百舌鳥の遊戯・1
小さな労働者劇団の中では人間関係は不必要に親密になるか、反発しあって疎遠になるかどちらかである。槇村が団員に名を連ねたプロレタリア劇団がそうだった。簡単に言えば済む用件が小難しい左翼用語を使って話され、何かというとよくわかっていないと小馬鹿にされた。少なくとも槇村には自分の拙い文学論がそのような扱いを受けていると感じられた。演技や技術、文学的な真実味より、何よりも思想が上と言われると黙ってしまう他なかった。
劇団の仲間のたまり場となっていた事務局には大勢の役者や裏方、演出部に大道具と言ったスタッフがいたが、一番威張っているのは脚本と演出、そしてお世辞にも演技が上手いと言えない頭でっかちの役者だった。
男達の議論は時に喧嘩にまで発展する。そんな時決まって爽やかな大あくびをするのがヒロイン女優の佐田芳子である。
「また難しい事言ってるのね。私には全然わからない。ちんぷんかんぷんだから眠くなるわ」
男物のような白いブラウスにこれまたウールのスラックスを着こなして、煙草を指に挟んでがさつに階段に腰かける。彼女の服装はいつも男物のパンツスタイルで、色味も白か黒か灰色と尼僧のように禁欲的だったが、華奢な体つきにブラウスの上からでもわかる張りのある胸と豊満な腰は、男装故にかえってエロティックだった。
槇村はほとんど劇団事務所に寝泊まりし、間近に公演があろうとなかろうと雑事一般をこなしていたので、劇団員の動向は大抵把握していた。空気のように劇団に居ながらそれとなく観察していると、佐田芳子は例え素顔でも劇団の女優の中で文句なく一番美しいし、上級学校は出ていないが読書家で古今の詩歌に通じた才女である。だが一つ酷く不利な特徴があった。それはほとんど病的なまでの男性恐怖症だった。
普段でも男優や裏方と二人きりにならないように上手に立ち回っているし、稽古や舞台の本番で男優との濃い接触がある際は、舞台がはねた後でトイレに駆け込んでいる。
他の団員には
「男の人と一緒だと緊張性でお腹の調子が悪くなる」
と言っているが、槇村は知っていた。彼女はトイレで決まって吐いているのだ。外から嘔吐の音を聴くだけで見る事はなかったが、苦しそうに美しい顔をゆがませているという事は漏れ聞こえる嘆息や声でわかる。ただし口をゆすいで顔を洗って出てきた時はもうそんな素振りは見せない。いつもの爽やかで華やかな女性の顔である。
実生活はとても地味で男の格好を好んでいたのはもちろん、いつもかかとの低い革靴にスラックスで、舞台衣装以外ではスカートは絶対に履かず和服も着ない。上着も男物の背広やコート、ワイシャツを愛用していた。繊細な感性を隠した男装の美人。それが槇村の佐田芳子に対する印象だった。
いつも鼻の頭にしわを寄せ、汗を拭きながら眼鏡の下から自分を見ている。それが労働者劇団の清純派女優・佐田芳子からみた槇村良吉だった。お金の出し入れや当局への提出書類の作成、やたらと数多い郵便物の扱いを取りまとめる等の事務仕事を一手に引き受け、頭でっかちで現実世界との適応力に欠けるプロレタリア最前線の面々とは違っていた。
ここに来る以前は出版社の事務屋、さらにその前は女のひも兼校閲業。さらに前は学生で、ある新聞記者の書生で内弟子だったという。いつも低姿勢で困ったような薄笑いを浮かべながらけして他人に意見に逆らわず、だが自分の仕事は押し通す。おまけに語学に優れ、翻訳劇の訳が間に合わない時は口述筆記でその場で訳し、書記が書き留めたものを自分で浄書し製本してしまう。上演許可がなかなか出ない翻訳劇の、デリケートな訳文の表現もお手の物で、やたらと煩雑で時間ばかり食う警察との一進一退のやり取りのあげく、槇村の即訳に救われた事も二度や三度ではなかった。
鼠のように嗅ぎまわり、周囲の空気を読み取りながら劇団内のあらゆるところを走り回っている槇村を、佐田は小間使いのようだとしか思えなかった。だが彼がただの小心な雑用係ではないと思い知らされる出来事があった。
「佐田君、ちょっといいかな」
次回上演予定の舞台稽古の後で声をかけてきた男がいる。ドイツに留学していたという帝大出のインテリ・主演男優杉本である。いつもドイツ語混じりの小難しい事を言って、他人との会話でも常に優位に立とうとするその青白い男が佐田は大嫌いだった。演技をしている時以外でも全身に絡みつくような視線を感じて、いつも嫌だ嫌だと思いつつ本読みに付き合っているが、他の役者達も暗に二人はできているとでも思っているのか、わざと彼らから離れてしまうのがまた気に食わない。そして何より男と二人きりになるのを佐田は嫌悪しているのだ。
男優杉本は佐田を舞台袖に連れて行った。
「なあに杉本さん。今度の作品の事?」
今度の演目はレフ・トルストイの「生ける屍」という、明治期に日本に入ったメロドラマである。妻を愛しすぎたが故に出奔し自殺する夫フョードル役に杉本、夫が死んだものと思い他の男と結婚する妻のリーザ役に佐田。貧しき者の啓蒙に力を入れている劇団にしては大衆的な思い切った演目だった。それだけにこの作品の上演に不満を持つ演出部やインテリ役者がいる事は佐田も知っていた。
「ああ。君はどう思うかい?今度のこの、歌舞伎か謡曲のような煽情的な演目を」
「どうって……私は満足しているわ。リーザのような状況のままに流されていく女はたくさん居ると思うもの」
「でもね、流されてそのまま受け身のままというのはいかんと僕は思うんだ。特に、君のような知的な芝居ができる女優にそんな事をやらせるのは、冒涜と言ってもいいくらいだ」
「杉本さんの仰る事が分からないけど、観客の女性達はリーザの戸惑いを見て我が身のように感じるのではないかしら」
「それでも僕は不満だ。振り回されるヒロインに君は似合わない」
「振り回す旦那様役の方が、何を仰っているのやら」
台本と自分の顔を交互に見る杉本の鋭い目に、佐田は少しずつ距離をとった。
「君はリーザのような流される弱い女ではないはずだ。先日演出部の奴らと銀座で見た映画、同じトルストイ翁のアンナ・カレニナを覚えているよね」
「ええ。帰りに皆で洋食を頂いた時のね。楽しかったわ」
佐田はそろそろこの場を離れたかった。杉本の目が自分の全身を値踏みするように見詰めている、その視線が耐え難く胃がむかむかする。
「君はああいう、ヒロインのアンナのような強い意志を持って行動する女にこそふさわしいんだよ。その鋭い瞳とか」
杉本は急に台本を小脇に抱えたまま佐田の顔に手をやり、くいと自分に近づけた。瞬間、佐田はこみ上げる嘔吐に我慢できなくなった。急に咳こんだ彼女は、内臓を逆流してきたものを思い切り吐いた。杉本がよける間も有らばこそ、胃液とコーヒーと煙草のやにの混ざった吐瀉物が彼のワイシャツと上着にかかりそうになり、杉本はとっさにヒロインを思い切り突き飛ばした。床に転がされて嘔吐するヒロインに、杉本は踏んでしまったゴキブリを見るような目を向けた。
「あああ、服も床もドロドロじゃないか。君一体どうしたんだい」
「杉本さん、佐田さん、どうしたんですか」
「ああいいところに来た、槇村君。君このヒロインを介抱して床を綺麗にしておいてくれ」
「これは大変な……佐田さん大丈夫ですか」
槇村は急いでブリキの洗面器に水をくみ、洗濯したての布巾と雑巾を持ってきた。
「俺はこれで帰るから。まったく危ないところだった。おちおち主役同士の演劇論議もできやしない」
危うく汚れそうになった白い麻のワイシャツと薄手サージの上着を神経質に手で払いながら、杉本は急いでその場を去って行った。ドイツ製の靴の音が大きく響いた。
「佐田さん、もう大丈夫ですよ。嫌な奴は行っちまいましたよ」
槇村は自分の寝泊まり用の毛布をヒロインにかけながら穏やかに声をかけた。
「しばらく静かにして。胃でもやられたみたいですね」
「ごめんね。たまにこうなるの」
「僕がこの場を掃除して片付けますから佐田さんは楽屋で休んでいたらいい。今あの辺には誰もいないし、中から鍵をかけておいて」
「ごめんなさいね。不運にも通りがかったばっかりに」
「いいえ。僕がもう少し早く来れば、佐田さんは苦しまなくて済んだのだと思います。男の人、苦手なんですよね」
「……」
「ずけずけと無神経な男が悪いんです。女性はデリケエトなのは当たり前ですから。立てますか?」
ふらふらと立ち上がった佐田を槇村は支え、楽屋に横にならせて晒の布を何枚か渡した。
「これで服や顔をお拭きなさい。水はここに置きますから。僕が出たら鍵をかけるんですよ」
楽屋の水差しと洗面器にも綺麗な水をはり、槇村は戸を閉めて舞台袖に戻った。自分のシャツにもズボンにも、佐田芳子の吐瀉物がべっとり付いている。その脇を主役の杉本や警官役、村の裁判官役等の男優達がどかどかと通って行く。
「おお槇村。酷い格好だな」
「お前も災難だな。厄介な掃除が増えちまって」
「我らがヒロインの具合はどうだ?」
「大丈夫みたいですよ。知り合いの医者に立ち寄ると言って帰りました」
「まさかつわりじゃないだろうな」
「そりゃないよ。あんな堅物な娘に限って」
「いいや分からんぞ。杉本君とホイホイ二人っきりになるような娘だ」
男優達は大声でワハハと笑うと、じゃ頼むよと槇村に全てを丸投げして帰って行った。
酔っ払いの後始末なら間宮リカの母親の世話で慣れている。あの気紛れな奥様もよく羽目を外して深酒しては吐いていた。槇村が雑巾を何度も絞り、吐瀉物でぬるぬると汚れた床をきれいにする間、劇場内はしんと静まり返っていた。
佐田君は大丈夫だろうか。きゅっきゅっと擦り付けた指が鳴るほどにきれいに舞台袖の床を磨き上げた槇村は、雑巾をゆすいで裏の物干しに干すと、ヒロインが心配になって楽屋へ向かった。もうとっくに着替えて帰っただろう。そうしたら全館の点検をして自分も鍵をかけて帰ろう。
「佐田さん、まだいらっしゃいますか?」
予想に反して楽屋の中から声がした。
「ええいます。ちょっと横になって休んでいました」
「帰れそうですか? 何なら車を呼びますが」
「大丈夫。市電で帰れると思うわ。でも服が」
「待ってください。衣装を持ってきましょうか」
「でも私は……」
「分かっています。佐田さんは普段は全くスカートをはかない。和服も着ない。『桜の園』のトロフィーモフの衣装が洗濯してあったはずです」
槇村は衣裳部屋に行き、チェーホフの劇の衣装を探した。進歩的な大学生、青年の役衣装だが、白い立ち襟のシャツと細身のパンツと長靴、ただし上着はさすがに19世紀のヨーロッパスタイルで今の東京には奇妙だ。
「トロフィーモフをお持ちしました。小道具のベルトもついています。ズボン丈の長いのは捲ってください。上着は……」
「ありがとう。大丈夫よ。上着はカルメンのストールでも羽織って行くわ」
「じゃ、お出になる時は声をかけてください。僕は全館見回りしてきますので、佐田さんが出られたら僕も出て鍵を閉めます」
「送って下さる?槇村さん」
ドアを閉めた楽屋の中から、着替えの衣擦れの音と共に佐田芳子の声が小さく響いた。
「貴方なら安全な気がするの。私、男の人を意識すると気分が悪くて我慢できなくなってしまうのだけど」
「男と見られない。光栄です」
そういう意味じゃなくて、とあわてる佐田の声を槇村は苦笑しながら聞いていた。そう言われるのは慣れています。女から見くびられるのも慣れています。別に気を悪くなんかしませんからご安心を。
槇村は自嘲的な笑みを浮かべながら、劇場内の戸締りと点検に向かった。
それから槇村は佐田芳子の心許せる数少ない友人の一人になった。美しい佐田に頼られるのは悪い気はしないが、男優や演出部からは下僕のようだと笑われる。
下僕。それがなんだ。男は永遠に美しい女の下僕なんだ。自分をあっさりと捨てた間宮未亡人を思い出しながら、槇村は呼ばれればハイとはせ参じ、劇団の裏方からも下っ端の役者からも軽く見られながら重宝がられる存在になって行った。
笑うがいいさ。存分に。
槇村はただ腰を低くしているのではなかった。彼には大学以来久しく忘れていた野心が生まれつつあった。始めはヒロインの佐田芳子を通じて見ていた『演劇』ではあるが、裏方として何本も関わり、舞台裏から全てを見て行くにつれ、もっと『演劇』そのものについて知りたい。そしていずれ自分も人々の心を動かす台本を書いて、役者達に演じてもらいたい、と思うようになっていた。
帝都の新聞記者間宮道彦。その容赦なく権力の姿を炙り出すペンの力に魅了されて内弟子になった18歳の日々。その時の、自分も人々の苦しみや悲しみ、喜びを文章の力で切り取ってみたいという欲求が、忘れていた表現欲に小さな火を点けたのだ。槇村はアルバイトや劇団活動の忙しい合間に、日々目にし経験した人々の機微のスケッチを書きためて行った。
『俺の内なる劇を書きたい』
夜中や明け方、少しの時間の空きをみてはプロットを書き留め、紙の切れっぱしにメモしては上に重ね貼りして、ストーリーを積み上げる。ヒロインはもちろん佐田芳子の当て書きだ。誰の目に触れなくともいいし、まして上演など考えない。ひたすら自分のための劇、妄想の舞台だった。だが書くからにはそこに「真実」がなくてはならない。九割がた虚構の世界であっても一割はお客が魂の真実だと感じる瞬間がほしい。言葉がほしい。
槇村は慌ただしい日々の合間に、詩の空間から無理やり手繰り寄せるように言葉を編んでいった。ただ書いても書いても明るいものが書けないのには閉口した。佐田の魅力は悲しげな、存在の理不尽を体現するような役柄ばかりで発揮されるものではない。もっと元気な、隠しても漏れ出る生命力に溢れた明るさがあるのだ。違う。こんなものではない。槇村はうめき、頭を掻きむしりながら消しては書きを繰り返していた。




