水仙は咲かず・3
事件は陸軍や政府で隠しきれるものではなかった。1400人規模の、帝都の中枢部で起こった反乱である。
26日、反乱は新聞各紙の夕刊にて既に一面報道された。ただし各紙の論調は後の扱いとは大いに異なり「青年将校達による蜂起」という好意的な印象を与えるものだった。事実この時点では陸軍内部でも「やむにやまれぬ国を憂う心から来た蜂起」という見方が主流だったのである。
反乱部隊は歩兵第三連隊長の指揮下に組み入れられ占領地域の治安維持任務を命じられ、青年将校達は意気揚々としていた。
午後七時の国営ラジオは東京にて「二・二六事件」が起こった事を全国に報じた。そして帝都東京には戦時警備令が発令された。これは戒厳令に次ぐ重い警戒レベルである。
2月27日。
夫からの連絡もいつものような元気な靴音もさやの元には来なかった。
深夜二時四十分、枢密院は帝都に戒厳令施行を決定し、明け方三時五十分戒厳令が交付された。
朝日や讀賣、その他の各紙は朝刊にて事件を大々的に伝えた。例えば大阪朝日新聞2月27日の朝刊では
「帝都に青年将校の襲撃事件」
「斎藤内府、渡邊教育総監岡田首相ら即死す」
「高橋蔵相、鈴木侍従長負傷」
「非常警備の処置をとらるる」
また他紙にては
「青年将校等・重臣を襲撃」
「國體擁護を目的に蹶起」
「首相、内府、教育総監即死」
「内閣総辞職を決行す」
情報が錯綜している上に未確認なので、実際に即死状態だった高橋蔵相らも負傷と書かれている等報道にも混乱が見られた。柘植家では夕刊をとっていなかったので、さやは朝刊を読みラジオを聞き、もしや夫の所属する隊が蜂起に参加しているのではと訝しんだ。
事実、柘植譲二の所属する陸軍歩兵第三連隊は、2000人の人員に対して実に半数近くの900人余が蹶起に参加し、大半が上官の命令のままに粛々と行動した。自分たちの行動が何を意味するのかも分からず、柘植曹長は部下を率いて警視庁の警備という名の襲撃に当たっていた。だがそれは妻さやの知る所ではなく、彼女は静かに待つ事にした。
心配した蒼太郎や間宮リカ、絵師片桐からひっきりなしに電話がかかってきた。それらを総合すると、柘植家の周囲は蹶起軍と警備の他の部隊、憲兵などが睨み合う狭間にあり、既に自由に行き来出来ない地域になっている。特に永田町や山王町、麹町や半蔵門に抜ける通りは悉く反乱軍によって封鎖され、住民と言えど通行は難しい。
地域の人々は家の中に閉じこもり、外に響く物音とラジオに耳をそばだてていた。それらは静かに夫を待ちたいさやにとって、至極都合が良かった。
一階の茶の間の箪笥の上には、先日リカが持ってきてくれたヒナゲシの花が寒さに耐えて咲いている。その下には、良く拭き清められた桐板の上に、彼女が余暇に作った縮緬のお手玉や余り布で作った小さな雛人形の内裏一対。そのすっきりとした男雛の顔立ちは愛しい良人によく似ており、彼はその人形を見るたびに恥ずかしいと申し立てた。改めて見ると、濃い眉もくっきりとした鼻筋も、締まった口許も、涼し気な瞳も良人にそっくりなのだった。
さやは一日中電話の受話器を外していた。これで心静かに夫を待てる。二階の寝室に上がり火の気のない部屋の寒さに震えた。夫の掻い巻きを取り出し着物の上から羽織ってみた。僅かに青臭い、毎晩胸いっぱいに吸い込んでいた夫の汗の匂いがした。彼女は階下に下りていくのが怖かった。夫の部隊が反乱軍に参加している、とラジオで報じられるのを恐れた。
だがもし、夫が自分の考えで上官の命令に共感して蹶起に参加したのであれば、例えどんなに血生臭い事件の当事者になってしまったにしろ、自分は夫についていくしかないのだ。
夫は彼女の全世界だった。彼のいない世界など考えられなかった。もし彼が処刑と言う事になったら自分も生きてはいない。そして妻と言う自分の存在が足かせになったり、弱さとなって夫の邪魔をする事態になるならば、それはいけない事だと考えた。
「間宮さん、僕は柘植の所に行こうと思う。電話をしても交換手が困るほどに切られている。彼女は多分受話器を外してしまっているんだ」
顔から血の気が引いた碧生蒼太郎は、何度となく掛け続けたサナトリウムの電話の受話器を置いた。
片桐からの話は聞いた。さやの頑なな態度も思いつめた表情も、夫を愛するあまりに思いがけない行動に走りかねない脆さも、容易に推測できる危険を孕んでいる。連絡を自分から断ってしまったという事が、まずもって一番危険だ。
先日来の大寒波で碧生は咳が続き熱も出ていたが、片桐が拒絶された以上もう自分しかいないだろう。電話を拒否されている時点で、自分が彼女を繋ぎとめる紐にも鎖にもならないと分かってはいたが、考えまいとした。一度は情を通わせた優しい年上の人である。
「私も行きます。さやさんを一人にしてはいけません」
「でも貴女は女性だし」
「今現在の貴方より私の方が逞しいですわ、文士先生」
リカは白い歯を見せて分厚いコートを着込んだ。そして碧生にもマフラーをぐるぐる巻きにし、毛の靴下を二重に履かせた。
「すみません間宮さん。これは僕の身内の事ですのに」
「さやさんは私も片桐さんもよく知っている人じゃないですか。それに……」
「え?」
「私は繋がりたい人と繋がっていた人は、皆大事なんです」
一面に白い雪景色の中、リカは本当に言いたい事は飲みこんでしまった。そして優等生的な事を言ってしまったのを恥じた。その一瞬の揺らぎを碧生は見逃さなかった。間宮リカは自分達にあった事を知っている。
「すみません、本当に……殴ってくれていいです」
「病人を殴りはしません。あなたが健康になって、事が全て納まってから存分に戦わせていただきます」
碧生は苦笑した。やはり男は女性には敵わない生き物だ。
雪の中を分厚い防寒着姿で飛び出した碧生蒼太郎と間宮リカは、停まっている市電に面食らった。戒厳令が布告され、交通機関は警備の軍と警察そして一部の地域は反乱軍によって支配されているのだ。外を歩く人影も滅多になく、居たとしてもそれは軍人だった。その中を急ぐ二人は各所各所で呼び止められ、警戒に満ちた尋問を受ける羽目になった。
目白台から坂道を下り、お堀に沿って移動する道は諦めた。陸軍省や麹町警察、戒厳令司令部となっている陸軍会館現九段会館の脇を通るため、銃剣を構えた兵士によって固く防衛線が張られている。坂道を再び登り、神楽坂の奥や牛込の住宅地を通ることにした。
近くに居るはずの片桐に連絡を取りたかったが公衆電話などない時代で不可能だった。やがて雪道に慣れない二人は激しい疲労を覚え始めた。元々結核が全快したわけではない碧生と、華奢なお嬢さん育ちのリカである。降り積もった雪に足元を取られ、何度となく彼らは転んだ。
迎賓館や若葉町周辺は第一級の警戒がされていて近づけない。何度も場所を変えては接近を試みる碧生たちに、警戒の兵士達も次第に不審の色を漂わせ始めた。
「ひとまず戻りましょう間宮さん。そして何とか彼女に家に近づく手段を考えましょう」
「ええ。この近くに片桐さんのアトリエがあるはず。彼にも知恵を貸してもらいましょう」
二人は足首まで埋もれながら、雪に潰されそうな片桐の「アトリエ」を探し当て、ストーブで体を暖めた後三人でサナトリウムに戻った。帰る道々片桐の口からさやの頑なな態度が語られ、より一層心配を募らせた。
27日夜九時半。
戒厳令司令部は国民に向けラジオ放送を行った。流言飛語に惑わされず慎重な行動をする事、外出を避け軍の命令に従う事である。
さやは心が凍る思いでその放送を聞いていた。夫や陸軍からの連絡はない。自分で受話器を外してしまっている事は混乱した彼女の記憶からは飛んでいた。二階の寝室から降り、一階の茶の間で夜具も引かずに眠りに落ちた。夫の掻い巻きにくるまっていると、彼がすぐ帰ってくるような根拠のない安心感に包まれるのだった。
2月28日。
反乱事件は二日目を迎えた。
政治的にはいかに収拾を図るかで何度も会議が行われ、反乱軍将校達の処遇と、皇軍相討つという悲劇は避けたいという思惑が支配的だったが、重臣を殺害された天皇の怒りは凄まじく
「朕の老臣を殺したあのような者達に何故情をかける必用があろうか」
と、武力鎮圧の方針を一歩も譲らなかった。
青年将校や陸軍の顔を立てつつ無血鎮圧を目論んでいた陸軍上層部の思惑は外れた。統帥権を持つ陛下を頂点とした軍事国家樹立、という青年将校達の思惑はここに全く崩れた。陸軍内での協議の末『反乱部隊』の武力鎮圧という方針が決定した。
この時はっきりと、青年将校達の行動は陸軍内において「反乱」と意味づけられたのであった。
この「武力鎮圧決定」は反乱軍将校達にもたらされ、将校達は昨日までとは余りに違う自分達の扱いに衝撃を受けた。将校達の協議がもたれ、正午には自分達乱軍将校は自刃、下士官兵達は原隊復帰させる旨の連絡が陸軍に伝えられた。
ただしそれには条件があった。この期に及んでも未だ陸軍の内部に根強い意見であった。彼らは天皇の盤石な治世の為に蹶起したのだから、自刃に当たって天皇からの勅使を派遣してほしいというのである。そうする事で自分達の面目を保ち、正しさを世に伝えようというのであった。
「将校達の心情もお察しください」
という奏上を、天皇は一顧だにしなかった。
「どうしてそのような者達に勅使を派遣する必要があろうか」
天皇陛下の怒りは27日より全く静まる事なく
「なぜ陸軍は鎮圧に躊躇しているのか。この上躊躇し続けるようなら朕自らが先頭に立ち近衛師団を率いて直接鎮圧の指揮を執る」
と激しい言葉を上層部に浴びせていた。
将校達の甘さは、実にこのような天皇の激越な怒りまで慮ることのなかった点であった。天皇の理解が得られなければこの蹶起は「未曽有の反乱」の域を出ない。
2月28日午後四時、反乱将校自刃の知らせを待っていた九段の戒厳令司令部に、将校も下士官兵も帰順せずの一報がもたらされた。これで両者の決裂は決定した。師団長や参謀の必死の説得にも反乱将校達の態度は変わらず、午後六時、陸軍第一師団の師団長・堀は反乱に加わった第一連隊に対して「軍の指揮下より外す」と命令を下した。それは事実上の罷免であった。
午後八時、戒厳令司令長官香椎中将は、指揮下の各部隊に一斉攻撃に備えての準備と待機を命じた。反乱軍への一斉攻撃は明朝午前五時以降と決定された。
さやは夫を待っていた。彼女を心配してくれる友人達の言葉にも耳を貸さず、ひたすらに待ち続けていた。飲食も風呂も忘れ夫に思いを馳せる時間は辛くもあったが、純粋に幸せな時間でもあった。
明朝未明、夫の部隊は一斉攻撃を受け恐らく全滅するであろう。自分は良人に遅れをとってはならない。良人の行く所に先に行き待っていなければならない。さやの気持ちは既に決まっていた。
夜も遅い時間、雪はまだ厚く残り、行き交う人とてない四ツ谷愛住町の奥。一人で死ぬ決意をしたさやに迷いはなかった。これで心置きなく彼を待つ事ができる。彼女の友人達の面影や声は、頭の中から消し飛んでいた。
そうと決まれば行動にためらいはなかった。一昨夜来の心労から憔悴しきった顔のまま死ぬ事は許されない。これでは優しい夫にあの世で心配をかけてしまうだろう。
彼女は湯を沸かし二日ぶりに暖かい風呂に入った。髪を洗い、夫の好む真っ直ぐな洗い髪にきちんと櫛目を通し、縮緬のリボンでゆったりと束ねた。これであの世で夫が髪を解いてくれるのを待つ事ができる。
下着から肌襦袢、長襦袢まで新しい物に着替え、夫と正月に靖国神社に詣でた時の着物を死出の衣装と決めた。
晴れやかな柄の着物は死出の旅路の、というには些か派手な気がしたが、夫がきれいだと喜んでくれたからと、帯も帯締めもその時の物で揃えた。足袋は銀座で買った礼装用を下ろした。真新しいキャラコの足先を締め付けるような感覚。冷えを心配し自分の足で挟んで毎晩温めてくれる、夫の逞しい足を想起した。こはぜを一番上まで留めつけ、しばらく後にはこの白い色が血に染まるのだとはっきりと思い描いた。
きちんと身支度を整えると、さやは落ち着いて箪笥の中を探し始めた。目当ては良人が身を守る為にとくれた短剣である。結婚以来ずっとしまってあったのだのが使えるだろうか。万が一でも歯が錆びていたり。鈍っていて切れ味が悪く失敗するような事があってはならない。さやは驚くほど冷静だった。
四谷周辺の警戒線で柘植家への接近を阻まれていた碧生蒼太郎、間宮リカ、絵師片桐惟人の三人は、どうしても抑えきれない胸騒ぎがして、再び裏手から四谷区愛住町に接近を試みた。
明朝未明に陸軍は反乱部隊への総攻撃を開始する。その情報が湯浅神父経由でもたらされ、居ても立っても居られなくなったのだ。
だがうら若い女性であるリカは院長徳永によって外出を止められた。弟のヨハネについてサナトリウムに留まるようにと有無を言わせず命じたのである。同じ四谷区の舟町にあるリカの実家は当然防衛線の中にあり、彼女は事件以来院内に足止めされたままだったが渋々それに応じた。
医師の応急鞄を持ち防寒着をまとった徳永、そして片桐に碧生は真っ暗な雪の帝都に走り出た。
途中警戒の憲兵や陸軍兵に咎められたが、徳永は
「私は医師で、ここにいる家族の要請で急患に駆け付けるのだ」
と一喝し半ば無理やり通行させた。
実際徳永の往診患者には進歩派の皇族の子弟も含まれていたので、宮家の名前を出した途端に兵士たちの態度は変わった。天皇が反乱部隊に対して激越な怒りを持っているという事は、薄々ではあるが知れ渡っていた。皇族や侍従長も襲撃され内大臣までが惨殺されているいま、これ以上宮中との軋轢の種を生むのは避けたかったのである。
碧生達は降り積もり細かな氷状になった雪に足を取られながら、東京の真っただ中を走った。
四ツ谷の小さな柘植家では、さやがすっかり仕度を整えていた。二階の寝室で、と一瞬考えたが思い直して一階の茶の間で喉を切ろうと決めた。玄関の灯りは点しておく事にした。ついで鍵も外し誰でも入って来れるようにした。僧侶だろうが牧師だろうが夫の上官だろうが、入って来れなかったらさぞ不便だろうとぼんやりと考えたのである。
茶の間も明るく電気をつけた。神棚、仏壇の灯明は消し、彼女は部屋の中央に正座し襟元を緩めた。そして膝の前に置いた短剣を手に、ぴたりと刃を顎の脇下につけ思い切り引いた。
瞬間、ガンと太い鉄棒で首を殴られたような衝撃を憶え、目の前が一瞬で真っ赤になった。首の血管から噴き出る血で視界が赤く塞がれた。さやは手元が狂わなかった事に勇気を得て、再びもっと切り込もうと刃を喉深くに動かした。
折からの強風で玄関がガタガタとなり、今にも良人が帰ったよと飛び込んできそうな風情であった。玄関の隙間から吹きこんだ雪がたたきに白い筋となって積もって行く。
突如、胎内から声が聞こえた。さやはその言葉に慄然とした。
『母様……死なないで……生きたい……』
非常に小さく、出血の為の耳鳴りかと思ったが、はっきりとした言葉だった。
そして、自分の早鐘のようにガンガンと鳴る心音に重なり、ささやかに拍動する心臓の音も。
『母様……死にたくない……』
耳鳴りではなかった。
私の中にもう一つの命が在る。
良人である愛する柘植との間の大事な命が。
その命が強い意志で訴えていた。
「私は生きたい」と。
さやは慌てて吹き出る血を掌で抑えた。次いで長い髪で喉をぐるぐる巻きにし、狂ったように出血を止めようとした。
生きなければならない。この小さな命の為に。柘植の血肉を分けた存在の為に。生きなければ。
初め感じられなかった痛みは次第に強く激しくなってきた。
玄関から助けを求めに出ようとしたが、吹き出した血で足を滑らせ倒れ、起き上がる力は既に残されていなかった。
誰か、どなたか助けてください。この小さな命を。
玄関が激しい音を立てて引き開けられた。
自分の体が勢いよく抱き起されるのを、さやは急速に遠のく意識の隅で感じていた。
「柘植夫人!」
「さや!」
間一髪、切ったのは頸動脈ではなく静脈だったので、さやの命は助かった。他人より動脈が内部にあり刃がギリギリのところで到達しなかったのである。
母体が大量に出血したせいで胎児の命も危ぶまれたが、担ぎ込まれた病院で、無事心拍は確認された。急ぎ血管と傷口の縫合が行われ絶対安静の上母体の回復が図られた。
この頃の病院はボイラーや床下暖房等はなく、大抵は家族が燃料を持ち込む練炭ストーブである。さやにはリカや碧生、片桐が交代で練炭を持ち込んで付き添い、次の日には湯浅神父が看護訓練を受けた修道女を連れてきて手厚く見守った。
首の深く大きな傷はなお感染症などの心配もあり、さやは高熱を出した。意識が戻らないまま安らかな顔で眠っている彼女を、一同は悲痛な思いで見詰めていた。




