百舌の遊戯・2
チャンスは思わぬところから転がりこんできた。
劇団代表でドイツに演劇留学していた土田が次回上演作と決め、翻訳までして警察に提出してお伺いを立てていた戯曲に、一度認可されたにも関わらずストップがかかったのだ。
こういう事はよくある。前日になって場面の変更や台詞への介入、ストーリーの介入等まだ軽い方で、戯曲そのものへの疑問や否定等。
中には余程台本を読み込んで深い理解を得ていないと出来ない質問もあって、台本部や演出部は感心仕切りになる事も多いが、団員は歯噛みして悔しがった。
既に大道具も小道具も作り始め、稽古もある程度進んでいる。衣装プランもできているし、役者達によるチケットの手売りも進めている。
「なにかいい台本候補はないか」
自分の渾身の翻訳を駄目出しされた土田代表は頭を抱えた。既に公演準備は進んでおり、警察にちょくちょくしょっ引かれながらもビラまきやポスター貼り(どちらも非合法だった)もやっている。
「そうだ槇村が何か」
花形男優の杉本がふと思い出した。
「槇村君が何か新作を書いていたはずですよ」
「へえ彼が。初耳だな」
演出部のインテリたちが顔を上げた。
「暇を見てはコツコツ書き溜めているホンが何本かあるそうです。先日飲みに行った帰りにちらりと聞きました」
「槇村って、掃除や客席の準備やもぎりをやっている、あの槇村?」
「一応演出部助手という事で雇っています」
「いや、でも彼は大学を辞める前は政治家専門の記者の助手だったんだ。師匠の死後女に溺れて路に迷ったらしいがな」
演出部、俳優部の面々は狭い事務所で頭を突き合わせて思案していた。事務方いわく、俳優部のサラリーを切り詰めても、外部発注の大道具や小道具に賃金や材料費を不払いという事はできない。役者だって旗揚げ当初より随分給料は減っている。プロレタリア演劇の担い手としてはその方が格好がつくのかもしれないが、演技に精進するのにこれ以上アルバイトの為の時間を割く事はできない。今でも主役級の役者でさえ、他団に助演という形で出て収入を確保している有り様だ。無名の団員が書いた台本を、格安の原稿料で上演できれば、金銭的な損失は最小限で済む。
「誰か槇村の台本とやらを読んだ事のある奴いないか?」
「いつも持ち歩いているはずだから呼びましょう。奴は便所掃除をしていたはずです」
呼び出され、掃除でしみだらけになった汗まみれのシャツに汗で滑る眼鏡を押さえた槇村は、自信なさげに事務室にやってきた。そして洗剤や手汗で汚れたノートブックを差し出した。
タイトルは『百舌鳥の遊戯』
深川の狭い路地を汚れた工場勤務の小僧のような上っ張りを羽織った男が二人、そっと歩いている。一人が手に下げた風呂敷包みの中には手鍋が包まれていて、中にはとろみのついた液体がなみなみと満たされていた。
もう一人が先に立ってそそくさと歩き、人通りの切れた四つ辻の様子をうかがうと、もう一人が元来た道の後方をうかがう。
下町の町工場、メッキや染め物のつんと鼻を突く溶剤、酸の匂い。濛々と上がる湯気に異臭を放ちどぎつい色の流れを見せるどぶ。
その危うい渡し板の上に立って、独りの風呂敷包みを持った男が素早く包みをほどき地面に置くと、もう一人が服の中に仕込んだ刷毛をざぶりと漬け、角の電信柱と壁にばっと塗り、ポスターを貼っていく。
「お前ら勝手に何しとる!」
休憩でもあろうか工場から出てきた工員が、大声を上げて叫ぶ。
「怪しい者ではありません。同じ労働者の演劇をしている者です。今度上演する……」
「うるさい! お前らみたいに文学だ演劇だとほっつき歩いて生活できているような奴らは、労働者だなんて言わねえんだよ! 何がプロレタリアだ、旦那衆が!」
「警察だ!」
激しい締めつけで知られる築地警察の署員達が姿を見せると、あっという間に追ってきた。
「右に曲がると行き止まりだ。左に曲がって三差路を右に行け。そしたら大通りに出る」
先程仲間じゃないと言い放った工員は、苦々し気に逃走路を教えてくれた。
「ありがとう!」
二人が去ると、工員は警官達の目の前で、まだ糊の乾いていないポスターを破り去った。
「お前はあいつらの仲間か?」
いつの間にか逃げる劇団員達を追う警官の数は増え、一人が工員に厳しく詰問した。
「とんでもない。俺はここの工場の主任ですが、いつも無断で張り紙を貼られて迷惑しているんでさあ」
「振り切ったか?」
「ええどうやら」
「今日のノルマには届かないが、この深川近辺も巡回のポリ公が厳しくなってきたな、今日はやめておこう」
「明日は河岸をかえますか」
「ああ。両国の方に足を延ばすか」
服がべとべとだよ、二人の若者はシャツの腹や袖口、上っ張りにべっとりと着いた糊に閉口しながら顔を見合わせた。
二人を追っていた築地警察は作家の小林多喜二を拷問死させた警察署として悪名高い。だが劇場のある場所柄、所轄の警察は築地になるのだ。捕まったら劇団庶務が釈放の陳情書を出してくれるだろうが、それまでの間歯の一本や二本折られるくらいの暴力は受けるだろう。
「顔は勘弁してほしいよなあ、少なくとも公演の間は」
一人は槇村、もう一人は主演の男優・杉本だった。
倉庫を改造した劇場の、レンガ造りの壁に沿って歩く男の手元で、じゃんじゃんと銅鑼が鳴らされる。満員の客を前にして『プロレタリア劇団定期公演・百舌鳥の遊戯』は上演された。
幕が開き、そこは浅草を彷彿とさせる下町の路地だ。そして以前上演したメロドラマのセットを塗り替えたミルクホールが出現する。
ヒロインの毬江は浅草でつるしの背広を売る二流古着屋の売り子。夜はミルクホールの女給として働いている。毬江に寄生する男・達郎は文士崩れの放蕩学生。その弟分の三郎と毬江のひもになっている。
ある時借金が払えなくなり三人は美人局強盗を思いつく。第一の標的は毬江に色目を使う弁護士。弁護士宅に行った毬江は男を油断させる。隙を見て男二人が押し入り毬江を縛り上げて別室に監禁するふりをする。二人は包丁を持って弁護士を脅すが金はほとんど銀行に預けてあり、小馬鹿にする発言をされ弁護士を殺し、キリストの磔のようにドアに縛り付けて去る。
「急げ、衣装替え」
「転換、急いで」
一幕と二幕の間に舞監や大道具、美術、メイクに演出家が舞台と楽屋を走り回る。毬江役の佐田は緊張でぶるぶる震えていた。幕が上がれば誰よりも毅然とした、ふてぶてしささえ感じさせる迫力を見せるが、楽屋裏では別人のように気弱で怯えているのが常だ。
「佐田さん、凄くよかったです。ありがとうございます」
びっしりと舞台の割り付けが書き込まれた台本を手に、走り回りながら槇村が笑顔を見せた。
「俺は?」
ポスター貼りの日以来少し親しくなった、ひも男達郎役の杉本は、不満げにわざと顔をしかめた。
「最高です。皆さんありがとうございます」
「二幕、1ベル鳴らすぞ!」
ベルと言っても演出助手の銅鑼だ。
サーッと裏方たちが袖に引っ込み、幕が上がった。
二幕。
急いで逃げた三人。
毬絵は何食わぬ顔で仕事に通い、達郎も怪しまれないように大学に通い、家庭教師の職も見つけてくる。真面目な将来を誓い合った二人とその弟と、周囲の評判もよく全く怪しまれない。
だが二人目のターゲットを狙う。二人目は日露戦争で富を得た成金の新興実業家。新興実業家の男に抱かれる毬絵の姿に分かってはいても逆上する達郎。だが同郷の男にその「訛り」を指摘され、同郷の者を殺すのかと罵られ、逆上し、めった刺しにしてしまう。そしてまた百舌鳥のはやにえのように、遺体をドアに括り付けて去る。
逃げる三人だが、毬絵が店のマッチ箱に睡眠薬を隠し持った道具を落としてきてしまう。刑事、それを拾い上げ、捜査を始める。
毬絵が留守番をする古着屋に刑事たちが来て、警察署にしょっ引いて行かれる。取り調べに対し、ぺらぺらと全て喋る毬絵。しばらくして通路を連れて行かれる達郎と三郎が毬絵を罵る声が聞こえる。
毬絵は髪と化粧を整えながら
「ねえもういいでしょう、あたし帰っていいでしょう。全部話したわよ。いつになったら帰っていいの?」
と無邪気に刑事に尋ねる
幕が下りた。劇場内は窓が割れんばかりの、壁のレンガが崩れんばかりの拍手と足を踏み鳴らす音に覆われた。
プロレタリア劇場には通俗的すぎやしないかと一部で危ぶまれた演目だが、インテリ層の心配は稀有に終わった。槇村が描いた『百舌鳥の遊戯』は劇団に久々の大入り袋と、インテリ思想家以外の客層をもたらした。それはつつましいその日払いの賃金を必死に貯めてチケットを買ってくれる労働者達であり、三河島や日本堤からわざわざ足を運び涙してくれる遊女達であり、日々不穏になっていく世相に心のざわつきを押さえられない事務労働者達であった。
日頃劇団上層部が銀座のカフェーやバーで知り合いの作家や新聞の文芸記者、評論家達に頭を下げて引き取ってもらう、そういうチケットの客層ではなかった。
だが、いつも公演のたびに観客席の最後尾に陣取って、労働者万歳、演劇万歳、ブロレタリア芸術万歳とシュプレキコールをあげるブントの思想強化の人員は来なかった。彼らにしてみればとんだお涙ちょうだい、歌舞伎や剣劇、大衆劇と違わない低俗な作品と言いたいのだろう。
だが作品の評価は観客が決める。歴史が決める。そしてその日の公演は不入りが続いた劇団にとって久々の黒字公演だった。
「ありがとう槇村君、よくやってくれた」
劇団の上層部は一も二もなく槇村の処女作の長期公演を決めた。プロレタリア演劇協会からの覚えもよく労働者の啓蒙に使うべしとの指示も来ていたのだ。




