水仙は咲かず・4
2月29日午前7時10分。
戒厳令司令部により、反乱軍が駐留している麹町区、千代田区の一部住民に対して避難命令が出された。赤坂、麹町、現在の紀尾井町付近の住民は雪の中ぞろぞろと避難を始めた。最前線の鎮圧にあたる兵士達は複雑な心境であったが、陸軍上層部でも叛乱軍の一般兵士や下士官を何とか助けたいという思いは強く、奔走するグループがあった。代表的なのが陸軍省新聞班の大久保少佐である。
彼は前日や早朝危険を承知で叛乱軍の主力の立籠る赤坂の山王ホテルに潜入し、まだ若い兵士や下士官達に中隊長達の命令など訊かずに軍に帰順せよと説いて回った。しかし答えはノーであった。同じ釜の飯を食った仲間、面倒を見てくれた上官を裏切る事はできないという悲痛な答えが帰って来るだけである。
攻撃命令を出すばかりとなっている軍司令部の中、大久保少佐は奔走した。せめて午前中いっぱいはという猶予を取り付け、下士官や兵士達に直接訴える方法を探していたのだ。その耳には、叛乱軍になってしまった兵士達の家族縁者らが集まって、前夜立て籠もる建物に向けて上げていた懇願の声が、消える事なく響いていた。
午前8時。
立川や羽田の飛行場より投降を促すビラを満載した飛行機が数機離陸した。飛行機は三宅坂上空まで来るとビラを投下した。ビラは大久保少佐らが深夜に起稿し印刷した物である。
『下士官兵に告ぐ
一・今カラデモ遅クナイカラ原隊ヘ帰レ
二・抵抗スル者ハ全部逆賊デアルカラ射殺スル
三・オ前達の父母兄弟ハ国賊トナルノデ皆泣イテオルゾ
二月二十九日 戒厳令司令部』
8時55分。
憲兵により厳戒態勢にある愛宕山の日本放送協会東京中央放送局から、投降を呼びかけるラジオ放送がなされた。これが名高い「兵に告ぐ」の放送である。大久保少佐がその場でメモ用紙に書きあげ、アナウンサーが読み上げた。以下、その全文を載せる事をご容赦いただきたい。
「兵に告ぐ」
敕命が發せられたのである。
既に天皇陛下の御命令が發せられたのである。
お前達は上官の命令を正しいものと信じて絶對服從をして、誠心誠意活動して來たのであろうが、 既に天皇陛下の御命令によってお前達は皆原隊に復歸せよと仰せられたのである。
此上お前達が飽くまでも抵抗したならば、それは敕命に反抗することとなり逆賊とならなければならない。
正しいことをしてゐると信じてゐたのに、それが間違って居ったと知ったならば、徒らに今迄の行がゝりや、義理上からいつまでも反抗的態度をとって天皇陛下にそむき奉り、逆賊としての汚名を永久に受ける樣なことがあってはならない。
今からでも決して遲くはないから直ちに抵抗をやめて軍旗の下に復歸する樣にせよ。
そうしたら今迄の罪も許されるのである。
お前達の父兄は勿論のこと、国民全体もそれを心から祈ってゐるのである。
速かに現在の位置を棄てゝ歸って來い。
戒嚴司令官 香椎中將
この放送は繰り返し流され、下士官や兵士達に明らかに動揺を与えた。彼らは上官の命令通りに行動しただけだった。自分たちが叛乱軍、逆賊、国賊と激しい調子で罵られるのは衝撃だったのである。
午前9時半頃
警視庁を占拠していた叛乱軍・第三連隊が続々と帰投し始めた。まず門から出て銃剣類を次々と雪の地面に置き、武装解除を受けると原隊の兵営に帰って行った。やがて占領していた他の建物からも兵達の帰投は相次ぎ、正午前には山王ホテルに立て籠もる一部の兵士達と、兵士や下士官を帰投させた後の将校達しか蜂起側には残っていなかった。
午後2時過ぎ、陸軍大臣官邸に集められた叛乱軍将校達の中で、首謀者の一人の野中大尉は拳銃で自らの命を絶った。
午後3時頃、唯一最後まで立て籠もった第三連隊第六中隊の安藤大尉は拳銃で頭を撃ち自殺を図るが、失敗。ここに二・二六事件の終結が宣言された。事件に関わった将兵は実に1400人弱。
戒厳令自体は3月20日に一部緩和されるまで続いたが、住民の交通や行き来は自由となった。一般の兵士達は次々と兵営に帰投したが、迎える側の態度は「罪も許される」どころではなかった。赤坂、青山、乃木坂等に点在する近衛師団の兵営に徒歩で移動を命じられ、隔離されたのである。2月26日以来ろくに睡眠をとっていない兵士達には過酷なものであった。
その後一人ずつ呼び出され、担当官による厳しい尋問が始まった。数か月前に入営したばかりの初年兵も例外ではなく、時間は短かったが全員が尋問対象となった。二年兵やさらに上級の兵士になると尋問も激しさを増し、時間も長時間に及んだ。はっきりと「国賊」「陛下に背いた大罪人」とも呼ばれた。
柘植の様な下士官の処遇はさらに過酷だった。彼らは輜重隊や騎兵隊等他の連隊の営倉に入れられ(その時点で犯罪者扱いは明確であった)、すぐに代々木の陸軍刑務所に収監され、軍事裁判にかけられる事になったのである。しかも官位は剥奪され一等兵の身分に降格したことを全員口頭で告げられた。自宅にある勲章や賞状を憲兵に有無を言わせず持って行かれた下士官もあった。
予審は陸軍刑務所に収監された直後から始まり、後半は5月5日から開始された。その間高圧的な看守から罵られ、尋問官からは罵倒され、家族との音信も断たれた。柘植にとってそれが一番辛い事であった。
優しく美しい妻はどうしているだろうか。酷い目にあってはいないか。考えるだけで柘植は内臓が沸騰しそうな煩悶に苛まれるのであった。
裁判は一審制で非公開、さらに弁護人もつかなかった。かつて海軍将兵の起こした五・一五事件の時とは雲泥の差がある。
5月7日に開廷した裁判は早々に結審し、5月半ばには柘植譲二一等兵に判決が下った。禁錮一年六か月、執行猶予三年であった。執行猶予が付いたとはいえ柘植譲二にとっては憤懣やるかたない判決である。
柘植だけではない。上官の指示通りに動いていたら知らぬ間に「決起軍」にされてしまった、全兵士達の憤怒であった。
中にはその年の1月に新兵として採用された初年兵達も裁判にかけられ、着任1か月余りで執行猶予なしの禁固刑に処せられた者もあった。
彼らは「上官の命令は絶対である。天皇陛下の命令と同様である」と教育された。その上官の命令のままに動いただけで国賊、逆賊にされてしまった。これはどのように心のけりをつければよいのか。代々木の陸軍刑務所より釈放され、実に3か月ぶりに四ツ谷の家に向かう柘植の胸中は乱れたままであった。
妻は無事に家に居るだろうか。万が一の時は親友の碧生や、彼の主治医である徳永のサナトリウムに避難させてもらっていればよいが。
彼は家族・知己との音信を断たれていたので自分の留守中に妻の身に何があったか知らない。四ツ谷警察の前で市電を下り、坂を上って裏手の小道に入れば柘植家の借家はすぐなのだが、彼は電車を使う気にはなれなかった。ただがむしゃらに歩きたかった。ひたすらに、疲れで自分の状況が分からなくなる程に歩いて行きたかった。
彼は自分が尾行・監視されている事に気付かなかった。彼だけでなく事件で有罪執行猶予含むとなった下士官、兵士全てが特高の監視下に置かれたのである。それは終戦後の名誉回復まで続くのだ。
柘植は道で軍服を着たものに対しては、全て立ち止まって敬礼をした。今の彼は曹長ではない。是非もなく一等兵に降格された身だ。
彼の敬礼を受けた兵士の中には所属を示す徽章を見てあからさまに侮蔑の表情を浮かべる者、迷惑顔をする者、にやにやと笑っている者もいた。それらは全て彼の心を突き刺すに十分だった。
市電通りから細い路地に入り、プロテスタントの教会の前を抜け、寺の並ぶ一角に入る。半年前に二人で住み始めた古いちっぽけな借家への、通いなれた道だった。二つ先の角を曲がると大事な妻の待つ家がある。柘植は走り出していた。
門のそばに女がいた。女は長い髪を結いあげ、質素な絣の着物をゆったりと着付け、膝を折って屈み、庭先で何かを摘んでいた。そのほつれ毛のかかったうなじから立ち上る暖かな体温の記憶が、急速に彼の脳裏によみがえってきた。
「さや」
妻は何気なく顔を上げた。目の前に佇む軍服の長身の男の、まず足元を、次いで一等兵の軍服を。そして取り乱した様子の顔を見上げる。まん丸く大きな黒目を見開き、柘植の瞳をひたと捕らえた。
「貴方……お帰りなさいませ」
さやは手に摘んだミョウガの芽を潰しそうな程、ぎゅっと握った。
「お疲れ様でございました」
「いや、貴女こそ疲れただろう。長い事心配かけた」
柘植は妻の、さやは愛しい良人の顔を見た。二人共やや面やつれしていたが、それはずっと焦がれた互いの顔だった。
「貴方、随分痩せてお背が一層高くなったように思えますわ」
「貴女こそ顔色があまり良くない。体の具合は大丈夫か?」
「色々話さなければならない事があるんですの」
「俺もだよ。中に入ろうか。一人で待っていたのは心細かっただろう。すまなかった」
「ええ。でも一人じゃなかったのよ」
柘植は妻の悪戯っぽい目に言葉を失いながら、玄関の戸を閉めた。世界はすっかり春になっていた。
帰宅して前庭で摘み草をする妻と再会し玄関の戸を閉めた瞬間、彼は妻を抱きしめていた。
「一人じゃなかったって、どういう事なのかな?」
「貴方、そんなにきつくしたら苦しいです」
「苦しいのなんか当たり前だろう。誰かと一緒だったの?」
「ええ。蒼太郎坊ちゃんや間宮のお嬢さん、徳永先生や片桐さんたちがしょっちゅう来て助けてくれましたわ。でも、いつも一緒に居たのは……」
そして、訝しがる柘植の手を取り、帯の下から体に沿わせた。
「まだわからないかしら。ここに小さな心臓が動いているのは……」
柘植は電気に撃たれたような衝撃を覚えた。とっさに言葉葉出てこない。妻の顔を凝視するだけだ。
「分かったのは、あの事件があった日でしたの」
「座りなさい」
「はい?」
「いいから座りなさい。玄関じゃなくて茶の間にだ」
柘植は大股で茶の間に駆け上がり、軍服を脱ぐまもなく押入れから客用の分厚い座布団を引っ張り出し、さやを無理やり座らせた。そして自分のかいまきを出してきて妻の腰から下を覆った。妊婦は絶対に冷やしてはいけない、というのが大人に交じって子供の頃から働いてきた柘植の知識だった。
「貴方そんな、大丈夫ですよ。お茶くらい出させてください」
「そんなものはどうでもいい。静かにしていなさい!」
「あのね、私も飲みたいんですの。喉が乾いてしまったわ」
さやは良人の慌てぶりを目の当たりに見て、思わず微笑んだ。柘植譲二が切望した、花のような妻の笑顔だ。そして彼女のほっそりとした体の中には二人の子供が息づいているという。
彼は泣き出しそうな感動を覚え、再び妻の体を抱きしめた。今度は加減して、やや体を浮かせてお腹を押さないように。すると白い乳の流れのような、滑らかな妻の首筋に大きな傷がある事に気が付き、愕然とした。傷は見ただけでもいかにも深く三寸余りに及んでいる。生々しい傷口の盛り上がりに数針縫った痕まである。
「さや、頸はどうした。怪我をしたのか?」
妻は良人の腕の中で嬉しそうに身を預けていたがビクンと震えた。
「ごめんなさい。分かりますか?傷……」
「まさか賊が押し入ったとか。反乱兵士の家だからと……」
よその部隊でそうしたリンチ事件があったと聞いた事がある。柘植はそれがか弱い妻の身にも起こったのかと、全身の血が逆流する程動揺した。
「いいえ、自分で切ったんです。自決しようとして」
「自決?」
「ええ。貴方が蜂起に参加したのだとすればそれは貴方のお考えですから、私という存在が足を引っ張ってはならないと思って。でも首をかき切った途端に、お腹の中からこの子が叫んだんです。母様、生きて。私はこの世に生れたいって」
柘植は無言でその傷に接吻した。無精ひげを剃っていない顔を擦りつけられ、さやはくすぐったいと身をよじったが、夫は離してはくれなかった。
長身を折り曲げて小柄な妻を抱きしめ、柘植は泣いていた。体を震わせて全身で泣いていた。帝国軍人として限りなく女々しいがそんな事はどうでもよかった。
自分の大事な宝物がこの世から消えてしまうところだった。二人の血肉の結晶と一緒に。その恐怖に柘植は少年のように嗚咽していた。
着物の肩がびしょ濡れになるのを感じながら、さやは子供をあやすように夫の体に腕を回し、小さな手で背中をポンポンと叩いた。
「落ち着いてください。ね、落ち着いて。もう大丈夫です」
さやはここにちゃんといますから。どこにも行きませんから。そうなだめすかすように囁きながら、妻は嬉しそうに夫をあやしていた。
久々の家の風呂は何もかも忘れさせてくれる程気持ちよかった。頭の先から足の先までさっぱりと洗い、ひげもきちんと剃った。
安定期に入ったという妻は、心配のあまり座っていなさいと連呼する良人をよそに、先程摘んだミョウガで酒の肴を作っている。甲斐甲斐しいその後ろ姿はほっそりとしていてとても身重には見えないが、前に回るとゆったりと締めた帯の下から、やや膨らんだお腹がそれとわかる。
ストーブをガンガンに焚かなければ震えるほどの寒さだった茶の間が、5月の今は爽やかな風が吹き抜ける。妻のいるこの家、この空気と時間を柘植は拘束されている間中切望していたのだ。
「ぬるめの燗でよろしいですか?」
「ああ。でもあまり呑まないよ。久々に貴女の作るご飯を堪能したいから」
「ろくな物がありませんのよ。お帰りが今日だと知らなかったものですから」
質素な夕餉は油揚げと山菜、人参の入ったかやくご飯と、なまり節と車麩、蕗の煮物、近所の人からもらった卵と砂糖を使って焼いた卵焼き。おぼろ昆布の吸い物であった。甘い味の卵焼きは最高の贅沢品だった。
柘植は3カ月ぶりの妻の手料理を満喫した。それでも視線はどうしても彼女のお腹に行った。
二階に上がる時も流石に以前のように抱え上げるのはやめた。抱き上げようとしたがかえって危険だと思い直し、妻が足を踏み外さないように前を上らせ、後ろから支えた。布団も自分で引いた。
久々に糊の効いた自分の浴衣。そして傍らに寄り添う湯上りの浴衣姿の妻。柘植は彼女を壊れ物を扱うようにそっと触れた。
そして部屋の電灯を消した読書用スタンドだけの灯りの中で、その優しい精緻な顔からゆっくりと顔を寄せ、唇と頬の感触で確かめていった。
黒い豊かな、真っ直ぐな髪。一本一本筆で描きあげたような鮮やかな生え際は、丸い富士額に続く。白くふっくらとした瓜実顔はやややつれてはいたが充分に瑞々しく、優しげな柳眉と長いまつげに覆われた微睡んだ様な瞳は、柔らかな光を映して夫の視線を吸い込んでいる。細く滑らかな首筋には先ほど良人の驚きを受け止めた盛り上がった傷跡。丸く薄い肩もほのかな膨らみの胸もぴったりと合わされた白い真っ直ぐな脚も、全て柘植の愛したままの妻だった。
そのややふっくらとした下腹部。スタンドの灯りが届くギリギリの、闇に溶けだしてしまいそうな光と闇の端境の、精緻な臍の丸みの下の秘めやかな辺り。そこに小さな「もう一人」がいるのだ。今の二人の息遣いと睦事を残らず聞いているに違いない、二人の分身が潜んでいる。
柘植は元来汗かきの暑がりだったが、妻の体に掛け布団をかけ、覆った。
「大丈夫よ、これでは貴方は汗が引かないでしょう?」
「いいんだ。二人で布団によく包まりなさい」
貴女と、お腹の子供と二人で。
柘植一等兵は、この妻と新しい命のために、何としても生きようと思った。




