ヒトラーのオリンピック
1936年(昭和11年)8月1日。盛夏の時期にベルリン・オリンピックは始まった。日本からも占領下の朝鮮半島からも大勢の男女選手団と監督及びコーチ陣が参加し、新聞社は記者、技術者、ラジオスタッフを派遣した。
ドイツと日本の時差の関係上、日本で放映される決勝および準決勝のラジオ実況は早朝と夜中に集中したが、それでも国民はラジオにかじりつき、がりがりとした雑音の中聞こえてくるアナウンサーの言葉に現地の様子を思い描いて熱中した。
また、遠いドイツの地でカメラマンが撮った写真は新聞の一面を飾った。飛行機によるフィルムの輸送、そして当時まだ不安定であった画像伝送・ファクシミリが効果を発揮したイベントでもあった。中でも大阪毎日新聞および東京日日新聞現・東京毎日新聞と大阪朝日新聞の報道合戦は熱を帯び、記者の筆と国際電話による取材のネタの面白さで国民を大いに興奮させた。
碧生蒼太郎と間宮リカも例外ではなく、臨月の大きなおなかを抱えた隣家の柘植さやと一緒にラジオや新聞を楽しんだ。
産み月を9月に控えたさやのお腹の中では、中国北方に派兵されたまま帰らない夫・柘植一等兵の子供が健やかに育っていた。浴衣の帯をせり上げるほどに大きくなったお腹はふんわりとまろやかな膨れ具合で、周囲からは『女腹』と目され、きっと元気な女の子ですよと言われていた。またオリンピックのラジオに熱中するあまり、きっとお転婆な女の子になるだろうと碧生達と笑い合った。
「いや暑い暑い。今年の夏はまた格段に暑いですね。そちらの文士先生とマダム……とマドモワゼルのご機嫌は如何ですかな」
そうぼやきながら碧生家の玄関を訪れた湯浅神父が、見たところ一番暑苦しい。黒い僧服の上着に、中の立ち襟のシャツは太い喉元までびっしりとホック留めしてある。つば広の黒い帽子を被っている姿はフランスの田舎の司祭のようだ。
さやはどっさり採れたキュウリを台所に座って塩もみにし、碧生とリカは机上の原稿用紙に向かってそれぞれうんうん唸っている。
「ああいらっしゃい神父様。ごらんのとおり寝不足がたたって仕事になりません。深夜早朝のラジオはだめですね」
「今日こそ寝ないと、と思っているのに放送が始まるとついつい最後まで聞いてしまうんです」
「この作家さん達は夜に私が帰った後も、遅くまで布団の中でラジオを聴いているんですよ。子供みたいです」
さやが立って冷たい井戸水を汲もうとしたところを、リカが止めた。
「私がやりますから、さやさんは座っていてくださいな」
湯浅は目を細めてさやのせりだしたお腹を眺め、十字を切って祝福した。そして、信徒からの頂き物ですが、夏場の滋養の為に召し上がってくださいと、甘いコンデンスミルクの缶を何個も出してくれた。
「わあ、ありがとうございます」
冷蔵庫が普及していないこの時代、腐敗しにくく保存がきく練乳は重宝された。さやとリカはミルクの缶を手に笑顔を見せた。
「助かります。さやさんもそうですが、むしろこちらの先生の方が一層栄養を取らなくてはならないのに、食が細くて」
「それしょうがないですよ」
苦笑する碧生の玄関に、片桐がふらりと姿を現した。気温と湿気に負けず白麻のスーツを着こなす、相変わらず洒落者だ。
「日本中大興奮ですね、オリンピックという世界のお祭りで」
「はい。片桐さんも湯浅神父も聴かれますでしょう?」
「まあ時節に乗り遅れない程度にはラジオや新聞も。でもあまり好かないですね、この熱狂は」
こちら御土産です、と片桐が差し出したのは麦芽水飴の瓶。冬は湯で溶いて飴湯にし、夏場は生姜を絞り込んで冷やし飴としていただく素である。期せずして来客の二人共が甘い物を持参したのにリカとさやは笑ってしまった。どれだけ甘党だと思われているのか。
「え?」
だが顔を上げた碧生蒼太郎はピクリとも笑わなかった。
「私もです。碧生先生、この熱狂とドイツの大会運営と根回しの完璧さには裏がある。そう思います」
湯浅神父の言葉に蒼太郎は慌てて開け放した窓や戸を閉めた。どこで誰が聴いているかわからない。治安維持法の怖さを彼は知っていた。
「ご婦人達、ちょっと聴かない振りをしていてくださいね」
柔らかく微笑んだ湯浅神父は、碧生が全ての戸締りを終えると一転声を潜ませた。
「今のドイツの党首は油断がならない。彼が反対派を暴力と暗殺で沈黙させて、選挙で勝ったのをご存知ですか?」
「はい。何となくは聴いた事が」
「ではそのヒットラーの書いた本『我が闘争』を読まれた事は?」
「あります。ありますがなにぶん文章があまり上手ではないような」
「でしょうね。あの悪文は翻訳家泣かせでしょう。何を言っているのかさっぱりわからない。私はドイツ語の原本で読みました。分かることは、実に危険だという事です」
会話に加わった片桐も声を潜めた。
「ヒトラーが率いるドイツのナチス党は優生思想の権化です。一部の、優れていると自分達が見なした者以外、他の民族はゴミか動物以下だと断罪している。西ヨーロッパのアーリア人だけが優れているとする思想です。日本人を始めとする東洋人等未開の地の獣扱いです」
「そんな馬鹿な、ドイツは協力国ですし優れた文化の担い手です」
「純真無垢な碧生先生。世の中には涼しい顔で悪を行なって、蚊を潰す程にも心に留めない人が大勢いるんです。彼もその一人だと私は見ています。私だけではない。世界中に広がる聖職者の組織が、そう彼を観察しています」
「ユダヤ人、スラブ人、アジア人。黒人。ジプシー達。共通点が分かりますか? 彼らが忌み嫌い存在価値がないと決めつけている民族です」
「え、でもオリンピックでドイツにはユダヤ人選手も居るし、本国で差別されているアメリカやイギリスの黒人選手にもわけ隔てなく接しているそうですが」
「それが彼のたくらみです。世界にドイツを無害な国、共産主義に対抗する前線の先兵と印象付けるための画策です。油断させてユダヤ人達を国内に留めて、一気に彼らの財産を没収し国外追放にする、もしくは著名な研究者なら身代金を要求して外国の研究団体に引き取りを迫る。大方そんなところでしょう。狡猾なものです」
「片桐さん、そんな事誰が知って流しているんですか?」
「それは言えません。聞かない方が君と、パートナーと、マダム柘植の為です。ですが知っておいてください。ドイツはいずれ確実に世界に本当の姿を見せます。今ドイツに多大な投資をして工場を沢山誘致しているアメリカも、その時は何かしらの行動をとるでしょう。その時我が日本はどちらに着くかです」
湯浅神父も静かにうなずいた。彼らは何を知っているのか。この日本にいる自分は何故何も知らないのか。碧生は自分が全く無力な者に思えてきた。
「お金が根源だ。悪銭こそが世界を動かし人々を走らせるのですよ。とはいえささやかな金と贅沢と自由は大層いいものですがね」
片桐はあまり深く考えないで、でも目を見開いて、逃げ足を鍛えておきなさい、と笑った。
アメリカ。霞ケ浦の航空学校に降り立った空の英雄チャールズ・リンドバーグの国。
ドイツ。騎士と黒い森と中世の伝説の国。
そして日本。
碧生は煩悶した。自分には一体何ができるのか。体も弱く空も飛べない、一本のペンを持てるだけの自分に。碧生先生、とリカに声をかけられるまで、蒼太郎はちゃぶ台の前に座って考え込んでいた。いつの間に片桐と湯浅が帰ったのかも分からなかった。
数日後、碧生の元に一件の原稿依頼が舞い込んだ。いつもの暁星社からではない初めての出版社で、どうやら碧生の元飛行学生という経歴を知って依頼してきたようだ。掲載誌の名前は聞いた事があった。新聞に好戦的な、勇ましい見出しをつけて宣伝してある文芸誌である。純粋な美一辺倒で基本的に好きに書かせてくれる暁星社の方針に慣れていた碧生には少々面喰らう依頼主であった。
それでも仕事は仕事だし、自分の思いを文章にして人々に届けるのは素晴らしい事だ。そう思って彼は依頼を受けた。受けたからには全力で書く。自分の持てるイメージを全て注いで書くのが読者に対する礼儀だ。
だが、碧生は珍しく苦戦した。空の素晴らしさを訴えたい事に変わりはない。だが今、無邪気な憧れや純粋な気持ちよさや美的感覚だけでは表現しきれない、釈然としないものを感じるのだ。
空は美しい。始めて教官の元で練習機の操縦桿を握り、エンジンをふかして滑走路を走った事をよく覚えている。練習場脇の森が、緑が、教官の機首上げの指示で碧生の操舵の元、あっという間に眼下になった。その感動は今でも生き生きと心に浮かぶ。見る間に自分の前後左右、上下も青い絹のような空間に変わる。からくり箱の中に投げ出される感じだ。そこを低く唸るエンジン音と教官の叱咤激励、風が導いてくれる。あんな興奮は地上では絶対に味わえない。
しかし、碧生は書き進めながらそこに恐怖を盛り込んだ。湯浅神父からもたらされたヨーロッパの沈鬱な空気。自国の国民に機銃をむける飛行機。先の大戦では海を渡って他国の民の上に爆弾を落としていった飛行機。そして今、オリンピックという輝かしい式典の中、ヨーロッパの乾いた青い空は国のイデオロギーによって隔てられ、政党や国家の旗で覆われていく。空の美しさと地上の人間達の劫、そして不遜。碧生にしては珍しく辛口の文章が出来上がった。
期限ぎりぎりに郵送した原稿は、訂正の指示だらけの校正紙と一緒に送り返された。碧生の家にはわざわざ編集者が来て、苦笑して言った。
「お願いしますよ、先方、ここのページを買い取った広告主ですが、かんかんなんですよ。元若鷲として空を飛んだ碧生さんの経歴を見てお願いした原稿ですから」
この文章技術も学もない若僧作家が馬脚を現し始めたか。編集者の顔は遠回しにそう言っていた。一般文芸誌では多くの作家が大学を出て、もしくは旧制高校から進んだ後に中退して作家として活動している。飛行学校出身は碧生だけだ。
「もっと勇壮な事を書いてほしいんですよ、碧生さんには。まだ若いんですし、元軍人らしく」
そういって書き直しを命じて去って行った。
「碧生先生?」
リカに声をかけられるまで、蒼太郎は駄目出しされた原稿を机に放りだしてボーっとしていた。
「ああごめんなさい。今日の食事の当番は僕だったね。よし、海軍名物のカレーライスにしてみるか」
リカは心配そうに覗き込んだ。
「私はこのままの方がいいと思うけど、これで受け付けられなかったの? 」
「ああ。こんな厭戦的な文章はだめらしい。もっと勇壮な内容にしてくれと言われたよ」
「まあ、でもそれでは直すというより新たに書き下ろさなければ」
「それもそうなのだけど、俺にはこうとしか思えないからなあ、今『空』について書いてくれと言われると」
結局気が進まず、急に体調が悪化したと口実にして、蒼太郎は依頼原稿を断った。元軍人である自分が期待されている事と、心のままに素直に「書きたい」もののずれを、蒼太郎は感じ始めていた。これが、芥川龍之介が遺書で言っていた「将来に対する唯ぼんやりした不安」というものか。その悩みを打ち明けられるのは間宮リカだけだった。
結構な額を提示されていた原稿料は幻と消えた。
「しょうがない。節約の為に大豆のカレーにしましょう」
「イギリス料理のようで、むしろ素敵かもしれないわね」
笑顔で返し、薬味に手製のラッキョウ漬けを出してくるリカは、このところ生き生きしている。彼女も小説を書き始めたのだ。こちらは子供の生活に即した、いわゆる少女小説だった。自分が四ツ谷荒木町で過ごした子供時代の元気な、また大人のしつけの厳しい毎日。上級生や馴染みの大学生に対する淡い憧れ、子供同士のすれ違いの慌ただしい日々。そんな都会っ子のリカならではの生き生きした描写の読み物は、児童誌に掲載、子供向けの出版社から発売され、それなりに好評を博して売れていた。むしろリカの収入の方が碧生を上回る時もあった。
リカは少しばかり申し訳なさを感じていた。妥協の出来ない碧生は自分の書きたい物と求められている物、世相のギャップに悩み、そんな素振りは見せないが心の底からもがいている。それに対して自分はある意味安全な「子供向け文学」に逃げてしまっている。碧生と知り合った頃はもっともっと尖った感性を前面に出して、作家や世間に挑戦するような批評を書いていた。その時の鋭い未熟さを、自分達はお互いに愛したのではないか。
貴女は子供の心に届く美しい文章を書く才能がある。僕の価値は時局で左右される。仕方がないよ、と穏やかに笑いラッキョウの甘酢にむせる碧生を、リカは複雑な思いで見ていた。
二人は心から結ばれた恋人であり同士だったが、入籍はしていなかった。
自分の両親、とりわけ母親を見て育ったリカが、結婚というものに若干恐れを抱いていたのと、碧生の心持だった。
出来れば結婚したい。きちんと法律の上でも夫婦になって暮らしたい。
だが碧生は思った。病弱な自分の妻になるより自由な身で居た方が、リカの為になるのではないかと。
「結核もちの作家の妻」に縛り付けられる事で彼女の未来が閉ざされてしまうのは避けたい。
碧生は、今は小康状態を保って活動しているとはいえ、自分が天寿を全うできるとは思っていなかった。




