ヤコブの梯子・1
昭和11年1月15日、ロンドンで行われていた第二回海軍軍縮会議から不満を抱えた日本が脱退し、諸外国との緊張は静かに高まりつつあったが、国民はまだその事を知らなかった。日本国民と内務の眼は2月26日早朝からの帝都の雪の叛乱に注がれていた。
3月初め。間宮リカは珍しく勤務先の女学校の調理実習室に立っていた。イギリスに長く駐留していた役人の妻である栄養学の先生から、栄養豊富な菓子の作り方を習ったのだ。
新鮮な卵としぼりたての牛乳、そしてたっぷり砂糖と少しの赤砂糖。何粒かのキャラメルで作る「ぷでぃんぐ」という菓子。
「消化が良くて滋養たっぷりだから病人にはとてもいいのよ」
というマダム先生の言葉に惹かれ、リカは思わず
「あの、作り方を教えてください」
と尋ねた。長期入院中の弟に食べさせたい、と先生には言ったが、
「お付き合いしている作家先生の為ね」
見透かされてリカは慌てた。
卵と砂糖をすり混ぜてぬるめに温めた牛乳を注ぐ。よく混ぜたら、大きめのカフェオレカップか湯のみの底にキャラメルを二粒、包み紙を剥いて置く。卵と牛乳の混合液を静かに注ぎ、湯気の上がった蒸し器で「す」が入らないように弱火で10分蒸す。自然に冷まして生暖かいまま食べてもいいし、氷水で冷たく冷やして食べてもいい。
「正式な作り方ではないけれど、砂糖を焦がして作るカラメルソースは私達日本人にはちょっと苦いし、このキャラメルで代用してみたのよ。最後に溶け残ったキャラメルをおまけみたいにいただくのもいいものだし」
西洋暮らしの長い長身の「マダム先生」は、上品に笑いながら慣れないリカに親切に教えてくれた。ご指導と努力の甲斐あって美味しくできたはずだ。間宮リカはすっかり冷めた湯飲み入りの「ぷでぃんぐ」を菓子箱に入れて風呂敷に包み、意気揚々と女学校を出た。
点々と卵の汚れのついた割烹着は脱いで、珍しく絣の着物に可愛らしい帯を文庫に締めた。子供の頃から洋装が多かったリカにとって着物は窮屈だった。当時の女性にしては背が高く骨格がしっかりして手足も長い彼女の体型には、あまりしっくりこないのだ。少なくとも本人はそう思い込んでいた。
髪形にしてもそうだ。パーマをあてて髷に結いあげるのが当時の長い髪の女のお約束のようなものだったが、彼女はそれは嫌いだった。いつも真っ直ぐな長い髪を二つのお下げに編み、背中で一つに結わえるか、邪魔になるときは頭の周りにぐるぐると巻きつけ、ピンで留めていた。家に帰ってその編んだ髪を解き、自然のウエーブを背中に波打たせるのが一番楽で好きだった。片桐は彼女を描く時いつもその髪形をさせた。
「そうしていると憂いに満ちた、精神的な顔に映りますよ」
「あら、それじゃいつもは精神が顔に反映されていないという事なのね。残念だわ」
リカはわざとそう言って反発してきた。男には『可愛げがない』と思われたかった。特に文士碧生蒼太郎には。
「碧生先生。間宮です」
ドアをノックする前に髪を整え、白いおでこに乱れた前髪を撫でつけた。襟元をかき寄せ白い半襟をきちんとそろえる。箱に入れた「ぷでぃんぐ」は傾けず、慎重に持ってきた。
「入らないでください」
思いがけず冷たい返事が返って来た。
「ご迷惑ですか?」
「いえ、そうじゃなくて。風邪をひいているのです」
そう答える碧生の声は成程かすれている。リカは構わずドアを開けた。
ベッドに伏せっているのかと思いきや、碧生蒼太郎は綿ネルの寝巻の上にどてらを羽織り机に向かっていた。驚いて顔を上げたその頬は軽くこけ、顎が尖り尚更細くなっている。元々細面で華奢なつくりの碧生の顔は、少し熱が出たり体調を乱しただけで面やつれしてしまうのだ。若き文筆家は23歳になっていた。
「ごめんなさい。本当にお病気でいらしたのですね」
「元々ただの病人ですよ、僕は」
碧生は苦笑した。
「ともかく書けなくて、締め切りを延ばすために仮病を使っているうちに本当に風邪を引くとは。自分でも笑ってしまいますよ」
「こちらの食事は召し上がっていますか?」
「あまり。書くのに集中しているとつい食べるのを忘れてしまうんです。そんな気になれなくて」
「じゃ、これもお気に召さないかもしれませんけど……」
「何ですか?」
碧生の声は明らかに警戒していた。彼女の弟ヨハネからも姉が料理下手だという話は聞いていた。家事はいつも『ねえや』がやっていたという。その警戒感がリカをいらっとさせた。
「学校の同僚に訊いて作ってみたんですが……」
リカは、書きかけの原稿用紙や丸めた紙ごみにまみれていない机の隅に、持参のものを出してみた。有田焼の湯飲みに入った薄い卵色のブルブルと揺れる半固形の食べ物。
「茶わん蒸しですか?」
碧生は無邪気に尋ねた。確かに見た目は違いない。しかし幾ら何でも出汁の匂いと「ばにら」と呼ぶ香料の甘い匂いの違いは分かるだろう。葱も銀杏も椎茸も入っていないではないか。
「西洋の、卵で作った菓子です。卵と牛乳とお砂糖で作りました」
憮然としたリカの説明に碧生は明らかにまずい、という顔になった。
「ああ、そうなんですか……自分西洋の嗜好品の事は知らなくて」
「私もイギリス帰りの方から聞いて初めて作ってみたんです。柔らかくてするんと喉を通るから、風邪をひいている今は良いんじゃないかしら」
「じゃ遠慮なくいただこうかな」
当初の警戒した表情から一転し、碧生は素直に顔をほころばせた。もっと強固に要らないと拒まれるのを予想し身構えていてたリカは拍子抜けした。
「お茶入れましょうか」
受け皿にぷでぃんぐの器を置き大きめの木の匙を添えた見た目は、なるほど茶わん蒸しそのものだ。碧生氏を責めることはできないな。リカは軽くため息をつきつつ、散らかった蒼太郎の机の上から彼の湯飲みを探した。
「ああ、ありがとうございます。自室には急須も茶葉もないので食堂からもらってくるんです」
「不便じゃないですか?」
「そうですか? あまり感じないですよ」
リカは入所者の夕食準備に忙しい食堂へ茶をもらいに行った。大きめの急須にたっぷりと入れて部屋に戻ると、蒼太郎はまじまじと茶わん蒸し姿のぷでぃんぐを眺めていた。
「どうしたんですか?」
「いや、よく見ると美しいなと思って。淡い黄色の色といい……」
やっぱり作家だ。私のような凡人の翻訳家の卵とは見る所が違うんだわ。リカはついでに洗ってきた湯飲みにお茶を注いだ。
「あ、美味しいですよ。甘くて」
おそるおそる少し口に入れてみた碧生はぱっと顔をほころばせた。
「こういう味なんですね。いやいいですよ、これ。ちょっぴり見直しました」
「ぷでぃんぐを?」
「貴女を」
「ちょっぴりですか」
ああまた可愛げのない事を言ってしまった。褒められて嬉しくなるとつい真逆の事を口にしてしまう。部屋の壁一面を埋め尽くした本棚を眺めながら、リカはちらと碧生を見た。彼は気にも留めない風で、つるりつるりとぷでぃんぐを口に運んでいる。ふとその動きが停まった。
「無理なさらないで、体調をみて食べられるだけ召し上がってください」
風邪ひきに無理強いはいけない。吐いたりしたら大変だ。リカは青白い碧生の顔を注意深く見た。
「いえ美味しいです。もっと食べられそうなんですけど……」
碧生は思い出していた。この卵と牛乳の甘いとろりとした味は以前口にした事がある。そうだ。以前小石川の家で、さやがわざわざお茶の水のパン屋まで出かけて買ってきてくれたクリームパン。その味にそっくりなのだ。
あの頃は、父の愛人である彼女と世話になっている無力な自分に腹を立て、ほとんど無視に近い態度をとっていた。なんと情けない真似をしていたのだろう。年上のその女を思いながらも、心配そうに見詰めるリカの表情に気づき、蒼太郎は気まずくなった。
リカはそんな事情を知る由もなかった。早逝したという母親の味でも思い出したのだろうか。そんな風に漠然と思っていた。
蒼太郎は休み休み湯のみ一杯のぷでぃんぐを食べきると、礼を言いまた執筆に戻った。
「私は居ない方がいいでしょうか」
「いや構わないですよ。僕は集中すると周りの事は全く感じなくなるんで。本棚の本とか読んでらして結構です」
『独逸紋章学とその象徴』『欧羅巴の森から・植物の伝承』
興味をそそる表題の本がたくさん並んでいる。しかも西欧の風物関係の本が多い。いま彼はそちら方面を執筆中なのだろうか。読みたいのはやまやまだったが、それよりも目の前に広がるこの部屋いっぱいのごみの海を何とかしたい。きっと彼の体にも悪い。
「あのう、ちょっと片付けていいですか、こちらの床やベッドの周りのごみ」
「はい」
書き物に没頭していた碧生蒼太郎は 顔も上げずにそっけない声だけを返した。集中しているのだ。時折丸めた原稿用紙を的となるくずかごも見ないで背後に放り投げる。これでは散らかるはずだ。
リカは机に向かう蒼太郎の後ろでせっせと紙くずを拾い、一つにまとめ始めた。くずかごはすぐ一杯になった。それでも足りず、リカは一度病棟裏に捨てに行き、もう一つのくずかごを用務室から借りてきた。
「おや間宮さん。お見舞いですか」
湯浅神父が通りかかった。入院中のシスター達のためのミサを執り行った帰りだろう。
「はい。ちょっとあまりにも汚かったのでおせっかいをしています」
「ああ。ヨハネ君はいつもきちんとしていますからね。文士先生は仕方ないですな」
リカは意味ありげに微笑む湯浅神父から逃れるように、病棟の碧生の元に戻った。
「それじゃ弟の所に行ってきます」
くずかごを戻し、大分綺麗になった床周りを見ながら、リカは残りのぷでぃんぐの箱を手に取った。
「はい」
蒼太郎は顔も上げず机に向かったまま手を振った。リカもにこりともせず振り返した。
「あの」
リカがドアを開けた時碧生が顔を上げた。
「はい?」
「帰りにまた寄ってくれますか?」
「はい。湯飲みを回収しに寄らせてもらいます」
「じゃ、その時でいいです。で……」
机に向かったまま振り向いた蒼太郎の顔が柔らかい笑顔になっていた。
「出来たらもう一個置いて行ってください。今夜は食べられそうだ」
帰り際、リカはもう一度蒼太郎の部屋をノックした。先刻弟に笑顔で言われた事を思い出していた。
「そりゃ姉さんとの進展を期待しているって事ですよ。すっぽかさないでちゃんと碧生さんの所に回ってくださいね」
「寄るわよ。湯飲みを返してもらわなきゃ」
「またそういうことを言う……」
ノックはしたが返事がない。半開きのドアからそのまま入って行った。
「碧生先生、間宮です」
碧生は机に向かっていた。返事くらいすればいいのに。
「もう帰りますので、お菓子の器を返して頂きに」
返事はない。机を前に座ったままの碧生はピクリとも動かない。リカは心配になった。
「碧生先生……」
近寄って肩に手をかけると、気が付いた。彼は眠っていた。ペンを握りしめ、書きかけの原稿用紙に顔を伏せたまま、子供のような無防備な表情で寝ていた。
「おーい……聞いてますか?」
完全に寝ているようだ。机の上には先刻完食した分と、半分食べかけのぷでぃんぐの湯飲みが二つ。広めの机の上や周囲には、先ほど彼女が掃除したばかりなのにもう丸めた紙ごみが散乱している。その中に、横長のペンチのような椅子に沈んだまま、碧生は眠っている。リカはふと隣に座ってみたくなった。
彼の細い腰の脇に腰掛けてみた。体は冷え切っている。ベッドの上に放り投げられた毛布をとり、作家の骨ばった肩からかけて包んだ。そっと抑えたその体は思っていた以上に細くごつごつしていた。
机の上にはドイツ語の分厚い辞書と、博物学の原書が開いたままになっている。日本にない種類の花や鳥、森の木々について書かれているらしい。リカは彼の書く透明感あふれる詩や随筆を思い出した。美しいその文章は、こうした努力によって裏打ちされているのか。
碧生が飛行予備学校出身である事はリカも知っていた。他の文士達が多く旧制高校もしくは大学を出ている事もあり、彼が学歴に劣等感を持っている事も知っていた。彼は一人で色んなものと戦っているのだ、決してぬくぬくと保護された文章書きなだけではないのだ。リカは彼にかけた毛布をスッと広げ直した。
あれ、暖かい。
碧生蒼太郎はふと目を開けた。いつの間にかベッドに放り投げたはずの毛布が掛けられている。そして人肌の気配がする。すぐ近くに人がいる温かな気配。それは大層久しぶりだ。
くるりと顔を回すと、ほんの数センチ先に女の顔があった。小さな掌で手枕をし、もう一方の手で碧生の肩からかけた毛布をしっかりと押さえている、間宮リカだった。
「間宮さん、間宮さん?」
顔を寄せ合った体勢のまま声をかけたが彼女はピクリとも動かない。規則正しい静かな寝息をたてている。お菓子作りをがんばったから疲れたのか。
「すみません。お菓子と全然関係ない事を思い出したりして」
蒼太郎は毛布を半分開いてくっついて寝ているリカの肩にもかけた。思っていたよりなで肩で、かけた毛布が落ちそうになる。蒼太郎は肩を抱き寄せるようにして、落ちかかる毛布を押さえた。
一枚の毛布にくるまれていると、逞しい才女という印象だった間宮リカはとても小柄だった。そしてその華奢に驚嘆した。もっとも病身の自分と比べれば大抵の女性は逞しく見えるのだが。
そっと、高い鼻に口づけてみた。白粉の匂いのしない彼女の顔は、眠りながらうっすらと笑ったようだった。同じく机に顔を落とした碧生の顔にも笑みが浮かんできた。
夜。食事に出てこない碧生を不審に思った看護師が巡回しに来た。具合が急変していないか確認するためである。
「おや……」
看護師が見たのは煌々とついた灯りの元、一枚の毛布にくるまって机上の原稿用紙と本の上に突っ伏して寝ている碧生とリカの姿だった。二人は二羽の小鳥のように体を寄せ合って、あどけない寝息を立てていた。
もうすっかり暗くなってしまった。療養所の門には帰ろうとするバツの悪い顔をした間宮リカと、同じく困った顔をした碧生蒼太郎、にこにこと機嫌よい間宮ヨハネがいた。彼らの後ろから見送りに来た徳永院長も妙に上機嫌だった。
「実にいい夜だ。月も雲のかかり具合も申し分ない美しい夜だ。恋人達の語らいにはうってつけだ。でも規則は規則だからね」
碧生と間宮リカはきょとんとした目を向けた。おすそ分けした手作りぷでぃんぐに誰か何か仕込んだのか?
「もう碧生君もだいぶ回復したし。退院して二人で住んじゃいなさい。二人で切磋琢磨しあってお互いの作品を仕上げる。これはいい事じゃないか」
「あのう」
「院長先生、それどういう」
「素敵な祝辞ならとっくに用意してあるんだよ。楽しみだなあ」
二人は顔を見合わせた。




