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水仙は咲かず・1

 湯浅哲広氏は司祭の叙階を受けて長いベテランの聴罪神父である。人に警戒心を与えない穏やかな笑顔と声音、巧みな話術で、懺悔をする人々の警戒心を解き、核心を聞き出して許しを得られるよう導く。東京市のカトリック司教座聖堂では協力司祭でありながら、懺悔は是非彼に担当してほしいという信徒が市外からも訪れる程だった。小柄だが頑健な肉体と強い精神力を持っていたので、各地の刑務所や病院を回り告白を受け止め慰め、また獄中でのミサも行ってきた。

 彼の素性を知る者はあまりいない。修道院の上長ですら、ヨーロッパの大学に留学経験があり外国語も堪能、神学関係の翻訳書も手掛ける俊才であるという事しか知らなかった。両親と親類縁者は先の大震災で皆死んだ、と語っていた。

 懺悔とはいわゆる「罪の告白」で、カトリック教会や正教会では少なくとも年に二回以上の懺悔を進めている。特に春の復活祭の前には懺悔室の前に長蛇の列ができる事もある。司牧の一環ではあるが神父には守秘義務が固く課せられていた。例え懺悔する人間が「人を殺してきた」と触法の犯罪を告白したとしても、神父は秘密を守らなければならなかった。ただし、懺悔によって自首を強力に勧める事は可能である。

 口が堅く信徒に絶大な信頼を置かれている湯浅神父の元には、大小様々な「秘密事項」が飛び込んでくる。さらに従軍牧師をしている米英のプロテスタントの牧師からの便りや、ヨーロッパのカトリック神父を通しての情報も入る。だが今、温和な湯浅神父の訪れるサナトリウムでは、視線の先にはおずおずと歩み寄る碧生蒼太郎元飛行学生と、間宮リカの姿があった。


 昭和10年の夏の終わり、夏の花が咲き誇るサナトリウムに、その軍服姿の男はふらりと現れた。柘植譲二と名乗った彼は軍装に似つかわしくない風呂敷包みを手に下げ、無防備な笑顔で入り口に立っていた。


「碧生蒼太郎君は居りますか? 」


 よく通る声で受付に尋ねる。書き物中の碧生は慌てて上着を羽織りシャツとズボンを整えて迎えに出た。


「柘植じゃないか。お前帝都にいたのか」

「偶々な。お前こそ体は大丈夫なのか?」

「ああ。大分良くなった。俺がここにいるってどこで知ったんだ?」

「それも偶々だよ。気に入りの文芸誌で貴様の名前を見つけて編集部に問い合わせたんだ。初めは向こうも教えるのを渋ったがな」

「それはそうだ。民間にはプライバシイというものが存在する。柘植、貴様も変わりなさそうで何よりだ」


 柘植と呼ばれた陸軍の軍装の男は碧生の小学校時代の同級生である。家が貧しく小学校にほとんど通わず町に奉公に出ていた。みかん農家の坊ちゃんである碧生蒼太郎とはよく喧嘩をしたが、気が付くと一緒にいる悪友でもあった。苦しい生活の中奉公先の主人に金を出してもらい、小学校を卒業した後陸軍に入ったのだ。優秀さを認められて今は乃木坂の御所近くに勤務しているという。日焼けした精悍な顔つきと鍛え上げた逞しい体躯に蒼太郎はやや引け目を感じた。


「貴様の好きな饅頭を買ってきてやったぞ。『しほせ』の薯蕷饅頭だ。どうだ怖いだろう」


 そんな蒼太郎の気持ちを知ってか知らずか、柘植は豪快に笑いどんどん園内に入ってきた。


「しかしすごいなここは。どんな優雅な金持ちが療養しているのか、だよ」

「ああ。俺も院長が作家仲間でなければとてもこんないい所へは入れなかった」

「だろうな。世の中には泥の中で血を吐いて、周囲から忌避されたまま死んでいく患者の方が余程多いのだ。貴様は運がいい」


 瀟洒な院内の応接室で職員が入れてくれたお茶をすすりながら、柘植は辺りを見回した。


「海外のホテルのようだな、もっとも俺は写真でしか知らないが」


と呟いた柘植はにやにや笑いながら碧生を見詰めた。


「貴様が文章家になるとは思ってもみなかったよ」

「いや、それで一家を養っているわけでもないから、そんな風にはとても名乗れない」

「俺も貴様の文章が載っている本を買って読むが、なかなか良いじゃないか。本なんか絶対に読まなかったお前が書くにしては上等だ」

「体が自由で無理が効いた時には、文を書こうなんて全く思わなかった。目を開いていても見えていない物が多すぎたんだ。今でもそうなんだろうが」

「随分な変わりようだな、さては愛しい人でも出来たか?」


 蒼太郎はしほせの饅頭をとり落としそうになった。


「図星だな。まあお前は昔からもてたからな」

「まさか。全然そんな事はない。言い寄られた経験もなかったぞ」

「そりゃお前が朴念仁だからだよ。なんで気が付かないんだろうって周りが皆呆れていたのさ」


 また朴念仁か。蒼太郎は白い歯を見せて笑う旧友を苦笑して眺めた。

 疲れたか? と柘植は顔色の悪い蒼太郎を気遣った。豪快に見えてこういう細やかな所は子供の頃とちっとも変らない。


「饅頭は世話になっている看護人や皆に分けるといい。俺はそろそろ帰るから。そうそう碧生、ここにも本をたくさん置いてあるのか?」

「何だ柘植、お前も文学に目覚めてきたのか?」

「恥かしい事を言うなよ。俺は今曹長だが少しは時間に余裕もできた。貴様のような目で世界を読んでみるのも悪くないと思ってな」


 旧友の照れたような口ぶりに碧生は我知らず微笑んだ。


「こら、笑うな」

「すまんすまん。俺は今こちらにはあまり持ってきていないんだ。ここに入所するまで世話になっていた父の妾が小石川に住んでいる。その家にほぼ全部置いてあるんだ」

「お前の親父も大概だなあ……」

「ああ仕方がないさ、そういう奴だ。本を読みたくなったらいつでも行って、自由に読んで構わない。俺の紹介だと言えば大丈夫だ。電話をしておくから」


 碧生は手早く小石川の住所を書き留めると柘植に渡した。婦人が一人で住んでいるのだからくれぐれも他人に教えたりはしないように、と釘を刺すのは忘れない。


「もし行く事があったら、その家の女主人に俺は元気だと伝えてくれ」

「ああわかった。伝えるよ」

 丁寧に鋏で切り取った帳面の紙片を受け取り、柘植は何かを察したように答えた。


 小さな中庭の紅葉も夏枯れしそうになっている。さやは少し寂しい思いで汗を拭き、玄関先に打ち水をした。夏の終わりとはいえ窪地になった小石川の家の周りは蒸し蒸しと熱気が籠るのだ。


「ごめん下さい」


 爽やかな声が頭上でした。下を向いて打ち水を続けていたさやははっと顔を上げた。きちんと陸軍の軍服を着て軍帽を被った青年が涼やかな風情で立っている。気付かずに足元に水を跳ねさせてしまったのか。だがそうではなかった。


「永瀬さやさんのお宅ですか? 自分は碧生蒼太郎君の友人の、柘植譲二と申します」


 埃っぽい軍服、鼻の頭に汗を光らせた長身の若者は、子供のようなまん丸い目で自分を見ていた。


「蒼太郎君から電話が既にいっているか分かりませんが、彼の蔵書を読ませて頂きたいと思いまして」

「お話しはお伺いしております。坊ちゃんのご本ですね。どうぞ」

 さやは勝手口に回って手桶と柄杓を置くと、玄関を内側から開けて柘植を迎え入れた。


 不思議な事もあるものだ。この家に蒼太郎坊ちゃんの旧友が訪れるとは。小ざっぱりとした木綿の一重に着替えたさやは、市電に揺られながら思った。

 彼女は最近モデルを始めたのだ。和服を着て籐いすに座っているだけの事だったが、片桐と名乗る絵師はササッと炭でスケッチをしたり、さやの着物の柄にあわせた色を塗ったりして手際よく書き留めていく。サナトリウムに見舞いや日用品や着替えを置きに行くうちに、友人の息子が入所しているという絵師と知り合い、便箋や本の挿絵のモデルを頼まれるようになったのだ。

 さやは最初断ったが蒼太郎から『僕も着物姿を書き残してもらうのは賛成だ』と言われ承諾した。片桐の「アトリエ」と称するぼろ屋に行くたびに、蒼太郎の最近の生活を聞く事ができるのも嬉しかった。

 坊ちゃんは年下の美しいお嬢さんと、もしかしたら恋に発展するかもしれない。片桐はスケッチした和紙に色を置きながら、さも面白そうにさやに訊かせる。年下の『坊ちゃん』が新生活に馴染んでいくのを聞くのはさやにとっても嬉しかった。


 夏が終わり、じりじりとしたセミの鳴き声がいつの間にか静かになっても、柘植陸軍曹長は度々小石川の家を訪れた。蒼太郎の部屋の本棚から本を借りて官舎に帰ったり、時に彼の座卓に座って読んで行ったり。茶と茶菓子を出しながら、この家に碧生以外の男がいるという事実にさやは落ちつかなかった。

 女中部屋に引っ込みご近所から請け負った縫物の仕事をしている間も、早く帰ってくれないものかとじりじりしていたが、次第に「坊ちゃんの部屋に男性がいる」と言う事に違和感がなくなってきた。

 彼女の旦那である蒼太郎の父は、もう滅多にこの家に寄りつかなくなっていた。それでも毎月律儀に金を送ってくるのは、東京の療養所に押し込めたままの二男坊に対する負い目があるからに違いない。

 蒼太郎が去って半年以上、彼女は孤独な生活を送ってきた。その静かな生活に自然な形で滑りこんできたのが、坊ちゃんの友人、柘植だった。


「意味がない。何の意味もないですわ」


 いつものようにやってきて静かに読書を始めた柘植に、茶と剥いた水蜜桃を勧めながら、廊下に出てさやは呟いた。その声は二人しかいない小さな家の中に思いがけず大きく響いた。


「え、何がですか?」


 柘植は蒼太郎より大分逞しい背中越しに振り返った。その顔は不意を突かれ子供のように無防備だった。


「いえ、何でもありません。申し訳ありません」


 台所に引っ込みながら、さやは顔を見せないように背けた。


「僕がこちらにお邪魔させて頂く事で、永瀬さんにご迷惑がかかるようであれば……」


 随分近くで声がした。竈の脇から顔を上げると、台所の入口に柘植が立っていた。大柄な体に似ず足音もなく歩いてきたのだ。


「とんでもありません。意味がないのは私の方なんです。柘植さんには全く……でも」

「ほらやはり何かある」


 柘植は小さい目と鼻にしわを寄せて心配そうに見返した。さやは病身の蒼太郎とは違う健康な率直さに、まともに目を合わせるのを憚った。


「何もありません。でも私はそろそろこちらを出て行こうかと思っています」

「え?」

「こんな御宅に私が一人だけ住んでいられるというのも元々あり得ない話ですし、当初は坊ちゃんのお病気の面倒を見るという事で……でも、坊ちゃんは素晴らしい施設に移られましたし、私よりも頼りになる方々に囲まれています」

「碧生君からある程度は聞いています。奴の親父から頼まれて東京の別邸の管理をしていらっしゃるのだと」

「それだけではありませんわ。柘植さんもう聞いていらっしゃるはずです。私の身分を」

「……」

「もう日が傾き始めました。お帰りになられた方がよろしいです」


 さやは毅然と立ち上がり柘植に微笑みかけた。柘植譲二はこの年上の女をまじまじと見つめ、穏やかに返事をした。


「自分はもう少しいられるのですが、永瀬さんがそうした方がいいと仰るならば」


 その物腰は硬質な軍服姿とはまるで似つかわしくない穏やかさに満ちていた。ふと今目の前にいるこの軍人ならば、自分の声を聞き流してくれるのではないかと、さやは思った。聞いてほしい気もするが覚えていてほしくない。自分の声を上げてみたくなったのは、彼女にとって生まれて初めての気持ちだった。


「今からとてもはしたない独り言を致します。独り言ですから決してお気になさらずそのままお帰りになってくださって結構です。自分でも少しおかしいのです」


 自分は今エキセントリックな表情を浮かべているだろう。多分一緒に過ごした蒼太郎もその父も見た事のないような。だがこの見ず知らずの軍人だったら、見ても見ぬふり聞かぬふりをしてくれそうだ。


「どうぞ。自分も通りがかりの路傍の石になります。読みたい本を一気に読んでしまいますので」


 柘植が台所から離れる気配がする。廊下の微かに軋む音がそれを表していた。小柄なさやは歩いても鳴らないが、男である蒼太郎や柘植は痩せているとは言えぎしっぎしっと板が鳴るのだ。その甘美な軋みの音を、さやは幾度この家で聞いたろうか。


「私はごく若い時から人様の囲い者として生きてきました。手伝いに行った先の坊ちゃんのお父様から手籠めにされたのがきっかけですが、貧しかった実家はこれ幸いとばかりに私を碧生家に売りました。それ以来湘南のお宅から東京の家を当てがわれ、旦那様が商いや他のお妾さん達へ寄るついでにお越しになる時をお待ちしていました。そんな生活でした。私の生きるという事は、旦那様の手が伸びるのをひたすら待ち日々を過ごす。それだけの意味でした」


 柘植の気配はなかった。きっと蒼太郎の部屋の襖を閉めて本に集中しているに違いない。


「その日々に突然、旦那様のお子様の蒼太郎坊ちゃんが現れました。御病気で湘南のご実家に帰れず、こちらで静養なさるようにとのご実家のご意向です。幸い坊ちゃんはお体が弱っていても仕事に恵まれ、先輩作家の先生方のおかげで大変良い療養所にも入る事ができました。私のお役目は終わりました」


 一気に言葉を吐くと、さやは心から笑顔が湧きあがってきた。心の丈を口から吐くという事はこんなにも爽快なのか。口汚い言葉は蛇に、優しい言葉は宝石やバラの花に変わるのだと坊ちゃんに訊いた事があったが、今の自分の言葉がどちらに変化しようと構わない。さやはうきうきしてきた。なぜこんなにも心軽いのだろう。

 一方、一度蒼太郎の部屋に戻った柘植は、どうしても気になり、静かに廊下へと戻ってきた。どの板を踏めばぎしっと鳴るか、慎重に足を運びながら、台所の入口のさやからは見えない壁の向こうに腰を下ろした。腰の軍刀がガチャリと音をたてないように気を使いながら長い脚を折り曲げ、女の独り言を聞いていた。

 柘植にとって、さやの身の上は全く知らないというものではなかった。蒼太郎がちらと言っていたし、控えめな物腰と粋筋の様な住まいの様子。生活感の無さ。多分誰かの愛人なのであろうと見当はつけていた。と同時に、親友の蒼太郎が一度は真剣に好きになった相手なのだろうと、推測もしていた。何故なら自分も心惹かれていたからだ。


「さっき意味がないと言いましたのは、この私の生き方です。意味があるのはどういうのか、と言われても分かりませんが、これだけは決めました。私は旦那様の囲い者でいるのは辞めます。こちらの家も出て行きます。たった今思いついた事ですから、どこに行こうか等まだ決めていませんが、東京に女一人働いて暮らしていく場がないのであれば、満州や京城や台湾に渡っても良い事ですし」


 言葉にするという事は、改めて自分の決意を耳から再確認し自分の決心を固くする事でもある。今思いついた事ではあるが、さやは独り言を口に出して言い続けるうちに、それが一番いいと思いを固めていた。


「坊ちゃんの御本が一番の気がかりですが……でも私が出て言ったら旦那様が売っておしまいになるでしょう。その前に全て療養所に運んでもらえば、もう人様がこの家に来る理由はなくなりますね」


「永瀬さん、ちょっと出かけましょう。一緒に来てください」


 いきなり間近で声がしたので、さやは思わず小さな悲鳴を上げた。


「今からですか? もう夕方になるのですが」

「ええ今から、今すぐにですよ」

「でも私、外出用のなりをしていませんし……」

「そのお着物で充分です。すぐに出かけますよ。僕は気が変りやすい方ではないが、すぐ行きたい所があるのです」


 さやは質素な銘仙に紬の帯を締めた姿で軍装の柘植に手を引かれて家を出た。家の門に鍵をかけると流石に手を取ったままという事はできない。柘植は自然に手を離し、女を庇うような位置で並んで歩いた。


「どこに行こうというのですか?」

「九段です」


 さやにとって、市電に乗って神保町から九段への道は、しばしば蒼太郎の代理で原稿を暁星社に持参した、慣れた道である。柘植にとっては陸軍会館もある軍の中核でもあり、小石川程度なら本来歩いていくべき距離なのであるが、婦人と一緒なので気を使った。

 彼らが向かったのは靖国神社だった。玉串を捧げ修祓・参拝をし、境内の前に立つ柘植の目には清々しい光があった。


「永瀬さん、自分の妻になってください。私は今、先祖・先人の霊に誓って貴女を幸せにすると約束したのです」


 余りにも唐突な言葉にさやは息が止まってしまった。ややあってふーっと息を吐き、自分を見下ろす柘植の表情を見上げた。

 靖国の森の木々の間から夕日が零れ落ち、二人の周りに濃い影を作った。細かな表情は逆光で見えなかったが、この年下の青年兵士は優しげな眼で自分を見つめている。


「駄目ですか?」

「無理に決まっています。貴方は私の身分をご存じでしょう?」

「ええ。蒼太郎から少し聞きました。あとは多少の推測と……でもそれが何ですか? 人間が生きていくという事はそれもこれも全部ひっくるめての事です。自分は貴女と一緒に生きたい」

「順番が逆ですわ。まずはお付き合いとか」

「順番よりも自分は己の直感を信じます。永瀬さん、一緒になりましょう」


 夕日の強い逆光がさやの目を眩ませ、長身の柘植の表情を窺い知る事を拒否した。一方目を凝らして自分の表情を必死に探ろうとする小柄な女性の素顔を、柘植はこの上なく可愛らしいものとして見つめていた。


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