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千切れ雲の流れるところ・1

 ドンドンドン

 早朝の静けさを破るガラス戸を激しく叩く音に、槇村と佐田の目は醒めた。

 特高か!警戒のため服を着たまま横になっていた二人はがばっと身を起こした。昨夜の逃亡劇の後ようやく眠りに落ちたのが明け方で、神経はまだ昂ったままだ。


「はいはいはい、誰よ、うるさいわねえ」


 間宮未亡人のいかにも眠そうな、のんびりとした声と共に階下で動き出す気配。そして不意に廊下でがちゃーんと激しい物音がした。

 薄く戸を開けて見ると、アルミの水汲み柄杓が階下から投げ込まれ、転がっていた。寝ていると思しき二人に知らせるために、未亡人が投げ上げたものに違いない。

 槇村と佐田はそそくさと身なりを整え、枕元の靴を引き寄せた。


「おかあさん、いるんでしょ。いつまでも寝てないでよ」


 イライラした若い女の声が響く。


「分かったわよ、大声出しなさんな、みっともない」


 未亡人が玄関の鍵と突っ張り棒を外すと、けたたましい音を立てて戸が開き若い女が飛び込んできた。化粧っ気もなく目を吊り上げた間宮リカだった。


「あらお嬢さん随分早いじゃない、何か御用?」

「ご用じゃないわよ。ちょっと奥に入らせて」


 やや声を潜め、リカはずんずんと奥の茶の間に入った。明らかに何かを警戒している。彼女は昨夜芝居の後散り散りになった作家達の一人、碧生蒼太郎のパートナーだ。彼が特高にでも捕まったのだろうか。


「槇村さん……」


 佐田が心配そうに階下をうかがう。


「静かに。話が聞こえてきますよ」


 母と娘は玄関から茶の間に移った。もちろんきちんと玄関の鍵は閉めてある。


「で、どうしたのこんなに早く」


 茶卓を挟んで向かい合う二人の女は鋭い目を交わし合った。母はしどけない寝巻の浴衣姿、娘は手縫いのワンピースである。


「昨夜から今朝にかけて、そちらに変った人達が来なかった?」

「変った人達って、別に。誰も来ないけど」

「警察とか……特高とか」

「来ないわねえ。惣菜屋の集金人くらいしか来ないわ」

「本当ね」

「嘘ついてどうするのよ。何かあったの? 」


 リカはほうっと一息ついた。つ、と立って自分で湯のみに水をくみ、持ってきた。この母が茶など出す女でないことは十分承知だ。それに自分は客ではない。


「この家にいた書生の槇村さんって覚えてる?貴女の愛人だった人よね」

「ああ、学生さんね。確かに居たわねえ」

「その人、今は舞台作家になって劇団に入ってるらしいの」

「あらあらご立派」

「茶化さないで。それで、昨晩彼の書いた劇の公演があって、碧生先生は招待を受けて出かけたの。片桐さんと湯浅神父と一緒にね。そこで特高と一悶着あって」

「あらあ……」


 間宮未亡人はそこで初め事情が分かったという顔をした。


「で、貴女の相方さんが捕まっちゃったの?」

「まさか。それだったら私がこうして出歩いたりできないわ。芝居がはねた瞬間に特高がなだれ込んできたけど、碧生さん達は皆逃げ切った。随分遅くに帰っていらしたわ」

「よかったわねえ」


 槇村と佐田もホッとした。お客も大勢しょっ引かれ碧生達はどうなったか気にかかっていたのだ。


「ともかく、その特高が問題視してる芝居の作者が、貴女がずっと下僕にして飼育していた槇村さんって事。そして今は取り締まりの対象になっているっていうのを耳に入れたくて」

「あらあらお優しいのねリカちゃんったら。心配してくれて可愛い」


 母の能天気な様子に娘はため息をついて立ち上がった。


「関係ないならいいけど、お母さんも気をつけなさいよ」

「わかった」


 リカは美しい顔をしかめながら帰って行った。相変わらずこちらの言う事にちゃんと答えてくれない母だ。だがその母が、自分がいたその家に二人を匿っている事は気が付かなかった。


 朝になり四ツ谷舟町の小路にも行き交う人の姿が目立つようになった頃、佐田と槇村はお礼を言って間宮家を辞した。二人はひとまず槇村のぼろぼろの下宿へ向かおうとしたが、静かな住宅地のそこかしこに、明らかに異質な空気を醸しながら佇んでいる人影を見た。訓練された犬のように近所をうろつく、特高警察とその協力者である事はすぐに分かった。槇村は遠くからその姿を見るや踵を返した。

 佐田の一人暮らしの下宿も同様だった。白昼の街中に影のように移動する男達。佐田と槇村は着の身着のままで町に放逐されてしまった。

 劇団の他の仲間は無事だろうか。団長や主演男優の杉本に連絡を取ろうと思っても、下手に動く事はできない。

 あの楽屋の荒され方だと、取り締まりは一過性のものではなく、劇団の上部組織まで根絶やしにしようと睨まれての結果だ。

 困り果てた二人は、昨夜交わした碧生や湯浅との会話を手掛かりに、目白のサナトリウムに向かった。

 レフ少年にもらった名刺の住所にも内心魅かれたが、まだ正体がわからない。確かに話は素晴らしいが槇村は彼を警戒し、直接家を訪れるのはためらった。


 街を行く屈強な背広の男達に怯え、警官の姿を見ては避けながら市電に乗った佐田と槇村は、江戸川橋から目白の坂を上った。市電の目白から雑司が谷や女学校の前を通って坂を下りる路もあったが、少しでも近い方を選んだのだ。

 目白の丘の上のカトリック教会のすぐ脇に、英国の田舎の邸宅風のサナトリウムはある。槇村はその存在を文芸誌で読んで知っていた。随筆家の医師・徳永の経営で作家・碧生蒼太郎も療養していた理想的な施設。粗い写真ではあったが教会の尖塔を背景にのびのびと過ごす患者達の暮らしぶりが紹介されていたのを覚えていた。

 官憲から追われたどり着いてみると、目白台の丘の天辺で、その辺りでは最も空の青に近く、いい風が吹き抜ける。なるほど胸を病む人の療養には格好の環境だ。

 初夏から梅雨寒に入りつつあったこの日、サナトリウムの門から外壁にはぐるりとつる薔薇が白いつぼみを房につけ、今まさに咲こうとしている。紫色のライラックや、中の建物の茶色い屋根に届きそうな程すらりと伸び、艶やかな紅い花房を幾つも着けるマロニエの大木。

 せせこましい自分の下宿の周囲や築地の劇場周りの物々しさとは別世界だ。自分達のいる世界とはレベルが違う。碧生蒼太郎はこんな別天地で療養生活を送っていたのか。

 キャリアは比べ物にならないが、同じ物書きとして槇村は嫉妬を覚えた。

 その碧生はもう退院して間宮リカと暮らしているはず。突然自分のような、施設と縁遠い者が押しかけても追い返されるかもしれない。槇村はしばし考えた。


「まずは教会に行きましょう、佐田さん」

「え なぜ教会に。 貴方はクリスチャンだったの?」

「違いますよ。いきなりの訪問より知っている人を介して、まずは僕らを紹介してもらったほうがいいでしょう」


 目白司教座聖堂の受付に問い合わせると、堂主の男は二人の切羽詰まった様子に怪訝な顔をしたが、すぐに湯浅神父を呼んでくれた。

 その様子から危急の懺悔希望者とでも思われたに違いない。


「あなた達は運がいいですよ。神父様は最近とてもお忙しく、教会や隣の療養所に居ない事が多いのです。どこか遠くへお出かけらしくて」


 口が軽い堂主はどうやら退屈していたらしい。

 ややあって悠然と歩いてきた神父は教会受付で待つ二人に驚き、無事逃げのびたことを祝福した。


「観劇に行って思いがけない活劇の当事者になるとは、私も想像しませんでしたよ。日頃この坂道で足腰を鍛えておいてよかった」

「碧生先生や片桐さんも一緒に逃げおおせたのですか?」

「ええ。三人とも何とか。碧生さんは急に激しい運動をしたのと、もみあいになって少し殴られたので大事をとって休んでいますが」


 槇村はぎり、と歯を噛みしめた。今朝がた間宮夫人の元へやってきたリカの剣幕が理解できた。

「事情は承知しました。奥様共々私の方からも院長に口添えしましょう。病院内に二人で働ける職は幾らでもあるでしょう」

 神父は二人を促し立ち上がった。壁に取り付けられた大きな十字架が無言で威圧してくるようだ。


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