パートスリー
○パートスリー○
その31
時代がかった事務用の木製のテーブル。
その上にはメモ用紙の冊子があり、メモ用紙の一番上の用紙には、「督促状」と書き殴られた文字があった。
それは、大きな話題になり、世間に出回っているいわゆる問題の「督促状」というものを指しているものと思われるである。「督促状」というものは、本来なら事件となるべきものである。しかし、不思議なことに、ほんの一部の人たちにとって話題にはなっているものの、ニュースというよりは噂というレベルの情報であった。
「督促状」
彼は、その督促状の入っていた封筒を繰り返し見た。表を見た。そして、裏も見た。彼は、こな督促状の封筒の手触りもしっかり確認した。そして、彼は、臭いもじっくり嗅いでみた。そして、彼は、気の済むまでチェックし終わると、督促状をファイルにしまい込んでしまった。
そして、彼の前の書類の山から今度は、一冊の冊子を取り出してみる。「督促状」は、この冊子に貼られていた。
この冊子には、作成者の名前はなかった。
『卒業アルバム』とあるだけ。そして、表紙に「閑子」覚え書きがされていた。
(「卒業」。この言葉は、何を言おうとしているのか?)
封筒の中には、上等の紙に印刷された三枚の写真が入っていた。この写真は、昔の写真で時の経過を感じさせた。この写真はおそらく「卒業アルバムにあったものを」というからの写真を引き伸ばしたものだった。写真集のタイトルの由来であった。
これが「卒業」という言葉のイメージに反して、彼は、三枚の写真になにか悪趣味なものを感じ取った。
彼が持っている、「卒業」という言葉のイメージ、学生時代の若く肯定的な時期で、懐かしさを呼び寄せる良き思い出的な「卒業」のイメージとは、根本的に反するような疲れ果てた、嫌悪感を催すような、萎れた、すでに年老いた、無気力なそんな人間の写真にあふれていた。
彼は、この「卒業アルバム」という三枚の写真ににサッと目を通すと、彼の前に積み上げられている資料の山を置いた。そして、資料の中から新しい何かを物色しようとした。
(......!)
封筒に入っていた三枚の写真。
写真には、被写体の人物の名前が書かれていた。ちょうど二十年前の日付。そして、写真のそれぞれには被写体の人物の名前が書かれていた。
(蕪木栄一の心に棘を残した事件の登場人物でもあった)
「亀井閑子」
「吉田暢子」
「喜多真知子」
* *
彼のいる部屋の扉をノックしたその音で、彼は我に帰えった。
「やつは、可哀想なやつだ。仕事は出来るが、仕事は不遇」
上から目線で彼のことを誰かが批評する廊下の声が聞こえてきた。
* *
警察署は、問題を抱えている。それは、とても重大な問題でありつつも、一方的に、自分たちの持つ権力を使って解決することができない、それは、微妙な問題であった。
六法全書にさえその取扱いが示されていない、このような問題、その本質がはっきり定義できないし、極端な解釈をもってしても解決が困難な問題であった。その性質上、写真のような形でハッキリとした証拠が示せない、このような問題をうまく取り扱えるかどうかは、この警察署の将来、この警察署の管轄に住んでいる住民の生活の現在、そして、未来の安全に大きな影響を与えたはずだ。しかし、このような問題に、血税は使われるべきものではなかった。
しかし、このような本来黙殺されるべき問題のうちで、本署が抱える無視できない特別に重大な問題というのがあって、それは、見過ごしてしまうわけには行かないと上層部にも考えがあったのだ。そして、この問題に取り組むために、駒をひとつ、ポストをひとつだけ用意した。
その出世の道が完全に閉ざされているポストというか仕事は、上司からの覚えのめでたくない署員が担当することとなった。しかし、彼がどのような理由から、このポストを与えられたのか、理由は分からなかった。
彼には、彼の専用の部屋として、警察署の目立たぬ一隅に団地の子供部屋ほどの部屋があてがわれた。
この部屋は、通りに面するガラス窓から中の様子を覗けるのであるが、この部屋には建物の外海に面する窓がなかった。部屋の中には、ダブルベッドくらいの大きさの立派な木製のテーブルが部屋の真ん中にあり、パイプの折りたたみ椅子が3脚ある。そのうちの一つの椅子は、背もたれのない粗末なパイプ椅子である。この椅子からこの部屋の主が、署内では評価されることのない人物であることが読み取れた。
このパイプ椅子には、彼の私物がのせられていた。
彼は、署の内外から、書物や資料を持ち込み、多くの時間をそれらを読んで過ごした。それを読み終えると、そのたびごとに、自分で返却に行った。そのために、この部屋には本棚はなかった。木製の机の一角に書類置きがひとつあるだけであった。
警察署のそして、彼以外のものからすれば、その立ち位置は、例えるならば「開かずの間」となっていた。誰もその部屋へ行こうともしないし、その部屋に行く必要もないというわけであった。
この部屋の主である彼は、この警察署の他の同僚と没交渉であった。同僚にとっては、人に聞かれれば、そんなやつ居たっけかと、いぶかしがられる存在ではあるのだが、考えてみれば、確かに、いるといえばいるというくらいの存在なのであった。
彼の仕事は、基本的に何も生み出さない、そして生産することのない仕事であった。
会計の記録は、彼の存在の痕跡を懸命に消し去ろうとする痕跡がありありと見えた。、彼に対しては、どんな経費も基本的には認められていなかった。
彼は、十年近くもの期間、この泣かず飛ばすの仕事を続けていたせいか、長くこのような存在に甘んじてきた結果であろうか、ある種隠微な、風変わりな特性が本人は知らぬうちに身につけていたわけである。
(それについては、また追々語ることにしよう)
ところで、このところ、彼は署の内外で、この仕事に選ばれたことで、署員の注目を集め始めていた。
確かに、彼は、変わっているが、無能というわけではなかった。ある点においては彼は優秀な力を発揮した。それは能力と言えるほど、生産的なものではないが、ある種のオーラを身にまとっている人物であることは、署の多くの人間たちが、最近では、彼のことをそういうふうに認めるようになってきていた。
どういうことかというと、このところ、彼は頻繁にテレビのニュース番組に登場しているために、世の中の人たち、テレビの視聴者は、ニュース番組に頻繁に登場する彼のことが、気になり始めているのであった。
彼は、テレビに登場するのは、彼がテレビ番組のMCや、コメンテーターや、現場の記者やレポーターとして番組に、なにか関わっているからではなかった。彼は、様々な重大事件の現場に偶然居合わせてしまい、それで、番組のテレビカメラがまた偶然彼の姿をとらえてしまい、それで、彼の姿が、全国に放送されてしまうのであった。
どういう理由かははっきりしないが、彼は、ある種の傾向の事件について、彼の中には、ある種のその存在を嗅ぎ出していく力が、彼の中に、彼の無自覚なうちに発生してというか、そんな物を確かに彼は獲得しているのであった。今では、ひとつの予知能力と呼べる物に成長しているのであった。
(これも、話の中で、追々語ることにする)
彼は、若くはない資料整理のアルバイトさんか、清掃会社から派遣できている清掃員さんのような服装をしていた。
彼は、仕事中、白衣で過ごした。警察官の制服を着ることなく、刑事のようにスーツを着ているのも稀であった。
基本的には、白衣の下に廉価で地味なシャツに、目立たないパンツ、お気に入り、年季の入った靴を履いていた。この靴は、手入れはしているが、年季の入った編み上げ靴か、すり切れた黒のビジネススーツを履いているなどと同僚は証言するかもしれないが、同僚の証言には覚束ないものがあるというか、彼の服装は、誰も全く気に留めてなかった。
彼は、休暇は最低限以外の休暇は取ることなく、警察署に出勤しているというか常駐していた。
彼は、寡黙で、思いつめたという表情で署内のあちこちに現れ、部署と部署との間を漂流しているのであるが、彼は、照明や日の光が作り出す影ほどに存在感がなく、彼の同僚たちは、彼と行き違っても挨拶さえ忘れてしまう存在になっていた。
* *
そして、偶然に彼と通路などで行き違えるきに目があったり、ぶつかりそうになったりした場合には、不意に彼の存在に気づき、同僚たちは一様にひどく慌てた表情を浮かべてしまうのであった。
その32
ある日、彼の独居部屋というか「開かずの間」を訪れるものがあった。訪問者は、この部屋に入る前、扉をノックした。
「岸谷さん、岸谷和也さん」
岸和也が、扉の方に目を向けると、ノックの主は、牧谷ゆりである。牧村ゆりは、岸谷和也の返事も待たず、扉を開いていた。そして、中に入ってきた。
岸和也の「開かずの間」の仕事場は、警察署の中にありながら、警察署のなかでもっとも奥まったところに隔離されていた。
牧谷ゆりは、岸和也が専有する「開かずの間」に出入りする唯一の人物であった。
「神尾さんからのお使いで来ました」
岸和也が牧谷ゆりの姿を確認すると、牧谷ゆりは、一冊のファイルを手にしていた。
牧谷ゆりが、岸和也に近づくと、牧谷ゆりが纏う甘い香りに岸和也は気づいてしまった。
その香りを、岸和也は、必要以上にきついと感じていた。
(おや?)
(この香りは? いつもと違う香り、心境の変化か?)
この牧谷ゆりという女性、彼女が岸和也のところに上司の使いで、この「開かずの間」などとあだ名をつけられている部屋に出入りするようになってから三年近くの月日が過ぎていた。
このような「開かずの間」への出入りや、岸和也のような正体不明の人物との連絡係というのは、若い女子なら嫌いそうな役割だが、牧谷ゆりという女性には、そんな様子はなかった。
そんな牧谷ゆりの様子から、岸和也は、牧谷ゆりに対して、ここの署の他の女性の職員やスタッフとは、違った印象を持っていたのだった。
たしかに、どんな女性にもありがちなことなのだが、牧谷ゆりを巡っては、いくつかの 「噂」がこの署内に流れており、それは、世間離れした岸和也のような人物の耳にも入ってきていたというわけであった。
それは、牧谷ゆりの場合に、岸和也も感ずることであるが、署内で悪辣で我が物顔の行動が時々あり、そういう行動を目の当たりにしても、何かを恐れ彼女に注意する人間は署内にいないのであった。
例えば、牧谷ゆりは、岸和也の留守の時や、気づかないところで、岸和也の資料室を私物化していることである。これは、牧谷ゆりが注意されてしかるべきことであった。
岸和也は、資料室に入ると、偶然部屋の大きな木製の机の上に毛布に包まって仮眠を取っている牧谷ゆりの姿に出くわしたことが一度ならずあった。
谷ゆりは、そういうところを岸和也に見つかっても、悪びれた様子を見せることはない。もちろん、牧谷ゆりは、あわてた様子もない。牧谷ゆりは、毛布をまとめると、岸和也に、資料室を譲り、そそくさと出て行くことになった。
その33
牧谷ゆりが漂わす甘い香りにより、そのとき岸和也の表情に生じた小さな変化を牧谷ゆりは見落とすことはなかったのだ。
牧谷ゆりは、岸和也とは、深い付き合いはないのだが、そんな中でも、岸和也の行動原理の特徴的な部分を一分ではあるが正確に把握してしまうような聡明さを持っていた。
* *
一方で、岸和也の思いといえば……
岸和也の心には、牧谷ゆりに対する不信感があった。
(いや違う! これは、偶然のことではない。そうではなくひょっとしたら、牧谷ゆりは、俺、岸和也のことを何かの手段によって調べ上げているのかもしれないぞ!)
それは、確かに岸和也にはそんな気配が、そこはかとなく、牧谷ゆりから最近感じられる今日このごろのことであった。
(牧谷ゆりに、牧谷ゆりの清らかな心に、突然、隠していた、牧谷ゆりの心の奥底に潜んでいた恋心の炎が、何ものも恐れぬ、何ものも打ち負かす強い力の情熱と変わっていく中で、牧谷ゆりは、俺、岸和也のことを知りたくなったとしても、そして、牧谷ゆりが、あえて不正な手段に訴えて、俺、岸和也のことを調べ上げていたとしても、その結果、牧谷ゆりが俺、岸和也の個人情報を知りつくしていたとしても、その罪は、牧谷ゆりにあるのではなく、俺、岸和也自身にあり、その罰も、牧谷ゆりにではなく、俺、岸和也自身に与えられるべきである!)
岸和也は、なぜか心が熱くなってきている。これまで、岸和也はこのような心境になったことはなかった。
(論理では全くはかり得ないぞ。とにかく牧谷ゆりのすべての罪のその理由は、彼女の情熱にあるのだから!)
(もう目を背けない)
岸和也は、これが良い考えに思えた。
岸和也の考えはまとまり、一点にフォーカスしていた。
(無垢の情熱!)
この言葉は、岸和也の今、彼の心にあるところの確信というものをあらわしているのであった。
その34
(そうだ、考えてみれば、これまでの牧谷ゆりの、俺、岸和也という男に対するよそよそしい態度は、まさに本物の恋心の裏返し、まさに、そのものであったのだ)
嗚呼、岸和也の妄想は止まらなくなった。ひとつの妄想が去り、岸和也の心が平常を取り戻そうとしているのに、今、新たな、より強力な妄想が、すでに岸和也の心をとらえ始めていた。
新たに、岸和也の心をとらえ始めた、その淫らな妄想とは、しばらく前、とある日の深夜に警察署で起こった出来事であった。
岸和也は、用事があって、深夜、警察署を訪れた。深夜であるので、署の建物内は灯が随分と落とされていた。署内は、薄暗い明かりが満たしていった。
深夜とはいえ、警察署というのは忙しいものであった。事件がまったく起きなかったとしても、夜勤の警察官たちの出入りがいつもあった。
岸和也は、深夜とはいえ、警察署の入口から入ることができた。岸和也は、警察署に入ると、自分が専有する資料室に向かい、資料室のドアの前に立った。そこで、岸和也は、なにか様子が違うことを感じられた。
資料室の扉の鍵がかかっていないのだ。岸和也は、署を出るときに、ドアに鍵がかかっていることを確認したつもりでいた。
岸和也が集めたり、ほうぼうから取り寄せた貴重な掛け替えのない資料の量が増えて、神経質になっていた。資料、どんなものでも紛失するようなことは、絶対に起こってはならなかった。岸和也は、十分に分かっていた。
明かりを点けようとしたのだが、明かりは点かなかった。
「開かずの間」の電気は切られてしまったのか。あるいは、事情の分からないものが電気を切ってしまったのか?
廊下から入ってくる明かりで、資料の存在を確認しようとした。
「おや?」
ある思いが、岸和也を緊張させるのだ。
ある思い。それは、想定を超えた事態の招来。しかし、その可能性については岸和也は強く否定した。
(誰かいる?! たしかにいるぞ)
岸和也は、慎重にドアのノブを回すと、資料室のドアを開き、中をうかがってみた。
部屋の机の上の広大なスペースには、毛布をかぶった人がいた。それが、牧谷ゆりであることは、岸和也にはひと目で分かっるのだった。
牧谷ゆりは、いつも昼間にするように、資料室の大きな机の上で毛布を被って仮眠を取っていたのだった。
机の上に置いてあった資料は、パイプ椅子の上に戻されていた。資料はキチンと積み上げて置いてあった。
岸和也は、資料室のもう一度明かりをつけてみようとした。やはり明かりはつかなかった。
暗がりであっても、岸和也の目は慣れ始めていた。
大きなテーブルに横たわる牧谷ゆりの姿が、暗がりにあっても子細に観察できるようになっていた。
そして、岸和也は、たじろいでしまったのだ。
* *
空調が十分に効かず、暑苦しいのか、牧谷ゆりの寝相が悪かった。牧谷ゆりにかかった毛布は、腹を覆うだけで、スカートからは、パンティが丸出しになっており、上着のボタンの殆どは外れ、上着の下に見えた下着からは、牧谷ゆりの乳房が溢れ出ようとしていたではないか。
岸和也は、牧谷ゆりに声をかけようとしたが、岸和也は、牧谷ゆりにかける言葉が、どうしても思いつかなかったのだ。
岸和也は、押し黙った。しかし、岸和也は、みだらな寝相の牧谷ゆりから目を離すことができずに、その場に立ちつくしているだけだったのだ。
その35
岸和也、その時のの岸和也の調子は、何日もの徹夜業務のせいでおかしくなっていた。それは確かではあった。
岸和也の夢とも現とも判別がつかなかった。それが岸和也の記憶の現在位置であった。
岸和也の頭の中は、あの夜の淫靡な記憶が鮮明に蘇り、岸和也には、あの夜の淫靡な出来事が、今の現実であるかのように、岸和也の心を、感覚を支配していたのだ。
* *
そんな妄想に溺れる岸和也に、新たな現実が、竹箆返しをしてきたのであった。それは、岸和也には避けることが不可能な甘美な招待であった。
その時の岸和也の状況を整理してみよう。
誰かが、警察署内の岸和也の住処というか、アジトの資料室のドアをノックして中に入ってくる。それは、牧谷ゆりであったのだ。しかし、その日の牧谷ゆりは、いつもとは違い、身体から甘い、淫靡な匂いを漂わせていたのだ。この嗅ぎ慣れない匂いが、岸和也を妄想の世界に誘うきっかけになったのは間違いないことであった。
それまで、資料や書類のチェックに没頭していた岸和也ではあったのだが、このとき、甘い匂いを漂わす牧谷ゆりの登場により、岸和也の心だけでなく、肉体の自由も妄想に支配されることとなっていたのだった。
ここで、妄想に支配された岸和也の突飛で、特異な行動スタートとしたではなかったか。
岸和也は、資料室に入ってきた牧谷ゆりの前で不意に立ち上がった。牧谷ゆりは、岸和也に渡すために、資料や書類の束を抱えていた。その時の岸和也の様子がおかしいので、それを感じた牧谷ゆりは少し後退りするのであった。
急に立ち上がった岸和也は、資料室の大きなテーブルのまわりをゆっくりと回り始めたのだ。
この岸和也の異常で、突飛な行動には理由があったのだ。
そう、あの晩、深夜、警察署の資料室の真ん中に置かれたテーブルの上に、寝相が悪く、胸と太ももを露わにした姿で仮眠をとる牧谷ゆりの姿を発見したときに、まさに、岸和也は、そのように資料室の大きなテーブルのまわりをゆっくりと歩いて回り始めたのであったのである。その時、岸和也は、露わな牧谷ゆりの肢体から目を離すことができずにというか、むしろ、牧谷ゆりの肢体を凝視していたのであったのだ。
* *
この時に、岸和也にたいする罠が発動した。
牧谷ゆりは、資料室に入ったとき、岸和也が牧谷ゆりの方を向き、そして、岸和也の目つきが何かを夢想するようなぼんやりとしたものに変わり、岸和也がゆっくりと立ち上がり、資料室の真ん中に置かれた大きなテーブルのまわりを歩き始めるのを見たのだ。
牧谷ゆりは、そんな岸和也の様子に恐怖を感じた様子であった。
牧谷ゆりの恐怖したその様子は、岸和也の脈拍を一気に上げてしまった。
牧谷ゆりは、いつもの岸和也視線とは違ったものを感じたのであった。
牧谷ゆりは、資料室での用事をすぐにすませてしまいたいと思ったわけであった。
最初に、淫靡な妄想を意識の深い領域に植え込まれた岸和也は、この隠微な呪縛からもはや逃れることは出来なかった。
牧谷ゆりは、両手で抱えた資料や書類を、岸和也に手渡そうとした、そんな気持ちを岸和也に対して示したのだった。
牧谷ゆりは、岸和也にいつものように自分のパイプ椅子に座って、机に向かっていてほしかった。
しかし、岸和也は、テーブルのまわりをゆっくりと歩くのをやめなかったのだ。そして、テーブルの周りをゆっくり回りながら、熱い視線は牧谷ゆりの法に向けられていた。もちろん、牧谷ゆりが、手渡そうとしている資料や書類を受け取ろうと言う素振りは、岸和也は全く見せなかったのだが......
牧谷ゆりは、岸和也の様子に恐怖を感じた。牧谷ゆりは、テーブルのまわりを歩きつづける岸和也に対して、無理矢理にでも資料や書類を手渡そうとした。
「署長の神尾望夢さんが、すぐに目を通してもらいたいそうです」
そう言うと、牧谷ゆりは、岸和也に資料や書類を手渡したのだ。牧谷ゆりは、岸和也に資料や書類を手渡したつもりでいたのに、ぼんやりとした岸和也は、結局は、その資料や書類を受け取らず、その資料や書類の束は音を立てて床に落ちたというわけだ。
(しまった)
牧谷ゆりが見ると、床一面に、資料や書類が散らばってしまっていた。
気がつくと、我に返ったのか、岸和也も床一面に散らばった資料や書類を眺めているというわけだった。
* *
ここで、不思議なことに、岸和也の意識が失われた。
その36
岸和也は、目を覚ました。彼は、自分が意識を失っていたことを忘れていた。ましてや、意識を失ったときに、牧谷ゆりが岸和也の「開かずの間」訪問中だったことなど覚えてはいなかった。
岸和也が警察署内で常駐している場所、岸和也が占有し、岸和也に会うためにはこの場所を訪れるのが一番手っ取り早い場所、それが、ここ本警察署内の特別資料室であるのだが、普段この資料室には、岸和也以外には、署内の誰も近づくことはない。署内の岸和也以外のものにとってみれば、謎に満ちた、「開かずの間」であったのだ。
岸和也の意識がしっかりするころ、この「開かずの間」という部屋の扉をノックする音がした。
「どうぞ」
資料室の中から、部屋の中の岸和也の声が聞こえて来た。
「開かずの間」という資料室の中に甘い匂いを漂わせて入ってきたのは、署員の牧谷ゆりであったのだ。
お昼の時間が近づくと、毎日、この警察署の署員、牧谷ゆりが、岸和也の資料室に現れた。
○パートフォー○




