特高警察と少年・1
「おい槇村、何をきょろきょろしている」
『百舌鳥の遊戯』の最終日。
開演5分前を告げるベル代わりの銅鑼の音が聞こえる。
脚本の槇村良吉が劇場の客席出入り口近くに立ってお客達を眺めていると、劇団代表の土田がさりげなく近づき声をかけた。
「どうした。不安なのか?もう大楽だぞ」
「いえ、招待状を送った知り合いが来ていないかなと」
「珍しいな。誰に送ったんだ。親兄弟か?」
「作家の碧生蒼太郎氏と、翻訳家の間宮リカさん、他にも数人に」
「まさか券を同封したのか?」
当時のプロレタリア劇団は今のように、また少し前の羽振りがよかった時代のように知り合いに進呈するほどの余裕はない。一般券より安い「労働者券」が存在し、その労働者券は各企業の労働組合や非合法のプロレタリア組織へ郵送される。共産党の隠れ蓑になっているグループにも送られた。その発送用の名簿こそ、特高警察が喉から手が出るほど欲しい物であり、度々劇団が踏み込まれ家探しされる理由でもあった。
「いえ、ご案内の手紙を出しただけです。まだ見えていませんが……」
「そうか、気を落とすな。そんなの当たり前の事だ。面と向かって『是非伺わせて頂きます』なんて言ってもその後音信不通だなんてのもよくあるんだ。俺もしょっちゅうある」
今まで一顧だにされなかった、ただの掃除や下働き要員だと思われていたに違いない、ドイツ帰りの土田代表からやっと人間として認めてもらえた。
自分は何一つ変わらないのに、変わっていくのは周囲なのだな。そうですね、と苦笑しながら土田を見送った槇村の目に、満員の観客席の最後尾の両隅に、帽子を被って佇む男達が映った。なるべく目立たないよう地味な会社員風の服装、だが周囲を威嚇するような剣呑な雰囲気を漂わせている、紛れもなく警察の、それも特高警察の猟犬達だ。最終公演にガサ入れをしようと企んでいることは明白だ。
槇村が楽屋の役者やスタッフ達に知らせるべくドアの近くに移動すると、特高刑事達も目で追い、さりげなく移動する。槇村は移動はあきらめ、銅鑼を鳴らし終えて楽屋に戻ろうとする進行係に笑顔で話しかけた。表向きは煙草をせがむ仕草にしか見えないが、特高が来ているから名簿と重要書類は持ち出せるようにしておき、何時でも逃げられるようにしておく事と囁いた。
「これ、土田さんには内緒だよ。あの人煙草嫌いだからなあ」
わざと明るく進行係を見送り、槇村はもらった煙草を胸ポケットにしまい、開幕を待った。
「ここですよ、片桐さん。急いで下さい」
「まあまあ碧生君、ゆったりと。劇というものは大抵、幕が開いても初めに口上を述べたり、状況の説明が入るものだ」
「ヨーロッパのオペラでしたら序曲が5分程度入りますからね」
「そんなのあるわけないでしょ。、ここはプロの演劇集団ですよ。きっと手際よく進んでしまいますよ」
築地の通りを急ぎ足で劇場に向かう三人の男達がいた。
独りは実直そうな痩せた若い男、もう一人は瀟洒な身なりの遊び人風の男。もう一人は司祭の黒い上着と帽子を被った小柄な男だった。
悪名高き築地警察の特高は、急いでプロレタリア劇場に入っていく3人を見逃さなかった。
築地プロレタリア劇団の『百舌鳥の遊戯』最終日の公演は大成功だった。
殺人など蚊を手で潰した程にも思わない女を演じた佐田が深々と頭を下げ、ひも男役の杉本と手を繋いで何度もカーテンコールに応じ、ステージに出てくると、熱狂した観客は拍手だけでは飽き足らずに足を踏み鳴らし、口々にシュプレキコールを上げ始めた。
労働者万歳。怠惰な成金共に刃を突き付けろ。未来は庶民のものだ。虐げられた人々に勝利を。
「労働者万歳、プロット万歳。間抜けな警察どもを打擲せよ!」
飛び交う檄と共に観客達はどんどんと足を踏み鳴らす、その音が薄いトタン屋根を打つ土砂降りのように聞こえた。
槇村は特高の動きに目を光らせていた。
『まずいな……今にも動き出すぞ……』
「槇村君!」
不意によく通る高い声が、ざわめきとシュプレキコールの中、耳に届いた。
「片桐さん、来てくれたんですね」
槇村は一瞬緊張を忘れて振り返った。男三人が拍手をしながらこちらに向かってくる。書生当時から知り合いの絵師の片桐と、その仲間のカトリック神父。そしてもう一人は?
「見事な舞台でしたね。人間の無邪気な怖さがとてもよく表されている」
「私的にはもう少し美しい洒落た舞台美術の方が好みなんだが」
あくまでも美にこだわる片桐を、痩せた若い男が嗜めた。
「片桐さん、精神的にも視覚的にも、リアリズムが大事なんですから。あれが『真実』の姿でしょう」
「在りそうな衣装、現実から抜け出したような大道具と小道具でも、魂を映しているとは限りませんよ」
片桐はそうかなあと首をひねる若い男を、前面に押し出した。
「槇村君。この人は間宮リカさんのパートナーの碧生君だ」
槇村はぺこりとお辞儀をし、その様子をまじまじと見た。結核で除隊した元パイロット。きつい性格のリカお嬢さんと二人三脚で文筆に励んでいる若手文筆家。
「どうぞよろしく、槇村です」
「こちらこそ、碧生蒼太郎と言います。いや演劇を拝見するのはほぼ初めてでしたが、素晴らしいものですね。あんな世界を作り出せる人達を心から尊敬します」
碧生と自己紹介した若い作家はキラキラ光る眼で槇村を見上げた。そうか、こういう目をする男がお嬢さんを射止めたのか……
カーテンコールを終えた役者、スタッフ達が壇から降りて観客達と親しく交わっていた。観客達はお目当ての役者を囲み、口々に讃美を送っている。その輪の中にヒロインを演じた佐田のほっそりと美しい姿を槇村は見逃さなかった。
「佐田さん、お話終わったらこちらに来てください。お目にかけたい人がいるんです」
佐田芳子がホッとした様に疲れた笑みを槇村に返した瞬間、舞台裏から大勢の入り乱れる足音と怒声、がちゃーんと物の壊れる音が響いた。
「警察だ!」
舞台裏から舞台上へ逃れてきた役者がドーランも落とさず衣装のままで、踏み込んできた警官隊と立ち回りになっている。と同時に歓客席後部に二手に分かれていたポリ公達がざっと展開して観客席のドアを塞ぎ、客が逃げられないよう人の壁として立ちはだかった。バリケードである。
ピーッと呼子が吹きならされ外に待機していた応援の警官隊が押し寄せてくる。舞台裏から侵入してきた警官達も、棒を振り回しながら群衆に襲い掛かった。ここはプロレタリア劇団、つまり当事者も観客も「その筋の」問題ありの人物だけと官憲は踏んでいるのだ。
観客達も役者もスタッフも、全員入り乱れて我先に逃げようと警官隊と押し問答になった。人の波に巻き込まれ、槇村達も流されていた。
「我々も自力で逃げる。君も一緒に」
人波にもみくちゃにされながら、碧生達が一つだけ開いたドアに走りつつ手を差し伸べるが、槇村は首を振った。
「気をつけて! 」
そしてヒロインの佐田芳子を探して群衆の中に戻って行った。
「佐田君! 佐田君、槇村です!」
逃げ惑う人にぶつかり、はたかれ、足を踏まれながら槇村は女優を探した。
「槇村さん!」
客席から舞台に上がる低い階段の下から、白い手が見えた。槇村は階段の下へ滑り込んだ。組上げられた舞台の床板の下に、佐田芳子は逃げ込んでいた。ほとんど這いつくばるように体を低くし、美しい白い顔には埃や蜘蛛の巣が付いている。
「いい所見つけましたね。奥に潜んで逃げましょう」
「でも楽屋もトイレットも、裏口も全部塞がれているわ」
「ここは時間が過ぎるのを待ちます。何時間かやり過ごして、便所の窓から逃げましょう」
佐田と槇村は舞台の下に置いてある、余った角材や板の後ろに隠れ、ムッとする埃混じりの空気に耐え、足音が静まるのを待った。
警官隊と客の怒号は次第に外に向かい、上官の
「逃がすな! 片っ端からひっとらえてぶちこめ! 」
という蛮声が轟く。
二人の頭上、舞台の上はまだどかどかと荒々しく走り回る警官達の靴の音が聞こえている。二人は一層息を潜め、気配を消して小さく材木の影に隠れていた。
不意に階段の下から手持ち電灯が差し込まれ、舞台下を照らされた。
「どうだ」
「いない。蜘蛛の巣だらけで破られた形跡もない」
そうか。流石に逃げたか。残党は。楽屋や便所や天井裏を探した方が良さそうだな。
数人の警官の会話が聞こえ、足音は去って行った。槇村と佐田はなお数時間舞台の床下に留まり、夜半過ぎにそろそろと動き出した。




