レオという名の少年・1
1936年の7月。戦争の火の手がスペインから上がった。
王政から共和制に移行したばかり、共産主義勢力がデモを起こす不安定な政治情勢に乗じて、追放先のカナリア諸島から本国の反乱将校に呼応し脱出した軍人、フランシスコ・フランコがスペイン本土に攻め上った。彼こそ後の独裁者、フランコ将軍である。
碧生蒼太郎の過敏な神経は内戦を我が事のように生々しくとらえ、心痛めた。そしてミカエル湯浅神父もまた、内戦の様子をかなり細かい経緯まで知っていた。大新聞社の特派員や従軍記者すら足元にも及ばない程の情報を耳にする事ができた。なぜか。
神父の情報源は教会だった。彼の所属する修道会は中世以来の歴史を持ち、世界中にネットワークを持っている。カスティーリヤやアンダルシア、ガリシアやナヴァラなどスペイン各地の聖職者達が本国から、またイギリス人やフランス人の宣教師が自分達の植民地から情報を流しているのだ。
カトリック教会は最初から反共和党フランコ支持を打ち出し、フランコも教会を尊重する旨を公表した。だが実際は戦闘の中でフランコ軍も教会を砲撃対象にしている。
「教会は安心しきっています。冗談ではない。対共産主義を第一にするあまりもう一人の真の悪魔、ファシスト・フランコを見るまいとしているのです」
目白台の教会の小聖堂で湯浅は呟いた。一緒にいるのは絵師・片桐である。彼はパリとベルリンに留学経験があり、当時の友人から欧州の目に見える変化を書いた手紙が送られている。人形や菓子、楽譜に巧妙に隠して送られるそれらの手紙は船便なので日数はかかったが、ヨーロッパの人々が何に怯え、若者達が何に心を挫かれ、そしていかに暴力で心が奪われていったかを伝えてくる。
湯浅神父は珍しく熱っぽく語った。
「ただし人心掌握で言うならば、もう一方の悪魔の方がずっと長けています。ユダヤ人を迫害し追放し、財産を没収して財源に充て、公共事業を起こし雇用を生み、人々にパンと肉と安定を与えて安心させる」
「それはどこの甘い悪魔ですか?」
片桐が尋ねた。
「貴方もよくご存じの国、ドイツです」
「ドイツ……共産党の仲間達からはそういった情報は来ていません」
「貴方達コミンテルン派の人々こそ人心に寄り添っていない。ソビエトの方ばかり向いている。私に言わせると神と教会を否定するスターリンと、もう一方の悪魔は同じ人種です」
「ナチス党の『総統』の事ですか?」
「そう。フューラー・アドルフ・ヒトラーです。彼は間違いなくスペインをはじめヨーロッパ全土を狙います」
送られてきた原書の「我が闘争」も片桐は読んでいた。湯浅と片桐は地球の反対側のヨーロッパの戦いがやがて悪魔達を勇気づけ、世界に悪魔の触手が伸びる事を恐れた。だがもう一方の悪魔・スターリンがソビエトの内部で何を行っているかは伝わってこなかった。教会の情報網も、革命後に徹底的に破壊されたロシア正教ネットワークまでは繋がっていなかったのである。
五月の終わり。梅雨時にはまだ早い初夏の東京市は萌え出る新緑と花の季節である。四ツ谷は省線の土手の緑もこぼれんばかりで光と空の青を映して微妙な重なり合いを見せていた。
絵師・片桐はこの季節を愛していた。東京市が日本が一年の中で最も美しく輝く日。だがその晴天は時として俄かに雲が低く垂れこめ、雨が叩き付けることもある。その日はそんな天候で、外出時に紳士の嗜みとして持ち歩いているこうもり傘が役にたった。しばらく足が遠のいていた四ツ谷の古書店に顔を出そうと、彼は坂道を歩いた。
片桐が重いドアを開けると、古書店の女主人大柄なドイツ婦人のマダム・ブコウスキーは、変わらず不機嫌そうな表情で本の整理をしていた。
「ああ雨の湿気が入るから早く閉めておくれ。コウモリはドアの脇に置くんだよ」
傘をさしていたとはいえ裾や肩や背中が濡れたマント姿の片桐を、マダムは険しい目で見た。片桐は素直に傘を置き、脱いだマントを裏返して丸め、手持ちの風呂敷に包んだ。仕方がない。この店にある西洋の古書や楽譜・楽器は一点物が多いし、ここでしか扱っていない希少な物品も多いのだ。
「マダム、盛況ですね。本の入荷も多いようでなにより」
店の奥のバックヤードに整然と並んでいる入荷したての西洋の書物に片桐は食指が動いた。
客は彼の他に数人。全員が西洋人、いや黒い帽子を被り髭を伸ばしたユダヤ教のレヴィと思われる老人もいる。
「このごろ引っ越しをする西洋人家族からの引き取りが多くて。急に本国に帰る人が増えたみたいでね」
マダムはさりげなく両手を腰の後ろに回し、縛られた振りをして見せた。特高の国外退去命令か……片桐は納得した。来月行われるというドイツ・ベルリンオリンピックの次の開催地は東京が名乗りを上げているという。それを理由に共産主義分子が紛れ込まないようにする為か、外国人には特に監視の目が厳しくなっている。
貴方のお気に入りの坊っちゃまも来ているよ、とマダムが言った。間口は狭いがウナギの寝床のように縦に細長い店の、バックヤードに通じる手前にテーブルを置いて、明るい色の髪と瞳の少年が勉強をしていた。ドイツ語の原書を読み帳面に書き写しては消して、また書く。そのやや離れた奥にきちんと控えているのは、着物姿の忠実な子守係「みかねえ」だ。
「富士見君、お久しぶり」
「こんにちは、片桐さん」
ノートを広げたままレオ少年は立ち上がった。少し見ないだけなのに背が伸びてめっきり大人びた容姿になっている。
「試験はどうだった?」
「まあまあです。語学と理科と数学だけはいつも満点なのですが、読み方と綴り方がどうも苦手で」
学校の定期考査があるといい、レオ少年は片桐のアトリエから足が遠のいていた。数学は常に正しい解がありその説き方の道筋もあるのに国語はそれがない。あらゆる事が正解にも不正解にもなる。それが苦手なのだと話すレオ少年はドイツとロシアの血を引くからだろうか、中学生なのに日本の大学生より余程大人びて見える。
ふと片桐は気がついた。どこか違和感があると思った一因は富士見レオ少年の服装だ。平日の昼前だというのに彼は中学の制服でなく、白いワイシャツに背広を着ているのだ。
「今日は学校はなかったのですか」
「学校は試験の後ずっとお休みしているんです。授業の中身も先生も友人も、皆つまらないし息が詰まります」
「おやおや、大人顔負けの繊細なアンテナを持っているんですね」
「片桐さんもお気づきでしょう。帝都の叛乱からこっち押さえつけられるような、見張られているような雰囲気を。僕は外国人だから尚更です」
「坊ちゃま」
みかねえが他の客に素早く目を走らせ、嗜めた。どこで誰が何の為に聞き耳を立てているか分からないご時世だ。
マダム・ブコウスキーは話を聞いていないふりをして、さりげなく片桐に頷いてみせた。今店内にいる人物は心配ないという事だ。恐らく皆マダムの息がかかったコミンテルンの関係者なのだろう。
「はいはいわかってますよ、みかねえ」
困ったような笑顔で子守係を黙らせると、レオは意味ありげに片桐に近づいた。
「実は留学の準備をしているのです。まずはドイツへ。あそこは今オリンピックの準備で勢いが盛んな国ですし、色々な国の人が来る。その先は……決まっていませんが」
彼はソビエトに行きたいのではないか。ふと片桐はそう思った。
「そうですか。ちょっと若すぎるような気もするが、ご両親もヨーロッパにいらっしゃるのでしたか」
「はい。目下パリに、商売の美術品の買い付けに」
「では丁度いいですね。ドイツの後はフランスに行かれるといいです。あそこも実に雑多な、面白い人達が集まる国です」
「そこも候補の一つです。とにかく日本に居たのでは僕は潰されてしまいそうで。片桐さんも若い頃留学されたからわかるでしょう」
片桐はうなずいた。自分も碧生もリカも湯浅も。多少嗅覚のあるものならば誰もが感じる緩やかな恐怖だ。
「良い見識です。戻って来た君の成長を楽しみにしています」
美しい少年は、ありがとうと片桐に近づいた。
「久々に、僕の画を描いていただけませんか? 見ての通りどんどん背が伸びるので、遊学後に片桐さんにお目にかかる時は全く違う容貌になっているかもしれない」
「わかりました。描きましょう、少年の貴方の現在を」
そしてレオの背後にちらりと目を走らせながら耳元に囁いた
「その時はこちらの保護者様はご遠慮いただきたいものです」
二人の男は顔を見合わせて微笑み、みかねえは憮然とした。
数日後、レオは片桐のアトリエの前に立った。四ツ谷の小さな家が密集する路地裏に佇む、外壁のペンキもはげかけた年季の入った小さな一軒家。大震災以前から建っているという古屋だ。屋根のトタンも変色し、外観もあばら家そのもので、近所の子供達からはお化けが出ると噂されているが、レオ少年は知っている。一歩中に入ればこの空気の痛い帝都とは別世界が待っているという事を。
6月に入ったばかり、夏の上着を脱ぎきちんと腕にかけて、少年はドアをノックした。
「どうぞ」
片桐の声が中から返ってくる。いつもの如く鍵は開いていた。モデルの少年少女達が出入りしやすいように、また近所の大人達からよからぬ疑いをかけられないように、鍵はかけない主義なのだ。
いつもの軽い挨拶をして、レオ少年はアトリエに入った。




