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黒い瞳

 少年の車から降りた槇村と佐田は、新坂通りを少し入った路地裏でしばし逡巡した。

 絵師片桐を通して知ったリカお嬢さんと文士碧生の新居は、ここより少し離れた奥まった路地だ。その住所に招待状を送ったのだから間違いない。だが問題は劇場で特高刑事と劇団員、観客の大混乱の中はぐれてしまった碧生達が無事帰って来ているかだった。絵師片桐も湯浅神父もふらりと通りがかった客ではない。がっつりプロレタリア運動と関わっている自分の招待客だ。身柄を拘束されたとしたら簡単な尋問程度では済まないだろう。そんな碧生の借家を頼って行くのは危険過ぎる。だったらどうするか。


「佐田さん、私が若い頃お世話になっていた新聞記者のお宅に、匿ってもらえるようお願いに行きます」

「分かりました」


 連続公演を終え、本当だったら新橋か銀座で仲間と祝杯でも挙げているところなのに大捕物に巻き込まれ、主演女優の佐田芳子は見るからに疲れ切っていた。ドーランがまだらに剥げた顔にくっきりとクマが浮いているし、空腹と眠気で足元もおぼつかない。謎の少年の車で逃げ切った、という安心感ががっくりと気力を奪っていったらしい。


「この新坂通りを入って、細い石段の脇の家です」


 槇村は佐田の体を支え、よろよろと歩きだした。


「未亡人がお一人でお住まいなのですが、多分今でもそこにいると思います。もう少しですから頑張って」


 何年か前まで過ごした四ツ谷の街並みは、当時と全く変わっていなかった。更に槇村が大学に入学して書生として住み着いた頃からも変わっていない。間宮邸は、大通りから複雑な石の階段を幾度も曲がり、小料理屋や小さな洋食店、表には漬け魚屋や乾物屋が立ち並ぶ奥にひっそりと佇んでいる。

 この石段で、まだ小さかったリカお嬢さんとヨハネ坊ちゃんが、近所の子らとケイドロや靴隠しをして遊んでいたっけ。三つ編みのおさげにきちんとワンピースを着た幼いリカと、体が弱く年上の子らの路上遊びを眺めてばかりいたヨハネ少年の姿が、石段に鮮やかに浮かんだ。


 トントン、夜のしじまを破らないように、槇村は細心の注意を払って間宮家の戸を叩いた。返事をしばし待つ間も、再びトントンと叩く際も、槇村と佐田は周囲の路地と家々の窓に人影がないか注視していた。

 玄関の戸の向こうに白い浴衣姿が現れた。小柄な姿はかつて愛し抜いた奥様だ。


「どなた?」


 昔のままの、酒焼けしたかすれ声が微かに返ってきた。


「槇村です。以前書生としてお世話になっていた」


 あら、と驚く様子が玄関のガラスの向こうから伝わった。


「槇村君、どうしたのこんな夜中に」

「女性と二人で追われているのです。お願いですから朝まで置いてください」


 事情は聴かないでください。そう槇村は言いたかったが、それを言う間もなく間宮夫人は急いで玄関を開けてくれた。


「早くお入りなさい。鍵を閉めるから。このまま真っ直ぐ入って二階へお行き。槇村君のいた部屋は空いているから」


 この時間に追われているというだけで、一般市民なら敬遠しそうなところだが、黙って受け入れてくれるところに、槇村は間宮夫人の変わらない無鉄砲さを感じて懐かしくなった。

 槇村と佐田は急な階段を上り、幾つも小さな書生部屋のある二階の、一番手前の部屋に身を置いた。


「ひとまずここに居れば安心です、佐田さん」

「あのご婦人は本当に大丈夫なんですか?」

「間宮夫人は性格は破天荒ですが、信頼できる芯の通った方です。だてに新聞記者の未亡人ではないですよ」


 トントン、と階段を途中まで上る音がした。


「槇村君、ちょっといいかな」

「はい! 」


 途端に叱られたように姿勢を正し、槇村は部屋の障子戸を開けた。小柄な間宮夫人が灯りを手に、階段を半分上ってきた。


「これ、娘のリカが残していったものだけど、お嬢ちゃんのお召し替えにどうかなと思ってさ」

「あ、ありがとうございます」

「ありがとうございます」


 佐田も出てきて、階段の途中から着替えを受け取った。逃亡中という事で気を遣ってかサマーセーターにスラックス。女にしては背の高いリカのものだから、佐田にも多分合うだろう。


「それとね。たらいにお湯を沸かしたから降りてきて手と顔くらい洗いなさい」


 何から何までありがとうございます。

 槇村と佐田はペコペコ頭を下げた。間宮夫人、自分といる時と性格が変わったか? 槇村は別れ際のヒステリックで高圧的な下着姿を思い出し、時の経過を実感した。


 言葉に甘えて顔と手と髪を湯で洗い、固く絞った布で体も拭き二人はそれぞれ着替えた。槇村には死んだ恩師の服があてがわれたが、20年近くしまい込まれていた下着とワイシャツは、ほのかに埃と黴の匂いがした。いつでも逃げられるように寝巻や浴衣ではなく外出にも怪しまれない服を貸してくれるなど、間宮夫人は事情をよく理解している。

 軽食を頂いた槇村と佐田は狭い空き部屋の畳に離れて寝転んだ。一旦横になると全身の疲労感がどっと出て、地球の重力が何倍にもなったように体が重く、動けなくなってしまった。それほど疲れ切った一日だった。だが自分達はとにもかくにも逃げ切った。他の仲間は、招待して巻き込んでしまった碧生、片桐、湯浅神父は。特高に捕まって所轄の築地警察などにしょっ引かれたらただでは済まないだろう。なにせそこは彼のプロレタリア作家、小林多喜二を拷問死させた警察なのだ。


「朝になったらここを出ましょう。家が官憲の捜索を受けていないかは疑問ですが……」

「分かりました」

「それまでゆっくり体を休めましょう。大丈夫です。僕は貴女に近づいたりしませんから」

「いえ、そんなに気を遣ってくれなくても大丈夫ですよ。私、貴方だけは大丈夫なんです」

「男として見ていないからですよ。ある意味光栄です、男だなんて厄介なだけです」


 畳も陽に焼けた狭い部屋の両端に二人は寝ころび、目をつぶって休もうと試みた。だが瞼の裏に自分達に襲い掛かる官憲の群れと、雪崩を打って逃げだし自分達をもみくちゃにする群衆の脅威が蘇ってきて眠れないのだ。身体は疲労困憊なのに、神経が高ぶって休まらない。そっと様子をうかがうと、横になって自分を見つめる佐田も眠れないようだった。


「お互い眠れませんね」

「はい」


 槇村の問いに佐田は素直に答えた。まったくとんだ一日だ。二人は苦笑した。明日以降劇団は存在しているのだろうか。


「佐田さん、僕は多分自分の下宿には帰りません。劇団が生きのびようがこれでつぶされようが、一区切りだと思えました」

「下宿に帰らないって、ここにお世話になるの?」

「いえ、そこまで厚かましいことはできません。僕はソビエトに行きたいんです」

「ソビエト!」

「ええ。そこで演劇を一から勉強したいんです。劇を書く、書いたものを人が演じるという事について」

「日本ではやらないということ?」

「日本では……もうおっつけできなくなると思います。新しい考え方や試みなんかは、片っ端から潰されていく。そんな風になっていく予感がします」


 二人は顔を見合わせて思った。劇団のすぐ近くの築地警察署内で殺された先輩作家、小林多喜二の事を。

 日本に表現の未来はない。学ぼうとしても学べなくなる。過去の模倣と焼き直しだけやっていれば安心、という世界になる。

 槇村はそう訴えた。


「もうなっていますよね。この今も、刻一刻と」

「佐田さんも感じますか?」

「ええ。見上げた空がどんどん蓋をされていくような、そんな空気が」


 槇村が日本を出たいと思ったのは今急に、というわけではなかった。ドイツ帰りの団長・土田が学んで来た海外の進んだ演劇理論、役者の訓練法、劇的なアプローチ。それら全てが槇村の演劇欲を書きたてた。特に当時既に伝説的なプロットの同士で俳優として有名だった佐野碩が滞在しているというソビエト演劇の身体表現とその訓練法に惹かれていた。日本の労働者演劇界では雲の上の人である彼も、日本での共産党弾圧の後ドイツに渡り、現地の日本人による「反帝グループ」の手引きでソビエトに渡って学んでいるという。


「佐野先生のお名前なら聞いたことがあるわ。帝大法学部から労働者のための演劇に入って、日本プロレタリア劇場同盟の中心になられた方よ」

「モスクワにはね、外国からやってきた労働者や学生、共産主義を学びたいものが無料で学べる大学があるんだ。外国人専用の、寮も食事も完備された大学だよ。そこには既に日本人の同士も何人か行っているっていうじゃないか」


 槇村の目が生き生きと輝いてきた。身体は逃げ回って体は疲れ切り、さっきまでは心も沈んでいたのだが、車の中で少年から聞いた福音を思い出したのだ。


「労働者を弾圧する天皇の警察も、神の兵隊もいないんだ。男も女も皆平等で、勉強も労働も昇進の機会も等しく与えられるし家事も半々だっていうんだよ、彼の国は」

「そんな素晴らしい情報……槇村さんは誰に聞いたの?」

「さっき助けてくれた混血の金持ちの少年さ。君は疲れ切って眠っていたから知らないだろうけど、彼は色々と外国の日本人やコミンテルンの人間にルートを持っているらしい」

「あのロシアやドイツの血が入っているという、綺麗な子ね。でも彼はまだまだ子供よ」

「子供でもいいさ。彼は近々ドイツに留学に行き、そこからソビエトに入るという。そうしたら我々にも情報を送ってくれるってさ」


 槇村は元来人を疑う事を知らない、無邪気な性格の漢だった。自分を助けてくれたという一点だけで、夜中に築地に佇んでいた、制服を着たほんの子供の中学生を信じる気持ちになった。


「モスクワには素晴らしい劇場とコーチたちが揃っている。日本みたいな、あっぱれ新派大悲劇の辛気臭い台詞の調子で、お客を泣かせてなんぼの芝居とは違う。言葉を超越した、体で聴衆に訴える方法ができているんだ。それを学びに行く。機会を逃すつもりはないよ。かの名演出家メイエルホリドに学ぶ事もできるかもしれない」

「男も女も分け隔てのない社会……素晴らしいわね」


 佐田はそんな事があるはずがない、と言わんばかりに力なく呟いた。


「私は男が嫌だから……自分が弱い女だって思い知らされるのはとても嫌だから、そういう世界があったとしたら素晴らしいと思うわ」


 槇村は何も聞かなかった。ここまで送ってくれた少年の自家用車の中で、疲れて眠ってしまった呟いていた小さな声を聴いたからだ。

 やめて、お父さん、やめて、言うこと聞くから、怖いからやめて。

 そう彼女は苦しげな寝言を言っていた。彼女の事情を察するにはそれだけで充分だった。


「たとえ誇張が入っているとしても、この日本よりはずっとましですよ。行きましょう、佐田さん」


 佐田は何を言っているんだろうという目で槇村を見返した。


「僕は男としてじゃなく、人間として君の傍に居ますから。逃亡しましょう」


 槇村は佐田を守ろうと心深く決めた。


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