ゾルゲの記憶
「へえ、面白そうな劇がかかっているんだ……」
銀座通りの楽器店、十文字屋の伝言板。各地の音楽会のポスターが貼られている中に一枚、どう見ても場違いな演目の案内があった。
『百舌鳥の遊戯』
『弁護士、実業家、無軌道な若者達は次々と大人達を殺めて行った。まるでノミをつぶすように。今日の鮮烈な若者像を映し出すプロレタリア劇場渾身の舞台』
朱と黒と白。ウイーンの表現主義のような鋭角的なデザインのポスターが、短く紹介された哀れ新派大悲劇のようなストーリーに不釣り合いで、妙に目に付く。
舶来の楽器・マンドリンを試し弾きに来た美しい少年は、制帽の下で大きな深い目を輝かせた。金持ちの子弟が通う事で有名な名門中学の制服に身を包んだ少年は、傍らの和服の女中を振り返った。
「面白そうではございますが、ねえやはお勧めできません。坊ちゃまにはまだ早いかと」
「ちぇっ。みかねえはいつもそういうなあ。中学校の先生より厳しいよ」
女をみかねえ、と甘えた声で呼んだ少年は、むくれた顔で帽子を深く被り直した。
「今日は楽器をお買い求めに来たのでございましょう。劇は観た所時間も遅めですから、お家に帰ってお父様とお母様にお伺いしてみましょう」
「はいはい」
仕立てのいい詰襟の上着のポケットに手を突っ込み、坊ちゃまと呼ばれた少年は弦楽器のコーナーに向かった。
少年の名は富士見レオ。旧制中学に通っている。日本人離れした手足の長さと首の長さ、明るい色の髪と彫りの深い小さな顔はロシアの血を引いた両親から受け継いだものだ。母からコーカサスとドイツ、父から白ロシアと日本の血を受け継いだ少年は、人形のように可愛らしい子供から独特のコスモポリタンな美貌の少年に成長していた。
だが成長するにつれ、周囲の少年たちと『そり』が合わなくなってきたのは否めない。通っているのは小学校から一貫の超名門キリスト教系男子校だが、それでも武道やスポーツ、特に当時流行っていた中学野球に打ち込む他の少年達と、ヨーロッパ音楽を好み、同時に歌舞伎や能に興味を示すレオ少年は次第に距離が出来ていった。
好きな音楽がベートーベンやモーツァルト、ブルックナーやブラームスという一派なら、まだ他にも愛好家の先輩もいたし学校内にグループもある。だがレオ少年が最初に聴いて感動し、以来打ち込んでいるのはそれよりはるか前、まだオーケストラ等誕生していない14世紀や15世紀、中世やルネサンス期の音楽だった。
アルス・ノヴァ、ノートルダム楽派、吟遊詩人の音楽にルネサンスの荘厳な声楽曲。そしてリュートやマンドリンといった小型楽器の伴奏によるダウランド・ソング。そんな当時の上野の音楽学校にもないような音楽がレオ少年の心を占めていた。
勿論長身と長い手足という恵まれた体躯を生かして、スポーツもそれなりに上手くこなしていたし、野球やテニスのグループからも誘われていたが、レオは断って好きな音楽を求め、銀座や日本橋のレコード屋を探し回った。彼が幼い頃から仕えているねえやの「みか」も一緒だった。乳母日傘というのは当時少しも珍しい事ではなかった。
「みかねえ、今日は四ツ谷に行ってみようよ」
四ツ谷にはその年カトリックの大聖テレジア教会が建ち、パリ宣教区からの司祭や修道女の施設が整えられ、山の手の文教と宗教地区となりつつあった。
省線の四ツ谷駅を降り、若木町の坂道を内藤新宿方面に上る途中の路地の奥に店を構える小さな古書店。そこに古い音楽関係の文献やレコード、楽譜を多く置いてあると、父の知り合いの音楽学校の教授が教えてくれたのだ。
重い木戸を開けて入る制服姿の美少年と、和服の小柄なねえやの組み合わせに、店の奥の女主人はじろりと鋭い視線を送った。
「少年少女向けの本はないよ、ぼくちゃん」
「パレストリーナに関する文献とジョスカン・デ・プレの『ミサ・パンジェリングワ』を探しているんです。ここにならあると聞きました」
レオ少年は流暢なドイツ語で答えた。店主が来日して長いドイツ人女性だと聞いていたからだ。母がロシア人とドイツ人の混血なので、家の中ではドイツ語が使われる事もある。おかげで日常会話で不自由しない程度に三か国語がしゃべれるのだ。
女店主はほう、という軽く驚いた顔をして、穴のあくほど少年を見詰めた。少年は髪も肌も色素が薄く、明らかにヨーロッパの血が混じった顔をしている。女主人は彼を気に入った。
「古い宗教音楽が好きなのかい? 楽譜はあるにはあるが今の楽譜の表記じゃない。特別な読み方が必用だし、言葉も飾り文字のラテン語とフランス語だよ」
「見せてくれるんですね、頑張って勉強します」
こちらにいらっしゃい、と女主人はレオを店の奥の希少書管理金庫に招いた。レオ少年の大股の長い脚の後ろを、ねえやのみかがちょこちょこと着いて行った。
女主人に気に入られたレオは、すぐに店に出入りする外国人達と顔見知りになっていった。彼の通う学校は飯田橋から靖国神社方面に歩いて10分程。四ツ谷までは徒歩圏内だ。
彼は学校の帰りに度々店に寄るようになった。混血という立場と特徴的な容貌のために級友や先輩達から目をつけられ、いじめというわけでないが他所者扱いされていた彼は、水を渇望する砂漠の植物のようだった。西洋の古楽や学問書に触れ、奥で愛好者のドイツ人やアメリカ人、チェコ人達と交わって円盤を蓄音機で聴く。そんな時間が楽しみになった。
ある時、白い麻の瀟洒なスーツに身を包んだ、ソフト帽の紳士がやってきた。手にはリュートのケースを下げている。
「お久しぶりだね、片桐さん」
「いつもお美しいマダム・ブコウスキー。お久しぶりです。変わらず毅然とお美しい」
彼は女主人が差し出して手を握り、掌に口づけしそうな勢いだった。レオは聞いていたギョーム・ド・マショーの古楽器曲が全く耳に入って来なくなった。
「おやそちらのダビデ像のような若者は?」
「最近よく来るお客さんでお友達。レオ君っていうんだよ」
「富士見レオといいます」
「ふうむ、君はまだ子供ですね」
片桐と呼ばれた男は棚からリュートの楽譜集を取ると、鋭い目でレオ少年を眺めた。
「中学生です」
「ふむ、その歳で古い中世の音楽が好きになるなんて、なかなか奇特な感性をしているのですね」
「失礼な。坊ちゃまご用が済みましたら帰りましょう」
いつもボディーガードのように側にいる「みかねえ」が喧騒な声を上げた。
「自分はこの近くのアトリエを構えて絵師をやっている、浮世の消費文化に貢献するしがない男ですよ。だが美しいものは徹底的に尊ぶ性質で。レオ君はこの楽器を知っていますか?」
「マンドリン……に似ていますね」
「当たらずも遠からず。これはリュートと言ってまあマンドリンの兄弟のような楽器です。武骨な形と淡い響きで近代楽器の発達の影で消えてしまったが。これを構えてみませんか? 」
絵師がケースから出した武骨な弦楽器をはい、と嬉し気に少年は手にした。古書店の西向きの窓、その広い出窓に少年は腰を下ろした。
「マンドリンと弾き方はほぼ一緒です。弾いてごらんなさい」
「はい」
少年がそっとつま弾くと、膨らんだ胴の共鳴部のボリュームからは想像もできない、小さく朴訥な音がした。西陽を心持ち避けるように顔を俯けると、長い前髪で白い顔に暖かな影が下りた。淡い黄色が入った波ガラスを通して、片膝に楽器を構え夢中でセレナードを奏でる少年は、フェルメールの絵画のように神々しく映った。みかねえはほうっと感嘆のため息をついた。
「見事です。君はまさしく神の作り給うた美の一員です。私の創作の相棒になってはくれませんか」
何を言うんですかこの人は、ずうずうしい。ねえやは目を吊り上げて、この正体の知れぬ怪しい絵師から坊ちゃまを離そうとした。
「帰りましょう。レオ坊ちゃま」
「いや、みかねえ。僕はこの人の話に乗ってみようと思う。僕を」
少年はそっとリュートを持ち主に渡し、忠実なねえやを振り返った。
「『あいのこ』の僕を奇妙だと言わなかった日本人は、君とこの絵師くらいなものだ」
こうして富士見レオ少年は絵師片桐のアトリエの常連となった。富士見町にある学校と四ツ谷の片桐のアトリエは歩いて行ける距離だったので、中学が早く退けた日等少年は足繁く通い、不思議な西洋のガラクタや玩具、本、煙草に菓子等の散らかった室内の住民となった。
片桐のアトリエには他にも何人かの良家の子女が出入りしているようだったが、不思議と彼らと出くわしたことはなかった。見た目はバラックのようなあばら家だったが中は丹念に作ったドライフラワーが天井から下がり、亜細亜のタペストリーや英国の紅茶、亜米利加のレコードやスイスのオルゴール、チョコレート。蓄音機の朝顔のようなスピーカーからはクラシックやワルツが流れ、その中でレオ少年はソファに寝転がってマルセル・プルーストや梶井基次郎の本を読んだり、やるせないフランス語の流行歌を聴いたりして過ごした。
片桐は気ままに過ごす少年と会話を楽しみながらキャンバスに向かって筆を走らせ、時に素早くその姿をスケッチし、少年が飽きたと見るやパウンドケーキを切り、休憩にした。
「ティータイムです。紅茶にジャムを添えてもいいですが君はまだ未成年だからウォッカと共にお茶に入れる事はできないですよ」
いつも影のように付き従うねえやにも、レディーがお先にと茶菓を振る舞う、片桐は実に楽しそうだった。
少し先の陸軍駐屯地ではゲートルを巻き小銃を構えて警備にあたる兵士達が、否が応でも波高くなっていく世相を実感させるというのに、このアトリエの中は別世界だった。
「片桐さんは外国にいた事があるのですか?」
「なぜ?」
「いえ、我が家も父はロシア系だし、母はドイツとロシアの混血ですが、その二人より余程外国の暮らしぶりを再現している気がして」
「それは嬉しいね。私はドイツに居たんですよ。ずっと前にね」
「やはり絵の勉強ですか?」
「絵や文学……その他色々と、ね」
片桐は薄く笑ってその話題を早々に打ち切った。
時に少年とねえやと絵師は、外でお茶を喫する事もあった。片桐のお気に入りは赤坂紀尾井町の近く、迎賓館からほど近いティーハウスであった。
生粋の紅茶専門店というよりは近くの教会のフランス人やドイツ人の神父、大使館の職員や文学者も訪れる、コーヒーとどっしりとしたケーキ、紅茶とロシアンクッキー、ウォッカやビールも美味しい店だった。
「おや片桐君。美しいお連れさんをご同伴ですか」
緑の木々の下に並べられた白いテーブルで、三人が3段仕立てのティーセットを楽しんでいると、快活な声が降ってきた。
3人が顔を上げると、仕立ての良い夏服に身を包み美しい日本人女性を伴った、鋭い目の西洋人が立っていた。
「おおゾルゲさん、貴方に昼の木立の下で会うなんて思いませんでしたよ。銀座のドイツビヤの店ならいざ知らず」
片桐の言葉には少々の警戒と皮肉が混じっていた。ゾルゲの目が、夏の制服を着てティーカップを口元に運ぶ美少年・レオにぴたりと注がれていたからだ。その視線を受け止めながらレオは立ちあがり、少年らしくきびきびとした仕草で挨拶をした。
「はじめまして。富士見レオと申します」
「その制服は、〇〇中学ですね。こちらこそよろしく。新聞記者のリヒャルト・ゾルゲといいます」
レオはゾルゲの背後の日本人女性にも丁寧に挨拶をした。二人の佇まいからいって妻というわけではなさそうだし、ゾルゲからの紹介もなかった。日本滞在中の恋人だろう、そうレオは読んでいた。
「間違いました、ゾルゲさん。初めましてじゃありませんでした。僕は貴方にお会いした事があるんですよ」
レオはこの体格のいい鋭い目の紳士と知り合った以上、少しでも印象に残りたくなった。たちまちゾルゲの目が、友人の連れの可愛い子供を見る目ではなくなった。
「ほうそうなんですか。私の方には残念ながら記憶が……仕事がらお会いした人の名前と顔は忘れないのですが」
「お分かりにならないのも無理はありません。その時僕はまだ小さかったですし。でも貴方でしたよ、お会いしたのは」
「随分前、ですか。私は日本に来てまだ数年なのですが」
「6年位前の、麻布のお祭りの夜です。僕が落とした玩具を追いかけて、ここにいるねえやとはぐれて泣いている時、貴方が声をかけてくれた」
「そういえばそんな事もあったかな」
「僕は浴衣を着ていたはずです。まだチビで。貴方は『怪しい者じゃない。私はゾルゲというんだよ』と言っておいでだった」
ゾルゲは嗚呼、と大仰に手を広げて、少年の顔を覗き込んだ。はっきりと思いだしたようだ。
「思い出しました。あの時のお人形のように可愛らしいお坊ちゃん。こんなに大きく立派な色男になったのか」
そして新聞記者の名刺の裏にペンを走らせて言った。
「今度是非、私の家においでなさい。私は君にとっても興味が沸いたんだ。そこにいる片桐君と同じようにね。僕はドイツやアメリカ、上海と色んな所に赴任して、そこの本を買い、文化を学んできた。色々と面白い本があるから是非」
名刺を受け取ると、そこはレオの自宅からとても近い、目と鼻の先の赤坂永坂町である。
「私はあと少し立ち寄る所があるが、3時間後には自宅に戻っている。何なら今日中に来てくれてもいいんだよ。ドイツの夕飯を御馳走しよう」
そして日本女性と親しげに語らいながら去って行った。
「坊ちゃま、あの人は何となく危険な匂いが致します。行かれない方がいいと」
「僕もそう思うよ。君はまだ若すぎる。ゾルゲ君の毒に麻痺させられないとも限らない。君は若くて真っすぐ過ぎる」
片桐も物憂げに、ティーハウスの中庭に目を遣りながら忠告した。
「僕は行ってみようと思う。せっかくお近づきになれたんだし、家のすぐ近くじゃないか。みかねえ、大丈夫だよ」
「坊ちゃま」
「分かったよ。僕一人で行ってくるよ。ちゃんと父母には言っておくから」
その宵、まだ日の落ち切らない6時頃。永坂町の鳥居坂警察署正面。一戸建てのゾルゲの家の玄関に、学生服姿のレオ少年は立っていた。
独りだった。




