千切れ雲の流れるところ・2
サナトリウムの院長、徳永医師は逃れてきた佐田と槇村を歓迎した。二人の所属を既に湯浅神父に聴いていたのか、プロレタリア団体の名前を出しても平気だった。
「気鋭の美人女優と脚本家の二人、というのがまたいいではないですか。それこそ人生。人生はどこに転がっていくかわからない、それもまた楽し、ですよ」
世相がきな臭くなりつつあろうと変わらない、飄々とした口調で二人を迎えると、即住み込みで雇ってくれた。制服を与えられ、住み込み者用の2人部屋があてがわれた。
院内の仕事は数え切れないほどあった。看護師や医師の手助け、建物の手入れ、患者の日常の世話。通常の病院や療養所より職員数が多く勤務体制に余裕があるとはいえ、現代のように機械化が進んでいない昭和初期である。人の手は幾らあっても足りなかった。
今まで花形女優として過ごしてきた佐田が果たして無事やって行けるのだろうか。槇村は密かに心配したが、その憂いは不必要だった。
病人の移動介助に洗髪介助、着替え、ベッドのシーツ替えに汚れものの始末や身体清拭。掃除や洗濯や食事の支度と補助。
数限りない療養所内の仕事を佐田は生き生きとこなしていた。
「もっと使えない奴だと思っていました?でも私、専業役者になるまでは色々やってきたから」
控室に戻って同僚の職員と談笑しながら、佐田芳子は美しい素顔にやや荒れた手を当てがって笑った。役者として自分を追い込み、作中の「誰か」として生きている時より伸びやかな表情だ。
一方槇村はというと、彼も将来の生真面目さを発揮して黙々と働いていた。元来病人の世話は力仕事である。わがままな未亡人の下僕として長年お仕えしてきた槇村には、男だからという余計なプライドやごり押しはなかった。
糞尿に汚れた下半身の清拭も、患者の喀血の後始末も眉一つ動かさず黙々とやってのける槇村は、貴重な働き手として職員の信頼を集めていたが、彼には唯一気がかりな点があった。間宮記者の子息、間宮ヨハネがここに入院しているという事である。
18歳からずっと間宮家に住み込んでいた槇村は、ヨハネの事を生まれる前から知っていた。彼は生まれつき体が弱く、ひんひんと力なく泣いてばかりで女中や母である間宮夫人を困らせていた。いつも年上の姉のリカが前面に立って弟を守っていた。
サナトリウムに落ち着いた事をそのリカと碧生に知らせようか、槇村は逡巡した。劇団やプロットの仲間も大勢身柄を拘束され行方が分からない現在、散り散りになってしまったままの自分達を心配しているかもしれない。だが佐田芳子は必要ないと首を振った。
「あなたがお世話になっていた記者先生の奥様が、きっと娘さんのお耳に入れるわ。今下手に人づてで連絡を取ろうとするのは危ないわ」
彼女は間宮未亡人の事を信用していないのか、とその口調で槇村は感じた。
しばらく日が経ちサナトリウムの作業にもすっかり慣れ、元からいる職員と区別がつかない程馴染んだ槇村は、中庭の設備の手入れをしていた。
木材と真鍮で作られた手の込んだ細工のベンチやテーブル、噴水や像を磨き、細かにひび割れや傷や腐食がないかチェックし補修する。演劇の裏方として大道具の手配や舞台の設営をこなしていた槇村には、それは大変でも何でもない楽な仕事で、おまけに期限も決まっていないのでのんびりしていた。
傷んだ部分を交換し同じ形に削り出し、鑢をかけて滑らかにしてペンキを塗る。体の弱った患者がひっかき傷などで危険な菌に感染しないよう、大理石の庭石も置物も、歯ブラシと磨き粉で念入りにこすり、水で流した後磨きをかける。
穏やかな日の光と軽く吹き渡る風。花壇の薔薇やユリの周りには蜜蜂や蝶が飛び交い患者達が寛いでいる。槇村は上京して初めてと言っていい程平安な時間を過ごしていた。
「あの、少し手を貸してもらえますか」
修理した庭置きの縁台に鑢をかける槇村に、ラベンダーの茂みの奥から呼びかける声。少年だ。
「この段差が乗り越えられなくて。ちょっと押してください」
工具を置き手を拭きながら向かうと、車いすに乗った少年が困った顔で、車輪を回そうと難儀していた。
「坊ちゃん無理なさいますな。今お手伝いしますよ」
少年は明るい顔を槇村に向けた。小づくりな輪郭と目鼻立ちに、やや斜視気味な大きな目、車いすの背に凭れた体が少しかしいでいる。間宮記者の遺児ヨハネだ。間違いない。槇村は直感で分かった。
「ここは段差だからいつもは通らないんです。車輪がつっかえっちゃうのは覚えていたから。でも今日はこのラベンダーの花の中に入ってみたくて、つい入りこんじゃった」
「いいんです。今は私がいますから。ちょっとガタンとしますよ」
槇村は少年の車いすを押し、石畳のやや鋭い段差を乗り越えた。そして知った。少年は小柄なのではない。椅子に座りひざ掛けをかけた脛が驚くほど長い。
結核が骨にまわって背骨が縮んでいるから小さく見えるのだ。
「ありがとう。もう大丈夫です」
「もしかして君は、間宮ヨハネ君?」
土とニスの着いた作業着に手ぬぐいを首にかけた庭男から話しかけられ、ヨハネ少年は当惑した。白目勝ちの瞳をややしかめて、誰だろうと見つめる、その表情がかつて愛した間宮未亡人、ヨハネの母親にそっくりで、槇村の心は波立った。
「僕の名前を知ってるの?」
「はい。私は貴方が生まれる前から知ってます。昔坊ちゃんのお父さんの、書生をしていたんです。四ツ谷の御宅に住み込みで働いていました」
「ええ?」
ヨハネは驚いて目を見張った。
「新しい職員の人ですよね。夫婦で住み込みで入ったという……本当ですか? お父さんを知ってるんですか?」
目を輝かせるヨハネは父を知らない。父親は彼が生まれる前に急死していたからだ。書生で、間宮一家の傍近くにいた槇村はよく覚えていた。
「お父さんって僕に似てますか?よくお母さんそっくりとは言われるんですけど。頭のいい人だったんでしょ、そうでしょう」
ヨハネは目を輝かせて矢継ぎ早に質問する。姉や母親に聴いても言葉を濁すばかりで満足に答えてくれないからだ。
実際ヨハネは母親にばかり似ていた。大きな斜視気味の目や肌の色、ふとした仕草、顔つき。
だが軽く癖のある髪質や髪の色、上向きにややそっくり返った鼻の形は自分に似ていた。間宮記者とはあまり似ていない。
「男の子は母親に似ると言いますからね、坊ちゃん。だからお姉さんはお父様そっくりでしょう」
「そう言われるんですよね。でも父は写真もあまり残っていないし、姉さんも仕事とお酒のお付き合いでいつも家に居なかったというし、父の話って聞けないんですよ」
槇村はうなずいた。確かに鞄持ちである自分達書生より精力的に外に出て動き回っていたし、酒席でも一番飲んで大騒ぎしていた。気性も激しく笑ったり泣いたり怒ったり、とても忙しい人だった。姉のリカの気性の激しさは確実に父親に似ているが、この『息子』はどうだろうか。
「お父様は……そう、仰る通りとても頭のいい人で、新聞社の中でも一目置かれ、皆記事を書いてもらいたがりましたよ。そして書いた文章は見事で、先生が書いた日は新聞がよく売れました」
「わあ、素晴らしいですね。頭のいい父親なんて素敵です。お姉さんにその才能が行ったんだなあ」
ヨハネは嬉しそうに笑った。その表情はますます槇村本人に似ている気がした。もっとも彼自身笑いを忘れて久しいが。
「だからとても忙しかったのです。先生は政治家の不正や醜聞を鋭く暴く記事を書いていましたから、取材中は家族が狙われないように新聞社に泊まりこんだり。我々弟子も身辺警備のために一緒に着いていましたが」
「なんかワクワクするなあ。自分のお父さんが戦う人だったなんて、憧れます。僕はこんなに体が弱いから」
「先生は弱い者の味方だったんですよ。不正でごまかした金を蓄財し、私利私欲で公金をくすねるような政治家や経営者を断固許しませんでした」
いつの間にか槇村も間宮記者について語るのに熱を帯びてきた。あの頃は記者に心酔し、彼の行く所どこにでもついて行った。それこそ芸者の所へも娼婦の所へも。そして嫉妬した奥様に当てつけもかねて誘惑された。男女の機微も駆け引きも、何も知らない18歳の小僧だった自分が。そこから盲目的に溺れて行ったのは自分の責任だ。
「槇村さんに逢えてよかった。家族は誰もこんなに教えてくれません。仕事をしている父の事なんて、誰も知らないから。でも家より社会の事の方に関心があったのかなあ」
例えそうだったとしても僕は父の事が一層好きになりましたよ。よくは知らないけど、ずっと憧れだったんですよ。屈託なく笑うヨハネ少年は、感謝のまなざしで槇村を見上げる。
私の子だ。否定しようもなく私の子だ。槇村は冷たい汗が背中を流れた。
「そんな事はありません、ヨハネ坊ちゃん」
槇村は力強く否定した。彼は思い出していた。大きくなっていく妻のお腹を愛おしそうに触りながら、リカと歳の離れた弟になるなあ、年取ってからできた子は可愛いというがどれだけ可愛いのかなと相好を崩す先生の姿を。強がりの間宮記者は酒が入らないと愛情表現が上手くできなかったが、酔っぱらって嫌がられながらも長女のリカを傍に置きたがった。
正直な、人間臭い、愛すべき先生だった。
「間宮先生は……ご家族を本当に大事にされていました。お忙しい中でもお母様やお姉さんを本当に愛しておられて」
ワクワクと自分を笑顔で見上げるヨハネに、槇村は笑いかけた。やっとの思いで口の端を持ち上げ、ヨハネの目を見て思った。この瞬間俺たちは同じ顔をしているに違いない、と。
「お父さんは、ヨハネ君がお腹の中にいる時から、とっても可愛がっておいででした。元気に出ておいで、生まれてきたら一緒に色んな所に行って、沢山本を読もう。本だけはいっぱい持っているからね、と。お腹の中の貴方に三国志演義や西遊記、イギリス倫敦塔の怪奇話等読んで聞かせておられました。本当に、貴方が生まれるのをどれだけ楽しみにしておられたか」
「ありがとう。それを聴きたかったんだ」
遠くで槇村を呼ぶ声がした。庭園整備の班長だ。
「では私は行きますね。坊ちゃん、お体が少しずつでもよくなりますように」
「うん。よくなるよ」
ヨハネ少年の嬉しそうな笑顔を、槇村はこれ以上見ていられなかった。逃げるように整備小屋に戻るとホッとした。
以来槇村は、患者となるべく接しない仕事を選ぶようになった。例えきつくても汚れ仕事でも彼にはその方が楽だった。サナトリウムで働く日々は至極平穏で、佐田芳子も同僚の女性達と仲良く交わりながら、穏やかな日々を過ごしていた。プロレタリア革命も、労働者の権利闘争も、青年同盟もシュプレキコールも、ここでは遠い事のように思えた。




