水仙は咲かず・2
昭和10年秋、柘植譲二と永瀬さやは祝言を上げた。
柘植の数少ない親戚がさやの身分を知り、勝手に決めた結婚に大反対をした挙句に彼を勘当してきたので、参列者は仲人である柘植の陸軍の上官に碧生蒼太郎と間宮リカ、サナトリウムの徳永院長、絵師片桐、そしてカトリックの神父である湯浅だけであった。
二人はこじんまりとした料亭で祝言を上げ杯を交わした。
徳永医師の家に伝わる白無垢をまとった初々しく上気したさやと、陸軍の礼装を凛々しく着こなした柘植譲二曹長は、例える方もなく誠実な美に満ち溢れていた。
夫婦は時節柄旅行などには行かず、四谷愛住町に小さな家を借り住まいとした。そこは元々お針を仕事とする年増女が一人で住んでいた家で、日当たりも悪く猫の額ほどの庭は苔が生え、木造りの門も根元に朽ちた部分さえあった。しかし柘植譲二とさやの夫婦にとってはかけがえのない「二人の家」となった。
子供の頃から苦労したせいか、柘植はこの時代の男にしては実にまめであった。そして軍人としてのプライドを家の中に持ち込む事もなく、ごく自然に女の仕事を手伝った。ふろ焚き、水汲み、そして狭い家の掃除や雑巾がけも、さやが驚くほど気軽にやっていた。
外に働きに行っている職業婦人でもないのに、自分の家事に不満があるのだろうか。さやは一時悩んだが、そうではなかった。幼い頃から苦労して働き大人の中で揉まれてきた柘植には、女の人は大事にするべしという、その境遇にしては珍しい考えが染みついていた。
柘植は自分でもおかしい程に、そして周囲からからかわれる程に狂おしく妻を愛した。訓練や事務仕事に忙しかったが、朝出かける際には玄関に正座して見送る新妻に接吻した。帰宅時も軍靴を脱ぐのももどかしく、出迎えの妻を玄関先で抱きしめた。あまりに勢いよく抱きしめた為、新妻は正座の姿勢のまま後ろざまに転んでしまい、押し倒す形になった事も一度や二度ではなかった。
あまりにも直情的で隠すつもりのない夫の愛情に、さやが白い頬を染める事も多々あった。
「俺はいつも自分でいたいんだ。軍の組織の中での自分は軍人としての役目を果たす顔しかない。家の中では柘植譲二として生まれてきた最大限の事をしたい」
彼はいつも機嫌よく活動的だった。
良人の為にさやが酒の肴を作り、夕餉の支度をするわずかな時間に風呂の湯を汲み、薪で炊いた。そして食事の前に風呂をつかい、小ざっぱりとした着物に着替え妻と一緒の細やかな膳を囲む。柘植は何を作ってもご機嫌で食べてくれた。がっつくという事はなく淡々と、でも笑顔で美味しいと言ってくれる。この時代にしては珍しい男だとさやは毎日思った。
蒼太郎坊ちゃんはお体の具合もあって食が細く、また自分に対する反感もあったせいで、作った物に手を付けてくれなかった。決して贅沢な物ではないが、慎ましい食事を気持ちよく平らげてくれるというのはどんなに嬉しいか。さやはいつもホッコリとした気分になった。
妻が後片付けをし、促されるままに風呂をつかって身づくろいをする間、良人はいつも畳に寝転がりほの暗い天井を眺めていた。
通りから暗く湿気の多い路地を何メートルも入り、市電の音や車の音など聞こえない。静かな横丁には時折猫の鳴き声や犬の遠吠え、夜回りの拍子木の音が聞こえてくるだけだ。それら街の音に混じって妻のつかう風呂の水の跳ね返る音、木造りの手桶やたらいのカポーンと鳴る音、湯をかき混ぜているであろうゆったりとした水音が、生々しい艶を帯びて柘植の心と体に迫ってくる。
自分の妻は世界中で一番美しく愛情深い。目を閉じて風呂に浸かっている妻の風情を夢想しつつ、良人は胸の高まりを必死に堪えていた。軽い木綿の一重に着替え、寝巻用の兵児帯を締める衣擦れの音は甘く耳に響く。
やがて風呂上りの半ば火照った素肌に、洗い髪に櫛目を通し(洗い髪は夫が好むものだ)唇に薄く紅を引いた妻が現れると、柘植は歓びを隠す事なく満面の笑みでひょいと抱え上げ軋む階段を上った。まるで銃剣を肩に担ぐように軽々と抱え上げられた新妻は、笑いながらも階段の高さに怯えた。
「少し怖いです。それに背嚢か銃剣になった心地ですわ」
「しっかり押さえているから怖い事なんてないよ。ほらもう着いた」
二階は寝室と小さな納戸である。六畳の部屋には小さな座卓と妻の姿見。既に布団が引かれていて、いつもさやは気恥ずかしい思いをした。自分が引くからと言っても夫は聞かないのだ。木綿の清潔な布団の上に、妻はそっと下ろされた。
白く温かな妻を柘植は深く激しく愛した。妻も全身全霊でそれに応えた。四谷と内藤新宿の際にある、窪地の一角の小さな家。そこは帝都にいくらでもある、新婚夫婦の家としては貧しげなつつましい家だったが、柘植とさやにとっては他に比べる物もない満ち足りた幸せな空間だった。世界は幸せの内に完結し、二人の中で重なり合い、交わって溶け合い融合する。
停車場の音や人の足音が絶え月が傾く頃、二人は折り重なって手を絡ませ、荒くなった息を整える。夫婦の睦事が終わっても良人の態度が変わる事は決してなかった。そんな年下の夫の肩に布団をかけ直してやりながら、さやはいつも動悸を鎮める。手足の冷えやすいさやを心配し、柘植は自分の足で妻の足先を絡げ脇で手先を挟み温めながら眠りに落ちるのだ。
新婚の家に夫の同僚が来る事は滅多になかったが、たまに仲間の軍人達を連れてくる夕べもある。同僚達は歳上の妻の落ち着いた、しかし初々しい美しさを讃え柘植をからかった。柘植は三国一の妻だと大いに惚気ていたが、夜も遅くなるにつれ不機嫌になり態よく仲間達を追い返した。
「もっと楽しくお飲みになりたかったのではないですか?」
甲斐甲斐しく後片付けをする妻の、袖からのぞく白い腕や、立ったり座ったりの度に翻る着物の裾と白足袋との間にちらりと見える足首を見つめながら、柘植はホッとして言った。
「いいんだよ。あいつらはどうせ君を見に来たのだ。そんな奴らにつきあって夜更かしするまでもない」
「でもお付き合いというものが」
「いいんだ」
妻の声は夫の唇で遮られた。
妻は夫を愛し、夫も妻を愛した。夫の愛情に洗われてさやはますます美しく、暖かな色香を身にまとい、柘植は事務仕事や訓練に邁進し、誰よりも優秀な軍人と認められていった。
年が明け、二人は靖国神社に詣でた。身を切るような寒気の中何時間も参道に並び、夫婦は御榊を奉納し二礼二拍手一拝を行った。屠蘇や雑煮、細やかなお節料理を祝う中、親友の碧生蒼太郎と佳人のリカの年賀訪問も受けたが、初詣から帰った直後から微熱と悪心を感じたさやは、早々に二階の寝室に引き上げた。親友と心置きなく話に興じながら、夫の譲二は心配で堪らなかった。実際妻が軽く咳をしただけでも夫の狼狽する様は笑ってしまう程であった。
碧生とリカは気を利かせて早めに帰り、柘植は待ちかねたように二階へ駆け上がり妻の様子を見に来た。
「さや、具合はどうだ?」
「大分いいです。でもごめんなさい。坊ちゃんや間宮さんにもご迷惑をかけてしまったわ」
「このところ近年になく寒かったからな。風邪でもひいたのかもしれない。疲れも出たんだろう」
「風邪かしら……疲れてなんかいないのに。後片付けもお風呂の始末も満足にできなかったわ。ごめんなさい」
「そんな事はどうでもいいんだ。寝てください。僕はかなり反省しているんだ。貴女を愛しすぎて疲れさせてしまった」
2月に入り立春を迎え、さやの体調は少しずつよくなってきた。元々貧血気味で、冬の寒さで血行が悪くなってしまったのかと周囲は心配した。絵師片桐はどうやって手に入れたのか、海外の修道院で作られたという強い薬草酒を差し入れてくれたし、蒼太郎は以前さやが買ってきてくれた御茶ノ水のパン屋のクリームパンを持参した。傍らには質素な毛織のコートを着た間宮リカ嬢が付き添っていた。
彼女は
「サナトリウムの中庭の温室で育ててみました」
と、毛むくじゃらでひょろりと長い茎の花束を持ってきた。
「ヒナゲシといいます。こんな無愛想な蕾と茎ですが、暖かいところに置くとぱちんと音がする程に蕾が割れて花開くんですよ」
「なんて素敵。楽しみです」
さやはリカの手から一掴みもある花の束を受け取った。その指は女中も置かない質素な暮らしぶりを反映し赤く荒れていた
すぐに有田焼や江戸切子の花瓶に入れ、二階の寝室と一階の茶の間に飾った。石炭ストーブの暖かさで蕾がパチンパチンと割れ、赤や白、蜜柑色や黄色の友禅の艶やかな柄の様な大ぶりの花が開いて行った。
さやは良人に抱かれながらその花の生命力に息を飲んだ。細く弱々しい茎の、とげとげした毛むくじゃらの蕾だったのに、それが弾けるとこんなにも繊細で艶やかな花が咲く。良人もさやも二人の未来を想った。
2月24日。
心底冷える夜だった。次の日から夫は夜も宿営の勤務である。さやは心ばかりの温かい夕餉を作った。夫の好きな酒粕汁と五目豆、魚屋が持ってきた寒ブリの塩焼き。柘植曹長は喜んで残さず食べ、風呂に入り、暖かな布団と妻に抱かれて安らいだ。この夜の事を彼は後々まで覚えていた。妻の一挙手一投足まで克明に記憶していたのである。
翌25日朝、陽が上っても雲が厚く垂れ込め、底冷えは和らぐどころかいや増すばかりであった。柘植曹長は軍装を整え、防寒コートを着用し官給のブーツを履いた。剣を帯び帽子を被り、玄関先で冷たい床に正座して見送る妻を固く抱きしめ、快活に出て行った。
「私が行ったらすぐに鍵をかけて十分に気を付けるんだよ。近頃街は物騒だから」
全ていつも通りの朝だった。さやも夫の気配が去ると立って昼前の家事を始めた。
糠床をかき混ぜ掃除をし、繕い物や近所から頼まれたお手玉や袋物作りに精を出す。いつの間にか暗く立ちこめた雲の下から、霞のような雪が舞い始めた。初め霧のようだった小さな雪粒は次第に大きくなり勢いを増し、帝都はすっぽりと雪に覆われていった。実際この日から数日間の積雪は近年類を見ないものであった。
2月25日深夜。
雪の四谷の路を大勢の足音が注意深くだが荒々しく、銃剣の音を響かせながら通り過ぎて行った。住民はまた特高警察による共産主義者への手入れだろうくらいに思っていた。
2月26日。
日付けが変わり月が地平線の下に入り分厚い暗い雲に覆われた空の底が白む時分。数発の銃声が雪の中こだました。四時になるかならぬかの時であった。
さやは何も知らなかった。彼女が事を知ったのは、夫と同じ小隊に所属する同僚の若い妻からの電話である。その妻は斎藤内大臣邸の近くに住んでおり、邸に何人かの陸軍兵士が押し入り、直後に銃声を聞いたというのであった。奥方がそんな未明に起きていたのは、近くの小さな神社に明け方参拝する為であった。
「柘植さん、私とても怖くて。そちらでは変わった様子はありませんでした?」
「いいえ特に。主人は駐屯地で宿直勤務ですし、何も連絡はございませんわ」
「そう、なら賊が押し入ったのかしら。私も子供と一緒に家に閉じこもっている事にしますわ。柘植さんもお気を付けになって」
「ええ。ありがとうございます。お互い戸締りを厳重にしましょう」
さやは軋む雨戸を開けた。外は一面の銀世界であった。こんな雪は久しぶりだ。いつだったか蒼太郎坊ちゃんと見たような気がする。だが彼女はどういう経緯で坊ちゃんと雪を見たのか、全く記憶にない。ただその時の自分はとてもよい空気を感じたとだけ覚えていた。
甲斐甲斐しく小さな家の掃除をし、畳の部屋は雪を散らしてサッサッと箒で掃いた。そうすると細かいちりや埃を雪が吸収してきれいになるという、寒い時期ならではの掃除法である。毛の普段着の着物の尻っぱしょりをし、廊下の隅々までタターッと雑巾がけをし、氷の張るような冷たい水で雑巾を絞った。
夫は寒い戸外に詰めているのだろうか。それとも暖かい室内で事務仕事をしているのだろうか。いつ頃帰るとは言わなかったので余計気にかかった。
同僚夫人の朝の電話以外、変わった事は何一つない。さやは湯を沸かし夫の褌や下着の洗濯をし、通りから見えない裏庭側の軒先に干した。終始日の当たらないその軒先はつららが垂れ下がり、周りの風景を奇妙に歪めて氷の中に閉じ込めている。その曲がりくねった風景の美しさにさやはしばし時間を忘れた。
また突然電話が鳴った。急いで出ると碧生蒼太郎からだった。こんにちは坊ちゃんと応える間も許さないほど、蒼太郎の声は急ぎ緊迫していた。
「さや、ラジオを聞いたかい?」
「いえ、盗人が内大臣邸に押し入ったかも、というのならば……」
「それどころではない。今、君の家の近辺は大変な事になっているんだ」
ともかく今すぐラジオをつけろという蒼太郎の指示にさやは胸騒ぎを覚え、急いで電源を入れた。
周波数を国営放送に合わせる。そこから流れてきたのは岡田啓介首相、高橋是清大蔵大臣、そして同じ四谷の斎藤實内大臣先程夫の同僚から電話があった舘の主である、鈴木貫太郎侍従長、そして軍人では陸軍教育総監の渡辺錠太郎大将、華族では元内大臣牧野伸顕伯爵が朝のうちに襲われたとの報である。そしてそれは陸軍の一部の別動隊による凶行であるかもしれぬ、という事であった。
さやはラジオを消してしまいたくなった。
「坊ちゃん、柘植が昨夜からの宿直で帰って来ないのです」
「さや、気を強く持って固く戸締りをして、あいつからの連絡を待つんだよ。僕達もそちらに向かうけど、警備線が張られていてなかなか難しい」
「私は大丈夫です。あの人の帰りを待ちます。軍人の妻ですから」
夫は寒い中で警戒中なのだろうか。それとも室内で事件の情報収集に奔走しているのだろうか。さやは落ち着こうとラジオを一時消したが、また考え直してつけた。
ガンガンガン、と表の戸が鳴った。さやはぎくりとして玄関に向かった。
「どなたですか?」
「片桐です、柘植夫人。心配して参りました」
「まあ片桐さん」
凍える手で鍵を開け引き戸も開けようとするが、寒さと雪で元々立てつけの悪い引き戸は大層軋んだ。細く開いた隙間を自分でこじ開け、雪の粒を全身に付けた長身の片桐が飛び込んできた。
「表は警戒の警官だらけです。私は内大臣邸の近くに住んでいるので余計来るのに難儀した。日頃の行いですかね」
玄関のたたきで雪を払いながら、片桐は寒さに凍えるさやの青白い顔を一瞬で見てとった。
「文士先生は生憎この寒さで体調が良くない。間宮のお嬢さんも彼と弟についているので私が貴女の様子を見に来ました。忌憚なく言います。私と一緒においでなさい」
「え?」
「ここは陸軍省にも近いしとても危険だ。私が徳永先生のサナトリウムへお連れします。そこで良人をお待ちなさい。病院という施設が嫌なら隣の教会の女子修道院に一時身を寄せてもよい。湯浅神父がうまく根回しをしてくれます」
「でもどうしてそんな事をしなければなりませんの? 私はこの家で柘植の帰りを待つつもりです。どこにも行きません」
「柘植君は帰ってこないかもしれません」
「え?」
片桐は端正な顔を曇らせ、身を屈めてさやの間近に顔を寄せた。
「これは一部の賊による要人襲撃どころではない。陸軍の反乱なのです。近衛や歩兵師団、砲兵隊等が大人数参加した」
「ラジオを……切っていたのです。聞き続けるのが辛くて。だから知りませんでした」
「わかります。恐ろしい事です。だからここは危険なのです。今は陸軍の上部が『決起の信条にいたく感動せり』と寛大な措置を奏上しているが、とてもそれでは収まらない。反乱分子ではなく反乱軍なのです。掃討部隊による戦闘に陥る事態もあり得ます」
さやは頭がグルグルしてきた。片桐は彼女の視点がぼうっと遠のいたのを見て手をしっかりと取った。柘植譲二曹長が愛した象牙のような小さな手は、片桐の手も凍らんばかりに冷え切っていた。
「私は……」
「一緒に来なさい。貴女の身が危ない」
片桐は有無を言わせず玄関の引き戸を開けた。盛大に軋む戸からは雪と強い風が吹き込んで、さやの黒い髪を乱した。
「私は行きません。残ります」
女は取りつかれたように虚ろな声で呟いた。
「ここで夫の帰りを待ちます。夫は必ず戻ってきますから。大丈夫です。片桐さんはお帰りください」
「いや、それなら私もここに居ます。あなたを一人にしておく事はできない。男として」
「迷惑ですわ」
思いがけない言葉が女の口から洩れた。
「何ですって?」
「私はそれを望んでいません。なぜ他の殿方と夫の帰りを待つ事ができるでしょう。私は愛人だった女ですが柘植の妻です」
「そういう事ではない。今問題なのは」
「お帰り下さい」
さやは渾身の力を込めて片桐を突き飛ばし、思いがけない反撃に面食らった男は雪の中もんどりうって転がった。
「柘植夫人!」
「お戻りください。坊ちゃんと間宮さんに宜しく仰って」
ぴしゃりと戸を閉めたさやは急いで固く施錠し、家の奥にと引っ込んでしまった。
片桐はしばらく乱暴に戸を叩いていたが(日頃の彼を知る者は信じられないだろうが) 無念そうな表情を浮かべたまま、少しずつ家を離れた。もしや窓からでもと二階のガラス戸を見上げたが、固く閉ざされた窓辺には彼女の影すら感じられなかった。




