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ヤコブの梯子・2

 春・4月。

 2月26日の帝都での陸軍大規模叛乱事件以来自刃未遂で入院していた柘植さやは、ようやく退院の日を迎えた。4カ月の身重の身元は碧生蒼太郎が引き受け、病院への迎えもまた碧生と間宮リカがハイヤーを回した。彼と同様さやの身を気遣うリカは柘植家からごく近い路地裏に古家を借り、住む事にした。

 彼女の実家は同じ四ツ谷の舟町にあるのだが、21歳になったリカは家を出て一人暮らしをすると決めたのだった。卒業した女学校の助手として既に働いていたし、雑誌の校閲や翻訳等の仕事である程度の収入はあったので可能だと踏んだのである。反乱軍人の妻という汚名を着たまま暮らすさやを心配して、というのは事実だが、もっと他の理由もあった。

 弟のヨハネが療養所に長期入院しているせいで、学校の寮からたまに戻ると家には母とリカの二人きり。かつて大勢の書生を住まわせていた広い家に女二人だった。母の実家は大きな菓子処で援助を惜しまないので生活には困らないが、奔放な母は若い男をいつも自分の周りに置いていた。


 母は小柄で痩せっぽち、体つきも顔つきも決して美しくはなかった。だが斜視気味の小さな鋭い目と濃い眉、眼が弱いせいか人の顔をじっと見入る癖があり、一度それが気になった男はもう心が囚われて抵抗できなくなってしまう、不思議な色気があった。

 奔放な彼女はまた、子育てよりも記者の未亡人の体裁よりも、自分の内なる声に正直な女だった。男を抱きたい時は自分から男の元へ走り、子供には菓子を与えて自分が男に飽きるまで放っておく。そのかわり帰宅した後は母恋しさに泣きじゃくる子供をしっかり抱きとめ、優しい母の顔を見せる。その振り幅が娘としてのリカを苦しめた。その母との日々もやっと終わる。もう母に振り回される事はない。嬉々として身の回りの物をまとめ、引っ越しの準備をする娘に母は言った。


「貴女の男とは住まないの?」


 その単刀直入な言い方は癇に障った。女が一人で住む等あり得ない、男と一緒に決まっている。そう決めつけた物言いだった。一人暮らしだなんて言って私にはわかっているわよ。そんな意味を含んだ声だった。


「お母さん、私は貴女とは違う。色恋や身勝手な感情に流されるままのだらしない貴女とは」

「ああご立派ね」


 母は娘の語気の荒さを鼻で笑った。


「私は男と流されるままに体を交わした事は一度もないわよ。全部自分の責任で恋をしてきたのよ」


 そう言い放つ母の肌は小麦色に滑らかに輝き、白粉を塗らなくとも男の心をとらえてしまう魅力を放っていた。

 ああやっぱり母は美しい、頭でっかちの私とは違う。リカは反発しながらも認めざるを得なかった。


「じゃお父さんは?」

「貴女のお父さんね。あの人は私が付きあった中で一番弱い人だった。娘の貴女には申し訳ないけど」

「貴女の父と言われるとヨハネの父親ではないみたいじゃないの」


 リカは風呂敷包みを背中に背負い、更に両手に持って立ち上がった。


「気になるの? そこが?」


 母は含み笑いを浮かべてリカの若々しい顔を覗き込んだ。玄関まで大荷物を持って歩くリカを手伝おうとはしなかった。そういう人間ではない事は娘としても重々承知している。


「柳桑折に詰めた本は後で少しずつ取りに来て運ぶから」

「真っ先にそれを持って行ったらいいのに。衣服なんか後でいいから。貴女の仕事道具でしょう。後で小僧に持って行かせようか?」

「いい。自分で確認しながら運ぶから」


 靴を履こうと玄関に座り込んだ時、たたきの石に微かな傷跡があるのを見つけた。それは彼女が小さい頃お気に入りの靴を履いて出かけようという時、なかなか支度部屋から出てこない母を待つ間、踵をこんこんと打ち付けていた痕だった。支度を終えて父と出てきた母はいつにもまして美しく艶めいて見えたものだった。その名残りを見つけ、リカはほんの少し寂しく感じた。


「リカ、弱い男もいいものよ。もっとも貴女の碧生君は見た目より弱くはなさそうだけど」

「私は貴女とは違うわ」

「貴女、だって。可愛い」


 リカは憮然として間宮の家を出た。門の外で待っていた碧生は驚いて声をかけた。


「全部持ってきちゃったんですか。僕は待っていたのに。荷物くらい持てますから呼んでくださいよ」

「大丈夫です」

「ほらそうやって全部自分で持とうとする。転んでしまいますよ」

「転んだら起き上がれますから」

「貴女らしい。本類は後で?」

「ええ。自分で全部確認しながら移動させます」


 細い腕で風呂敷包みを持とうとする碧生蒼太郎をリカは目で制したが、彼の体裁も考えて一番大きいが実は軽い包みを一個手渡した。

 省線の行き交う通りをお堀の近くまで歩き、駅前の四つ辻を左に曲がってせせこましい住宅街を曲がりながら歩けば、新居だ。柘植家と変わらぬ古さと狭さだったが、もうすぐ退院する碧生蒼太郎と住むには充分だった。リカの耳には自分の靴音と蒼太郎の下駄の音が心地よく響いていた。


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