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ヤコブの梯子・3

 さやの夫・柘植譲二が陸軍の軍法裁判を終えて妻の待つ自宅に帰ったのが同年5月初め。再召集がかかったのが同じ月の末だった。

 柘植譲二一等兵ら陸軍第一師団第三連隊は、冬に先発している部隊に合流すべく海を渡り、満ソ国境の最前線に送られた。

 品川駅からの出征兵士を乗せた列車には、大勢の兵士家族が見送りに駆け付けたが、二・二六事件の蹶起軍になってしまった第三連隊には窓の方を向く事も許されず、見送りの家族の顔を確認する事もできなかった。第三連隊は囚人護送のように一カ所に集められ、窓に背を向ける体勢で立たせられ、列車は動き出した。口惜しさに煩悶する若い兵士達の苦悩は列車中に重く立ちこめた。

 彼らははっきりと


「お前達は陛下に背いた大罪人なのだから、生きて帰ってきてはならない。白木の箱に入って戻れ」


と言われたのであった。

 柘植も背嚢を背負い、窓に背を向けてじっと直立不動で立っていたが、身重の妻が来ているだろうという事は気配で察していた。恐らく碧生やモデルを勤めていた絵師、碧生の想人の間宮嬢たちに護られながら。それでも妻は毅然と立ち、自分を見送っているはずだ。その春の陽だまりのような暖かな笑顔を思い出すたびに、柘植の胸は甘く痛んだ。


「行ってらっしゃい、お父様」


 突然澄んだ高い声が頭の中に飛び込んできた。柘植は思わず目を見開き左右を見回した。年端もいかない声だった。だがこの車両の中には兵士しかいない。

 瞬間、彼は理解した。妻が自分の首を切った直後に聞いたという声は、この声なのだ。


『行ってくるよ。見守っていてくれ』


 彼はまだ見ぬ小さな我が子に向かって呼びかけていた。

 子供の名は『光』とつけよう。きっと自分の代わりに母親を守ってくれる、元気な子になるに違いない。

 神がこの世を作った時に最初にもたらしたもの、光。

 闇の中でも消えない光。

 光、父さんは君に会いに戻るからね。

 だが柘植一等兵らが最前線に着いて間もなく、日本が実効支配している満州国と、ソビエト連邦共和国は激しい戦闘状態に入った。ノモンハン事件の勃発であった。


 ここで再び、話は時を遡る。


「こちらでお待ちなさい。ただ今ご案内します」


 一張羅の銘仙の着物に母のくれた帯を締めて、少女は心細そうに屋敷の裏門に立っていた。貧しい実家を助けるため女学校を中途で辞めた山崎みかは、深川の生家から目の前の立派な屋敷に奉公に来たのだ。女学校の先生からの推薦で、この家の一人息子のお世話をする事になった。みかは子供は好きだし、小さな弟や妹たちの面倒は見てきたから子守りには自信はあった。相手は6歳の男の子だという。下から二番目の弟と同じ年だ。


「こちらに来なさい。いま坊ちゃまがやってきます。まずはご挨拶をして、好かれるように」


 女中頭が威厳を持って言うので、みかは子供部屋の前の廊下に立って待った。程なくパタパタと賑やかな足音と笑い声がして、勢いよく戸が開いた。


「坊ちゃま危ないですよ。外の人がぶつかったらいけません」

「僕は危なくないから大丈夫だよ」

「違いますって」


 にこやかな女中頭に伴われて、すらりとした男の子が走ってきた。みかの緊張した顔に思わず笑顔が戻った。

 自分の弟達や近所の子とはまるで違う。白いシャツと半ズボン、長靴下の白い蝋細工のようなすらりとした手足、にこにこと自分を見上げる丸い小さな顔は、眉間や高い鼻、白い歯のこぼれる顎のあたりなど、日本人離れした彫りの深さだ。まん丸い頬と黒目勝ちの瞳が親しみやすく、緩やかに渦巻いた薄い茶色の髪の毛。天使が走ってきたと思えた。


「レオ坊ちゃまです。ご挨拶なさい坊ちゃま、今日から一緒に遊んで面倒を見てくれるねえやのみかが来ましたよ。好きになりそうですか?」

「うん。好き。お友達になってくれる?」


 舌足らずな高い声ですぐに返事をした彼は、小さな右手を差し出した。


「お友達の握手だよ」


 みかはいっぺんでこの男の子が好きになった。


「私こそよろしくお願い致します、坊ちゃま」


 みかは子供の小さな白い手を両手で包んだ。


「ね、みかねえって呼んでいい?」

「いいどころじゃありません。坊ちゃま」


 じゃ、と男の子はみかの着物の袂に頭を突っ込み、笑いながらぐるぐる回った。たちまちみかの袂は千切れそうな勢いで体に巻きつき、彼女は転びそうになった。


「坊ちゃま、そんなことをしてはいけません」


 女中頭がちょっときつい声で言った。


「だって、本当はカーテンでぐるぐるしてみたかったんだよ。でもママや君がダメっていうから」

「カーテンで駄目なものは他の女性でも駄目なんです。そんな事では立派な紳士になれません」

「はあい」


 少年は大きな丸い目をミカに向け、俯いて謝った。


「ごめんなさい。紳士的じゃない事をしました」


 みかは男の子を抱きしめたくなった。袂なんかどうでもいい。この子は全身で自分に甘えているのだ。弟達と同じだ。

 こうして山崎みかは、美術商である富士見家に子守りとして働き始めた。屋敷の一人息子レオはドイツ系ロシア人の母と、亡命ロシア人の血を引く日本人の父との間に生まれた子供であった。居住地の麻布永坂町、三田神社近くの高台にある洋館の女中部屋が彼女の住処となった。


 昭和8年9月6日。

 ソヴィエトのスパイ、リヒャルト・ゾルゲが来日した。

 既に上海の租界でドイツのジャーナリストとして有名になっていた彼は、日本の動静を探るべく船で来日したのである。横浜の港に上陸したゾルゲは、ほどなく東京市内に居を構えた。場所は麻布永坂町の、神社の坂を下った路地の奥であった。赤坂にあるドイツ大使館にもほど近く、多くの在日外国人ジャーナリストや文化人が出入りする銀座、新橋界隈にも比較的出て行きやすかった。

 ゾルゲはドイツの新聞記者として大使館に出入りできる身分を手に入れていた。日本文化を理解し物腰の柔らかい博識なゾルゲは、すぐに周囲の信頼を得て行った。


 神社の秋祭りは9月の後半だ。

 路地の奥の急な参道の坂を上った先に、また続く石段を登りきった先が氷川神社の社である。

 この日、レオ少年の両親は久々に小さな我が子と共に祭りに行く約束をしていたが、急に仕事仲間の通夜が入ってしまい、弔問に行かなくてはならなくなった。若い両親は幼いレオをぎゅっと抱きしめ、子守り役のみかを呼んだ。


「くれぐれも怪我の無いように頼むよ。この子が欲しがってもあまり不衛生なものは食べさせないように」

「承知いたしました、旦那様」


 黒の喪服にベールのついた礼装の帽子を被った美しい母親も、いかにも悲しそうな笑顔を息子に向け頭を撫でた。


「レオ、あまりみか姉にわがままを言っちゃ駄目よ。手を離しても駄目よ」


 両親が行けないという事で一瞬泣きそうになった少年だが、懐いているねえやとお祭りに行けるという事ですっかりご機嫌が直っている。丸い大きな瞳を輝かせ、ステンドグラスのはめ込まれた玄関で、バイバイと小さな手を振って両親を見送った。


「みかねえ、アンズ飴ならいいんでしょ」

「それくらいならいいですよ。虫歯にならないように寝る前にきちんと歯を磨かなければなりませんが」


 浴衣を着てお祭りに行きたいというレオ少年のおねだりで、みかは新しい縫いたての浴衣を下ろした。レオの母が出入りの呉服商から生地を選び、みかが縫った白地の青いトンボの柄の、糊のきいた浴衣。帯は大人ならば博多献上を締めたいところだが、手足がスラリと長いとはいえまだ幼い子供なので、渋い青の有松絞の兵児帯にした。

 白木の新しい下駄も下ろしたてだが、じいやが鼻緒を柔らかくほぐし蝋をぬってくれていたおかげで大層歩きやすい。西洋式の革靴での生活が多いレオ少年でも、無理なく履いて歩く事ができた。

 陽が暮れてから外を出歩く等ほとんどない年端もいかない子供にとって、祭りの夜の灯篭や街灯、参道に焚かれた火や露店の灯りは大層誘惑的で嬉しいものだ。レオ少年はちょこちょこと走り出しそうになりながら、これも浴衣に着替えたみかの手を離さず歩いていた。


「ねえねえ、射的はやっちゃいけないの?」

「射的はもっと大きくなってからですよ、ぼっちゃま」

「うーん、ねえソーダ水は? 喉が渇いたから買っちゃダメ?」

「それくらいならいいですよ。ラムネもありますよ」

「じゃあラムネ」


 ラムネを飲んでげっぷに目を白黒させた可愛らしい男の子は、今度はビー玉すくいに走って行った。この分では神社にお札を奉納し、お参りを済ませるのにどのくらいかかるのか。みかはちょこんとしゃがんで他の子供たちの間で待つ栗色の髪のレオに追いついた。

 順番が来て、小さな手に網を持ち、さっと盥の中のビー玉と水を掬って手籠に入れようとした時、レオは手を滑らせて数個を地面に転がしてしまった。監視のみかが制止する間もなく、コロコロと色んな方向に転がっていったビー玉を追ってレオ少年は走り出した。小さな姿はたちまち参拝客の波に紛れて見えなくなってしまった。


「みかねえ、みかねえ!」


 御神楽の舞台のすぐ裏手で落とした最後のビー玉を探し当て拾った時、みか姉の小柄な体は小さなレオの視界からすっかり消えてしまっていた。


「みか姉……」


 どんなに目を凝らして、行き交う人々の姿を見つめて視線を泳がせてみても、いつも自分を優しく包んでくれるねえやの姿は見えない。真っ暗な夜の闇の中、小さな子供の目に無数に眩しい祭りの明かりと、空の星と、祭りの客と神社の参拝客、屋台の物売りの声に、お面や売り物の紙風船、千代紙やお手玉、カルメ焼の色。極彩色の世界が子供の瞳を襲い彼は不安に駆られた。


「みか姉ー!」


 叫んで泣き出した富士見レオ少年の前に歩み寄ったのは、大柄な体に瀟洒な背広、帽子をきちんと被った西洋の紳士だった。


「あれあれ、どうしたんだい?迷子かな?」

「坊や、お母様かねえやはご一緒じゃないの?」


 外国人の紳士に寄り添って歩いていた、鮮やかな浴衣を意気に着こなした若い日本女性が、しゃがんでレオの泣き顔をのぞき込む。


「ビー玉追いかけてたら……いなくなっちゃった……」


 涙と鼻水でくしゃくしゃになった小さな顔を、女性はハンカチーフで拭いてやり、西洋人の男性は優しく微笑んだ。


「じゃ社務所に行きましょうか。調べてもらえるかもしれない。私はゾルゲという名前の新聞記者なんだ。心配する事はないよ」

「ゾルゲおじさん……」


 この夜の出来事は、幼いレオ少年の頭に、取り乱して迎えに来たみか姉の泣き顔と共に強烈に焼き付けられる事になった。


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