4話 嘘つき、姉さん
翌朝、薄いカーテン越しに差し込む安っぽい朝光が、千聖のまぶたを叩いた。
隣で眠る聖菜を起こさないよう、音もなく布団から抜け出す。深夜の「仕事」で酷使した神経が、鈍い頭痛となって脳を揺らしていた。台所へ向かい、蛇口を捻る。錆の混じった水で顔を洗うと、ようやく「掃除屋」の顔が、仮初めの「姉」の顔へと馴染んでいく。
「……ん、姉さん。もう起きたの?」
背後で、聖菜が目をこすりながら起き上がった。寝癖のついた髪、少しはだけたパジャマ。そのあまりに無防備な姿を守るためなら、あと何人殺してもいいと、千聖は冷徹に思う。
「コーヒー、淹れるわね。聖菜はトーストを食べて」
「いいよ、今日は私が作るって言ったじゃない。姉さんは座ってて」
聖菜が甲斐甲斐しく動き回るのを見ながら、千聖はスマートフォンの画面を確認した。画面には、天園家の「窓口」から短い暗号メッセージが届いている。
『今夜19時。いつもの裏路地。次の依頼が入った』
千聖の指先が、一瞬だけ止まる。
「姉さん、どうかした?」
「……ううん、なんでもない。バイト先から、シフトの確認」
慣れた手つきでメッセージを消去し、千聖は穏やかな微笑を張り付けた。
その日の午後。千聖は「バイト」へ行くフリをして家を出た。
しかし、向かった先はカフェではない。雑居ビルの地下にある、天園家が所有するトレーニング施設だ。
「昨日の仕事、完璧だったそうじゃないか」
冷ややかな声とともに、一人の男が影から現れた。天園家の現当主の側近、**佐伯**だ。彼は千聖に新しい標的の資料を差し出した。
「次のターゲットは、君たちの家族を陥れた連中と繋がりがある。……やるだろう?」
千聖は無言で資料をひったくった。写真に写っているのは、肥満体の代議士。その裏の顔は、昨夜の男と同じ、子供を「商品」としか見ていない獣だ。
「!!……当然です。それが、私が生かされている理由ですから」
「いい返事だ。だが、気をつけろよ。君の妹、聖菜くんだったか? 彼女が最近、姉の帰りが遅いのを不審に思って、近所の聞き込みをしているという報告が入っている」
心臓が跳ねた。千聖の瞳に、初めて明確な動揺が走る。
「……何?」
「彼女は聡明だ。君が言う『カフェ』なんて存在しないことに、気づき始めているのかもしれない。妹をこの件に巻き込みたくないのであれば、もっとうまく立ち回るんだな」
佐伯が去った後、千聖は暗い部屋で一人、資料を握りつぶした。
自分の手は、すでに真っ黒に染まっている。けれど、聖菜の未来だけは、あの松濤で暮らしていた頃の真っ白なままでいさせなければならない。
その夜、千聖は予定より早く家を出た。
玄関で「行ってくるわ」と告げた時、聖菜はいつも通りの笑顔を見せたが、その目は笑っていなかった。
「……いってらっしゃい、姉さん。気をつけてね」
聖菜のその言葉が、まるで背中に突き立てられたナイフのように重く、冷たく感じられた。千聖は振り返ることなく、夜の闇へと消えていった。
彼女が去った後、聖菜は一人、玄関に立ち尽くしていた。
その手には、姉が昨日着ていた黒いドレスの切れ端が握られている。洗濯機に入れる前に見つけた、小さな、けれど消えない血の跡。
「……嘘つき、姉さん」
聖菜の呟きは、狭いアパートの壁に吸い込まれ、誰にも届かずに消えた。




