帝政時代の豪奢を残すアパルトマンの一室を、レオ少年は開錠した。
いい匂いが鼻をくすぐる。これは彼の好物の塩漬け豚と夏野菜のオーブン焼きジャルコーエだ。日本からついてきた女中の「みかねえ」はたちまちロシア料理を習得し、言葉はほとんど分からないのに日常生活をこなし、愛する「坊ちゃま」の面倒を見ている。
「軽くでいいよ、みかねえ。友達と夜のお茶して来ちゃったから」
レフという偽名はここでは捨てて、富士見レオという本名に戻り、日本語で子守女に甘える。冷たい美青年の大事な時間であり空間だ。
「分かりました。ではただいま熱々に温め直します。それまでにお風呂に入ってらっしゃいませ」
「いいよ面倒くさい」
「いけません。この街は風が強くてただでさえ埃っぽいのに。きちんと清潔にしないと許しませんよ」
「はーい」
幼い頃から懐いている乳母には逆らえない。またこういう事を言われるのも良いものだ。緊張が続く仕事の合間には。
「おや坊ちゃま、もしかしてお酒をお召し上がりではないでしょうね」
「なんで?」
「お顔の色がいつもより赤くていらっしゃいます」
「んー、いただいた紅茶にウォッカが少し入ってたかもしれない。わからない」
「まあ何て事。坊ちゃまはまだ未成年なのですから気を付けて。お酒は脳みそをダメにしてしまいますよ」
「はいはい」
じゃ体洗ってくるね。言い残してレオは自室に入った。
「タオルと寝巻はいつもの所に置いてありますよ」
甲斐甲斐しく夕飯の準備をしながらみかねえは声をかけてくれる。その口調だけで落ち着く。だが彼は隙をみて無線機に向かった。指定の乱数表に従って報告を送るのだ。その先は、クレムリン。
レオ少年はスパイだった。子供の頃出会った「ゾルゲおじさん」に度胸と知性と美しい容姿を買われて何度か遊びに行くうちに、自然と情報収集のテクニックを教えられた。
最初は楽しい「軍人ごっこ」「冒険ごっこ」。同級生の子供達と、日本軍が異国で活躍する冒険活劇の読み本を見ながら真似して遊ぶ、その延長だと思っていた。だがゾルゲは本気だった。やがて美少年で富裕層の子息の彼を利用して、同じ学校に通う財界や政界の子息達の親の情報を得て、流すようになった。
だが転機は訪れた。
美術品の買い付けで両親のいない留守宅を、父の知り合いだと訪れたロシア人。彼の麻薬のような言葉が少年の心に入ってきた。
「ゾルゲさんはもしかしたら悪いスパイかもしれないんだよ」
「私は君に助けてほしくて、本部から派遣されてきたんだ」
「ゾルゲさんが日本やドイツや色んな国を裏切らないように、君のような正しい少年がついていてくれないか」
学校の友人や先生達との軋轢に疲れ、ゾルゲを外国、違う世界への窓だと頼っていた少年の心は変った。今までと反対だ。僕は頼りにされている。僕を信頼して期待をかける人がいる。
学校をさぼりマダム・ブコウスキーの店を足繁く訪れるようになったのもその頃だ。絵師・片桐の絵心を刺激する「香り」を放つようになったのも同じ時期である。もっとも、片桐がドイツやフランス留学時から海外のコミューンとの繋がりを保っていると情報を得て、わざと近づいたのだが。
日本の中学生・富士見レオ少年はソビエトの内務人民員会NKVDのいっぱしのスパイとなっていた。ターゲットは政界や大使館の信任篤いドイツの新聞記者リヒャルト・ゾルゲ。NKVDとは立場の異なるソビエト労農赤軍情報局のスパイである。
同じソビエト共産党によって送り込まれ、数々の重要な情報を本国に流していながら、ゾルゲはソビエト自体に信用されていなかった。彼が上海経由で来日以来の長い年月、ソビエト連邦内の体制は変り、彼の上司や同僚も次々と指導者スターリンの粛清に遭い処刑されていた。日本の動きを監視する役割の彼が、今度は本国の暗殺組織によって監視される状況になっていた。
パリ、ドイツ経由でソビエトのモスクワに入った富士見レオ少年は、直ちに密命を帯びてウラジオストックに送られた。極東方面に入国した日本人の監視と報告である。日本で網にかけておいた槇村と佐田など、彼にとってみれば絶好の獲物であった。
レオ少年は送信した。槇村良助、佐田芳子。両者は日本帝国主義およびブルジョワジー的生活に未練を残した軟弱な似非共産主義者であり、思想転向しソビエトに害をなす恐れあり。そこに一切の情はなかった。
温かいお湯を使いバスタオルを肩にかけ、ガウン姿でテーブルに着くレオの前に、みかねえの心づくしの夜食が並んだ。苦心して手に入れたホットショコラも一杯。
「ねえ聞いてよ、みかねえ、学校の夏休みが終わるから僕達はまたモスクワに帰る事になったよ」
「あら、予定よりちょっと早まりましたんですね。了解しました」
「やっとこの街にも慣れたのにね。でも仕方がない。しっかり勉強して早くお父様達の跡を継がないとね」
「ええ。奥様や旦那様に安心して頂かなくては。ねえやもお支度していつでも行けるようにしておきます」
坊ちゃまは美術商を継ぐ勉強をしているのだ、とまだ信じている乳母に、レオは屈託のない笑顔を見せた。
夏の終わり。
「レフ」が手引きし車両と切符を手配したシベリア鉄道に乗って、槇村と佐田は出発した。ウラジオストックの大道演劇仲間には、モスクワに行って舞台芸術を一から学び直すのだと希望に満ちて言い残した。演劇の重鎮で世界的に有名な演出家のメイエルホリドと面会できる機会が設けてもらえる手はずになっている、と。
「二人して演劇で認められて生活が軌道に乗ったら、『内縁の妻』じゃなくて正式に届を出して『妻」になりましょう」
モスクワまで10日で人や荷物を運ぶシベリア鉄道に揺られ、槇村は佐田に話しかけた。
「はい。わかりました旦那様」
二人は明るく笑い合った。
だが九月。スターリンの統治下での保安体制が代わった。
内務人民委員会NKVDの委員長のゲンリフ・ヤゴーダは粛清の仕方が生ぬるいとスターリンの不興を買って更迭・逮捕・銃殺され、「毒殺魔の小人」「血まみれの小人」と称された短躯のニコライ・エジョフが就任した。スターリンの命令下どんな残忍な拷問も処刑もいとわない、天文学的な数字の死者・行方不明者を出した本格的な大粛清、大テロルの始まりである。
シベリア鉄道で到着したモスクワでの住居が決まり、苦心して現地の日本人共産党員に接触し、東方勤労者共産大学日本語教師の職を手に入れた槇村と佐田は路上で拘束された。連行された先はルビンスカヤ広場に面したくすんだ黄色いレンガの建物。ジェーツキーミール百貨店の隣にあるNKVDの本部、そしてブッテルスキー監獄の雑居某である。それ以降彼らの消息を知る者はない。
同時に国際レーニン学校の日独露の混血学生、富士見レオも、宿泊先のモスクワのホテル・ルクスから乳母共々姿を消した。




