レオという名の少年・2
変っていない。何一つ変わっていない。様々な少年少女がモデルとして出入りしているはずなのに、片桐のアトリエの中に置かれた物の趣味や配置は、その子供達の好みを超越し全く変わらない。幼いリカがモデルをしていた昭和初期から時が止まったようだ。レオは足を踏み入れた時から、ここでの自分は外と全く違う時間軸に生きていると感じていた。
「暑いですね。水出しの紅茶を作っておきましたよ。まずは喉を潤して」
「その前に手を洗わせてください」
洗面所でざぶざぶと手と顔を洗うと、壁のフックに沢山掛かっている西洋のタオルで拭く。この舶来のタオルも一流のホテルで外国人相手に使われているランクだ。家の外からは分からない片桐の豊かな暮らしぶりがうかがえた。その資金の出どころは? 絵師としての収入だけとはレオには考え難かった。
先刻氷屋から届けられた氷をかいて水出しの紅茶を注ぐ。アイスティーというアメリカの暑い地域で作られるお茶の出し方ですよ、と片桐は教えてくれた。
「へえ綺麗なものですね。我が家は珈琲が多くて紅茶は滅多に出ませんから、こんな綺麗な赤褐色だと思わなかった」
波打った肌のグラスを眼の高さに掲げて陽に透かし、お茶の透き通った色味を楽しむ少年を、片桐はささっと描きとめた。
「もう始まっているんですか」
「そうですよ。君はいつも通り好きにお過ごしなさい。こちらが勝手に描きますから」
「以前のようにおしゃべりしながらでもよろしいですか?」
「ええ。どうぞお好きに。私も普通にしています」
窓を閉めた「アトリエ」は日差しが薄い紗のカーテンを通して入り込み、初夏とは言えテーブル上の本のページが黄ばんでしまう程光でいっぱいだ。覗きにくる近所の人たちを嫌がり、片桐はモデルを呼んだ時は常に窓を閉めておく。ドアは鍵をかけないのに、とレオは少し可笑しくなった。当然カーテンはひらりともそよかず、その熱気に彼は辟易した。
「ちょっとはしたない事をしていいですか?」
「どうぞどうぞ」
「すみません、暑いので」
白いシャツの上からボタンをはずし、詰まった襟元を大きく広げてレオはほっと一息ついた。
楊柳の夏の下着は薄手で、少年の意外と逞しい首や肩の骨と、
ぴんと張った筋、くっきりと輪郭を持った筋肉を際立たせる。
「失礼。外から面白がって覗かれると困るので、窓は閉めています。そのスペイン土産の扇をお使いなさい」
氷のお茶をもう一杯持ってきましょう。そういって波打ったグラスを受け取ると、片桐は奥の台所に引っ込んだ。
レオはシャツをすっかり脱ぐと椅子に掛け、目をつぶった。少年らしくない顔は何事かをじっと考えて居る。
「どうぞ。私は水ものは飲まないたちなので、遠慮なく」
ありがとうございます、とグラスを受け取りごくごくと飲む、その首の筋と骨のくぼみの陰影は明らかに日本人少年の骨格とは違う奥行きを見せていた。
片桐はじっと少年を見詰め、次々とページをめくってはスケッチを重ねてゆく。
時に立ってレコード盤を交換し、少年を飽きさせないように工夫する。少年はピアノ曲が気に入ったようだ。それもスペインの作曲家、グラナドスやファリャと言った民族色の濃い曲を好んだ。
「だって人の声は録音で聴くと色あせてしまうし、バイオリンもそうです。お爺さんのような音になる。ピアノだけはレコードで聴いても古びた感じがしない」
スペイン舞曲集にゴイェスカス、エマヌエル・ファリャならアンダルシア幻想曲や火祭りの踊り。本来は中世ヨーロッパの古い音楽が彼の好みだと知る片桐は、レオ少年の変化が意外に感じられた。
彼は挑発するような視線で片桐を見返した。
「スペインは世界の耳目を集めていますからね。僕も聴き始めたのですが、泥臭いかと思っていたらそうじゃない。素晴らしく洗練された熱情です」
そして、スペインびいきの湯浅神父を片桐さんもご存知でしょう、と言葉を続けた。
「彼もきっとこの手のスペイン民族主義が好きですよ。そしていずれパブロ・カザルスというチェロ弾きに注目する事になるでしょう。これはただの勘ですが」
この子はなぜ湯浅神父を知っているのだろう。片桐がスケッチの手を止め尋ねようとした時、レオ少年は低い声で呟いた。
「僕は来月にはヨーロッパへ渡ります。両親が受け入れ態勢を整えたというから。そしてゆくゆくはソビエトに向かうつもりです」
「そうですか、まだ危ない気もするが君ならきっと上手にやって行けるだろうし、心配はしません。ただ」
「ただ?」
レオは素早く視線を上げた。
「気を付けるに越した事はない。特にお付き合いする人に。貴方の顔は西洋人にもアジア人にも見える実に個性的な風貌です。一目で人の記憶に残る。目をつけられやすい。そしてゾルゲとは手を切って離れなさい」
富士見レオと片桐絵師はしばらく互いに睨み合っていた。先にふふんと鼻で笑ったのはレオ少年の方だった。彼は脱いだシャツに手を伸ばしながら言い放った。
「貴方こそゾルゲさんとは繋がりを断った方が身の為ですよ、どうせ必要な情報は別ルートで得られるようになったんでしょう? 片桐さん」
レオはもう笑っていなかった。スケッチ帖に鉛筆を走らせる片桐の指も、止まった。冷たい緊張が二人の間を走った。
トントントン、と三回のノック音が響き、二人の張りつめた空気を壊した。どうぞ、という片桐の声を待たずに勢いよくドアが開いた。
「片桐さん、嬉しいお知らせを持ってきました! 」
「碧生さんの新刊の詩画集が出たんですよ。とても素敵なので一番にお見せしたくて」
無邪気な顔の碧生蒼太郎と、パートナーの間宮リカだ。悪戯坊主のように目を輝かせ満面の笑みで飛び込んできた二人は、片桐と対峙する裸の若者を見て硬直した。
「すみません、来客中に失礼しました! 」
「また改めて来ます。あ、この詩画集だけは置いて行きます。どうぞ」
そして来た時と同じように、バタバタと鳩の様に帰って行った。
富士見レオは白いシャツに袖を通し、ゆっくりとボタンを留めながら呟いた。
「あれが今を時めく浪漫の塊のような碧生蒼太郎先生と、間宮リカさんてすね。なるほど可愛らしい人達だ。片桐さん」
「ええ、彼らには是非あのままで居てほしいものです」
スケッチはもう充分されたでしょう、帰ります、とレオは学生かばんを手に取った。そして
「ああそうだ忘れるところでした」
中の帳面のページの間から、一通の茶封筒を取り出し、片桐に渡した。
「これを槇村さんと佐田さんに。ソビエトのウラジオストック行きの船の切符です。二枚あります」
どうぞ確認してください、とレオ少年は挑発的に笑った。
「……君は彼らを知っているのですか? それにこんな物を入手できるまで、君はゾルゲさんと近しくなったのですか?」
片桐が鋭い目で少年を睨んだ。いつも飄々と真面目なのかふざけているのか分からない彼にしては大変珍しい事だ。
「違いますよ。ドイツのコミンテルンに居るお友達から、ですよ」
では、と富士見レオ少年は出て行った。後には青いコリアンダーの葉のような、彼の汗の匂いが残されていた。
片桐は目白のサナトリウムを尋ね、槇村と佐田に『ドイツの友人』から譲り受けたとチケットを渡した。
槇村は驚きまた喜び、サナトリウムで更に働き小金を貯めた後、船で日本を離れた。敦賀港からウラジオストックまで定期船が出ている。彼はもらった切符でそれに乗った。内縁の妻の佐田芳子も一緒だった。




