ヤコブの梯子・4
昭和11年5月11日。
満州国とソヴィエトの国境、ノモンハン近くで両軍が衝突した。第一次ノモンハン紛争である。
戦線が瞬く間に拡大すると、帝都の大反乱に加担した師団で構成された柘植の部隊は最前線に配属された。
「生きて帰ってくるな。来るなら白い箱の中に入って帰って来い」
師団長の激が飛んだ。
いかにも「反乱兵士であるお前たちに死に場所を用意してやった」と言わんばかりの口調であった。
同年6月17日。
一度は引いた双方が再び軍をすすめ衝突した。第二次ノモンハン紛争である。ソヴィエト軍は中央アジアの山岳高地付近に展開していた精鋭部隊を投入し、名将ジューコフによる猛攻で、日本軍は各地で惨敗を重ねていった。
身重の柘植さやの近所に住み始めた間宮リカは、生活が落ち着くに連れ次第に母を正視できるようになった。
離れてみて初めて見えてくるものもある。
自由奔放な性を謳歌しているとしか思えず、嫌悪の対象でしかなかった母は、実は隣組の婦人会でも欠かせない中心的な位置にあり、近所から慕われているのを知った。
ふらふら出歩いてばかりと見えた、何をしているかわかったものではない母の行動は、実は寺の慈善活動だったり、宮城や明治神宮への清掃奉仕だったり。
大学の研究室に閉じこもっているばかりのリカより、ずっと社会に溶け込んでいた。
久々に私物を取りに実家に寄ったリカは、一階の母の部屋や寝室、書生部屋ががらんとしているのに気が付いた。いつも従属物のように母を慕いついてくる愛人の書生、槇村の姿がないのだ。
「お母さん、槇村氏はどうしたの? いつもお母さんの近くにいたじゃないの」
「ああ、あの子ね。出て行ってもらったわ」
「お母さん捨てられたの?」
「貴女には残念だけど逆。私が追い出したの。鬱陶しくなっちゃってね」
「お気の毒に、あんなにひたすら付き従っていたのに。見苦しいくらいに」
「そうね、そこよね。盲目的に崇拝されるとかえって疲れちゃうし飽きちゃうの。若さもなくなって来たしね、フレッシュネスって大事だわ」
酷く残酷な言葉を、母は歳不相応の無邪気な笑顔で言い放った。そして孤児院の子供達に配る為の着物を縫う針を止めなかった。
「随分長かったわね」
「そうね。今じゃどうやって知り合ったかも忘れちゃった。あんな子本当にいたのかしらって」
リカはひっそりとため息をついた。ひたすらな母につき従っていた書生・槇村良吉は、リカには生理的に受け入れ難い存在だったが、それにしても残酷だと思った。
「今どうしてるのかしらね」
「さあね。とうに大学も追い出されていたみたいだから、得意の文章か演劇の方で食べているんじゃないの」
あの日々はなんだったのだろう。槇村良吉は小さな劇場の、汚れた観客用便所を掃除しながら漠然と念じた。
帝都一の繁栄を誇る銀座の直ぐ近く、海沿いの運河の脇に建つ劇場は元は或る穀物廻船問屋の倉庫だった。劇場の上層部が何某かの伝手を利用して格安で入手し、劇場に改築したのだ。夏はむっとする磯臭さに加えて東京市の生活で廃された汚水が泥の渦を巻き悪臭耐え難く、冬は冬で遮る物のない寒風が吹きつける。先の大震災の時には火災に追われて隅田川に飛びこんだ幾百もの遺体が膨満し腐り果てた姿で流れ着いた。また目と鼻の先には、劇団と親交のあった作家の小林多喜二を拷問死させた築地警察署があった。
官憲がオオカミのごとく徘徊している中での演劇活動に、槇村は所在無く浸かっていた。
大学をとうに中退して四ツ谷の間宮家に入り浸っていた槇村良吉は、自分を師匠亡き後の間宮家の門番とでも言うべき立ち位置だと思い込んでいた。匿名で書いていたプロレタリア雑誌への寄稿や翻訳、出版社や印刷会社の雑用で稼ぎがない事はなかったし、それは全てリカの母、槇村にとっては太陽や女神にも似たはるか年上の恋人に渡していた。
愛人の娘リカは彼を嫌悪し出て行ってしまったし、槇村の血と思しき末子の男児は子供の頃からサナトリウムで暮らしている。大勢いた書生達も、性的な匂いを辺り構わずまき散らし、時を構わず屋敷の一室に閉じこもって帯を解く奔放な間宮未亡人に耐えかね、色気違いと去って行った。昔のままに出入りしているのは、近くにアトリエという名のあばら家を構える自称全身趣味に生きる男、絵師の片桐だけという有り様だった。
だが槇村は幸せだった。四ツ谷の先生の家に閉じこもり、未亡人の年上の色香と温もりを全身で享受し、また自分も全力で奉仕しながら、印刷会社や製版会社から送られてくる本の初稿の細かい文字を校閲し、しばしその世界に生きる。
いずれ文学の世界で身を立てたいと、まだ存命だったリカの父親・間宮記者に弟子入りしたのはもう何年前になるだろうか。捨てられない角帽と学生服、マントが、衣文かけで埃を被っている。その黒い羅紗のピンとした衣服は、事後の化粧直しをしながら赤い肌襦袢をまとい、万年床の上にしどけない肢体を晒す未亡人の頭上で揺れている。
「槇村君、ここに来て随分長いわよね」
白粉を細い首筋にもはたきながら、リカの母である未亡人は気だるげに声をかける。
「はい、干支が一廻りして、また幾年か経ちました」
白いメリヤスの肌着に褌姿でカリカリとペンを走らせる槇村は、事後の熱の冷めぬ声で答えた。
「あのね、そろそろここを卒業して行ってちょうだい」
「え、あのう……」
「慣れと惰性で絡みあってもちっともときめかないわ。ずっと考えていたのよ。以前の貴方はとてもフレッシュで凛としていたわ。今は先生の夫人の前でも褌姿で自分の仕事をするほどになっちゃって」
「これは、とても急ぎの仕事だったので……」
槇村は顔を紅潮させ慌ててワイシャツに手を伸ばし、学生ズボンに足を通そうと動き出した。つい先刻までねっとりとした愛撫に少女のように嬌声を上げていた夫人が、信じられないほど冷静な顔を向けている。
「じゃ明日か明後日出て行ってね。そうでないと人を呼んで出て行ってもらう事にするから」
「あのう、あの、なぜですか。他にいい男ができたのですか」
彼には訳が分からなかった。まだ先生が存命だった頃からひたすらに愛し、尽くしてきた。奥様も良くそれに応えてくれた。つい数分前まで。
「ううんそうじゃないわ。飽きたの。とっても飽き飽きしちゃったの。意外性がないの」
「はあ?」
「貴方から学ぶものもないし吸収する事もないわ。私に新しい世界を感じさせてくれる力もない、ただ肉と肉の擦り合いだけ。それは貴方じゃなくてもいいし、むしろ貴方以外の方が私はいいの」
襟元をぐずぐずにかき合わせ、いい加減に腰ひもを結びつけた姿で、リカの母は立ち上がった。派手な柄物の腰巻が細い膝下に続くむっちりとした太腿を隠す。
小柄な夫人は斜視気味の眼で槇村を見つめた。
「新しい世界に連れて行ってくれなかったら、若い人と交わる意味なんかないじゃない。そういう事よ」
シャツに半分袖を通し足元にズボンを落としたまま茫然とした青年に、リカの母は少しも情を残していなかった。
槇村良吉は30歳を越して、女の生々しい温室から放り出されたのだ。
体一つに大きなボストンバッグだけで放逐された槇村は学生時代の友人宅に身を寄せた。場所は浅草橋のたもと。運河沿いに長屋が立ち並ぶ一角である。
体が丈夫でない彼はエログロ雑誌の匿名コラムニストや、三文雑誌の花街取材原稿を細々と書き日銭を稼いだ。それらの出版社は支払いが悪く、原稿料を払う前に夜逃げされたり倒産したりで収入は安定しなかった。たまたま本屋で見かける文芸書や翻訳の外国小説に、碧生蒼太郎や間宮リカの名前を見かけると、背中がチリつくような焦燥で叫びだしたくなるのだった。
俺は何て無為な時間を過ごしてしまったんだ。希望に燃えて大学に入ったのではなかったのか。文学を志したのではなかったか。それが30過ぎて女に捨てられ、エログロ雑誌の原稿書きでやっと食い繋いでいる。槇村は自分が情けなく、涙すら出てこなかった。ただ吐くものもない嘔吐だけが繰り返された。
やがて見かねた友人が小さな団体の出版部門の事務仕事を紹介してくれた。そこは大勢の労働者や学生、農民、映画人が出入りしている団体の事務局だった。書生として間宮記者の元で雑務をしていた彼はすぐに仕事を憶え、無難にこなしていった。団体に出入りしていたのは親子連れや若い女性もいたが、いずれも顔を隠しこそこそとやってきた。槇村もそのビルヂングに入っている他の会社に出勤する態で、出入りしていた。
やがてわかってきたが、そこは労働者組織のための会誌を作る編集部であった。だがどうして思想的にも共産寄りでない、思想的には無知な自分が誘われたのか。不審に感じたが、その理由はすぐに分かった。出入りしている若者達はみな理想家肌で、知識や会話は豊富だが短気で怒りっぽく自分の意見を譲らない。他人を追い詰め論破する術には長けていたが一般人との関わりは苦手そうな者ばかりであった。だからこそ実務のできる槇村が採用されたのである。
彼は覇気がないと揶揄されながらも柔和で実務能力が高いと重宝され、次第に信頼を得て行った。ただ行き帰りや家の中でも、絶えず周囲を誰かに見張られている気配は消えなかった。
「槇村君、君は演劇は好きかい」
ある日の夕暮れ、仕事を終えようとすると同僚が声をかけてきた。
「はあ、劇ですか。剣劇や歌舞伎なら……」
「おやおや年に似ず随分風雅な趣味なんだな。今日は一緒に趣の違う劇を見に行こう」
仕事に関係した劇団でもあるし、と、気の進まないままに彼は連れ出された。
銀座からほど近い倉庫街の一角に古びた汚い倉庫を改造した劇場があった。青白い顔のインテリゲンチャらしい若者達がポツリポツリと来ては吸い込まれていく。同僚に連れられてやってきた槇村は、こんなところに演劇の劇場があるのかと驚き、そしてかつての自分を見る思いで、熱に浮かされたように劇場に入って行く若者達を眺めた。
「マキシム・ゴーリキイ作 『どん底』」
と、本日の演目のチラシが劇場の壁に貼ってあった。
観客席は青白い文学青年達の他に、明らかに自分と同じ、誘われてついてきただけで劇に等関心がない、という観客もいた。舞台は埃っぽく、いかにも牢獄の中のようなゴミや酒瓶だらけの床が舞台にしつらえてあった。天井からはぼろきれや女性の下着と思しき派手な色の千切れた布がぶら下がり、裸電球が照明だ。その中では、貧しさの極みの苦しい人々が互いに助け合うでもなく足を引っ張り合い、獣のような欲望をぶつけ合って世界から這い上がろうともがいている。弱い者は踏みにじられ、白く清らかな者は汚される。そんな暗鬱な舞台が繰り広げられていた。
槇村はこれがプロレタリア演劇というものかと衝撃を受けたが、その暗い情熱の勢いに打たれる事こそあれ、けして惹かれる事はなかった。惹かれたものはただ一つ。虐げられ利用され尽くす20歳の娘を演じた女優の儚い美しさだけだった。
汚れたスカートを身にまとい、スカーフで粗末なブラウスの裂け目と汚れを覆い、この世に居場所がないように悲しい目をして佇んでいる。
「ナターシャ……佐田芳子」
舞台上の買い求めたプログラムの配役を槇村は何度も眺めた。その場で覚えてしまおうというように。
長い舞台での上演が終わった後、槇村はぐったりと疲れてしまった。初めて見た本格的な演劇が重厚で救いのない「どん底」で、演出も登場人物も一部の光もないものであった。それは劇場を出て浅草や千住小塚原の近く、また隅田川のたもとに行けばいくらでも見られる帝都の現実の光景だった。なぜこんな夢も希望もないものを文化人とやらは見たがるのだろうか。
「どうだった槇村君。初めての演劇は迫力があっただろう。この臨場感、真実こそが舞台の要だ」
誘ってくれた同僚に声をかけられても槇村は生返事しかできなかった。
「うちの編集社はこうした労働者の真実を伝えていく本を作っている。君もできるだけプロレタリア芸術に親しんでほしいんだ。知り合いの愛すべき役者達に紹介してやろう」
同僚は気の進まない槇村を無理やり楽屋に連れて行った。
「いいかい、芸術は一部の金持ちの暇をつぶす道具じゃない。どんなに貧しくとも味わう事のできるものでなければならないんだ」
楽屋に一歩踏み入れるとそこは汗臭い衣装が掛けてあり、上半身裸で白粉を落とし着替える男優達、顔を拭いて別人のようにのっぺらぼうになっていく女優達、小物類を運ぶ小道具、美術の裏方でひしめき合っていた。むっとする雑多な臭いに槇村は引き返したくなった。だがただひとつ、汚い舞台の中の一つの救いのような、あの清冽な美しさの女優には会ってみたかった。
やがてごった返す役者たちの中に、ひときわ大きな声で喋り笑う背の高い女が目に入った。薄い綿ブロード地の男物のシャツに、これまたサラリーマンのような毛のズボンをはいている。細い華奢な指に煙草をくわえ、ひっきりなしに白い煙を吐き出しまた赤い唇に戻す。
「槇村君、紹介するよ。我らがヒロイン清純なる魂を持つナターシャ役の、佐田芳子君だ」
佐田と紹介された女優はチラリと槇村の身なりに目を走らせ、あからさまにがっかりした表情を見せた。なるほど彼は着たきりスズメの毛のコートに形の崩れた帽子、襟元が汚れたシャツを着ていた。女優に貢ぐ金は持っていないだろうと一目見て分かる風体だ。
「初めまして、でいいんだよね、槇村君」
男のような口をきく、先程まで泣き崩れていた儚い美貌のヒロインに槇村は驚いた。だが不思議と不快には感じない。天使は両性なのだ。この世の天使もまた男も女も兼ね備えていて不思議ではない。
「ええ。初めまして。槇村良吉と言います」
「うちの出版社に新しく入ったとても優秀な事務屋君だ。演劇は初めてだというから連れてきた」
同僚が合の手を入れる。
「初めての演劇がこんなに暗いもので、さぞ面喰ったことでしょう」
「はい、正直驚いて……でも私は好きです。大好きです」
槇村は真っ直ぐにヒロインの眼を見て言った。女優は視線を外し明らかに疲れた顔をした。もういい加減帰ってほしい、そう全身で言っていた。
「また観に来ます。今度は仕事ではなしに」
女優の指の間でじりじりと灰になっていく煙草の煙を吸いこみ、槇村は軽く咳き込んだ。元々喉が弱いのだ。佐田芳子は慌てて手にした湯飲みに吸いかけの煙草をほうり投げ、消した。その心配げな眼差しと仕草の可愛らしさに槇村はガツンと頭を殴られた気がした。
槇村良吉は佐田芳子という女優に、その瞬間恋をした。
「出来たらここで働きたいです。何でもしますから今の仕事を辞めて」
「おいおい勝手に決めないでくれよ。せっかく今の仕事に慣れたというところで」
女優に向かって性急に言う槇村に同僚が苦笑した。感情を表さないつまらない奴だと思っていたら、予想もしない方向に突っ走る。
「仕事の事なら座長へ言ってください。お給料が出るかどうかわからないけど、何か雑用仕事があるかもしれない」
疲れているのでこれで、と佐田芳子は主演用の個室楽屋に引っ込んだ。
「これから僕は座長に会う。仕事があるかどうか聞きたいからね。君は帰ってくれ。遅くなるかもしれない」
「おいおい槇村君」
「もし首尾よくいったら明日辞表をだすよ。ありがとう。ここに連れて来てくれて」
槇村は晴れやかな笑顔を同僚に向けた。
こんな笑顔が自分にできるなんて、ここ数年忘れていた。




