3話 家
深く息を吐き、車内で念入りに確認した「カフェ店員」としての自分を再起動させた。
硝煙の匂いは、安物のフレグランスミストで上書き済みだ。
鉄錆のような血の記憶は、意識の奥底にある頑丈な金庫に閉じ込めた。
錆びた鉄の階段を上るたびに、頼りない音が静まり返った夜の住宅街に響く。
かつて住んでいた松濤の家では、厚い絨毯がすべての足音を吸い込んでいた。今は、この軋む音が「現実に帰ってきた」という合図だ。
玄関の鍵を開けると、わずかな隙間から漏れる青白い光と共に、焦燥を含んだ声が飛んできた。
「姉さん! こんな遅い時間まで何をしていたの?」
リビングを兼ねた六畳間に、パジャマ姿の聖菜が立っていた。ちゃぶ台の上には、使い古された数学の参考書が広げられている。
「カフェは23時に終わると言っていたじゃない。もうすぐ午前1時よ!」
詰め寄る聖菜の瞳には、純粋な心配と、隠しきれない不信感が混じっていた。千聖はサンダルを脱ぎ、わざと少し疲れたような笑みを浮かべて、妹の細い肩に手を置いた。
「ごめんね、聖菜。急に棚卸しの手伝いを頼まれちゃって……断れなかったの。ほら、これ。店長からのお詫びの余り物よ」
千聖は、現場からの帰路に24時間営業のスーパーで買ったパンの袋を差し出した。松濤にいた頃なら見向きもしなかったような安価な菓子パンだが、今の二人には立派な夜食だ。
「……また? 姉さん、最近働きすぎだよ。私、別に贅沢なんてしたくない。姉さんと一緒にいられる時間の方が大事なのに」
聖菜はパンを受け取りつつも、納得のいかない様子で唇を尖らせた。その無垢な言葉が、千聖の胸を鋭く抉る。
薄い壁の向こう側
「お腹、空いてない? 何か温かいものでも作ろうか」
「いいよ、私がやる。姉さんはお風呂に入ってきて。なんだか……少し、冷たい匂いがするから」
聖菜の何気ない一言に、千聖の指先がわずかに凍りついた。
(冷たい匂い……)
硝煙か、それとも死にゆく者の体温を奪った冷気か。
贅沢を知っていた頃の自分なら気づかなかった、生活の綻びから漏れ出す死の気配。
千聖は「そうね、夜風に当たったからかな」と短く返し、ユニットバスへ逃げ込んだ。
鏡の前に立ち、漆黒のドレスを脱ぎ捨てる。スリットに隠されていた銃を丁寧に取り出し、メンテナンスキットと共に、シンクの下の奥深くに隠された防水ケースへ収めた。
狭いシャワー室から出る頼りないお湯が、肩にこびりついた緊張を溶かしていく。
しかし、まぶたを閉じれば、先ほど撃ち抜いた男の卑屈な笑みが鮮明に蘇る。
「……ごめんね、聖菜」
湯気に紛れて、誰にも届かない謝罪を呟く。
あの日、すべてを奪われた日から、千聖の時計は止まったままだ。
復讐という名の終着駅に着き、聖菜を本当に安全な場所へ連れて行くまで、この「カフェ店員の姉」という仮面だけは、絶対に剥がすわけにはいかない。
リビングに戻ると、聖菜がインスタントの粉末ココアを二つ、並べて待っていた。
「明日こそは、ゆっくり起きてよね。約束だよ?」
そう言って笑う妹の顔を見ながら、千聖は「わかったわ」と優しく嘘を重ねた。その指先は、まだ引き金を引いた時の感触を、微かに、けれど確実に記憶していた。




