15話 広がる波紋
アパートの狭いリビングに流れる時間は、表面上は穏やかだった。しかし、千聖の胸中には、一度芽生えた違和感が毒のように広がり始めていた。
朝、食卓を囲む聖菜の動作を、千聖は観察せずにはいられない。
聖菜が醤油の瓶を手に取る。その手首に、わずかに覗くテーピングの跡。
「聖菜、その手首……どうしたの?」
千聖が努めて平静を装いながら尋ねると、聖菜は一瞬の迷いもなく、柔らかな微笑みを返した。
「ああ、これ? 最近、タイピングの練習をやりすぎちゃったみたい。腱鞘炎かな、少し痛むから補強してるの」
「……そう。無理しちゃダメよ」
(嘘だ……)
千聖は確信していた。タイピングによる腱鞘炎で、あんなに広範囲に、しかも筋肉を固定するような巻き方をするはずがない。あれは、重いものを支えたり、打撃の衝撃を和らげたりするための巻き方だ。
仮面の裏側
千聖が「バイト」へと出かけた後、聖菜はすぐに準備を整えた。
最近、彼女が受けている訓練は、ナイフ投げや格闘といった物理的な技術だけではない。骨董品店の老人は、彼女に「毒物の調合」と「人体構造」を叩き込んでいた。
「いいか、聖菜。お前は千聖のような天賦の体躯も、天園家で長年鍛えられた筋力もない。ならば、知恵を使え。最小の力で最大の結果を出すのが、お前の戦い方だ」
地下訓練場。聖菜は、倒した人形の頚動脈を正確に模したポイントに、医療用メスを模した練習用ナイフを突き立てる。
「……はい」
聖菜の瞳には、以前のような迷いはない。
彼女は、自分がデータ分析で姉をサポートするだけでは不十分だと感じ始めていた。万が一、現場で姉が窮地に陥ったとき、自分も現場に介入し、姉を救い出せるだけの「実力」がなければ、共犯者とは呼べない。
その日の午後。聖菜に与えられたのは、ある中堅政治家の「行動分析」という実戦形式の課題だった。
この政治家は、かつて両親の会社が不当な捜査を受けた際、検察側に圧力をかけた疑いがある人物の一人だ。
聖菜はカフェでノートPCを開き、その政治家の隠し口座の動きと、深夜の密会場所を特定していく。
(この人は……死ぬ必要まではない。でも、姉さんが動くための『道標』にはなってもらう)
闇で重なる足跡
その夜。千聖は、佐伯から提示された「新たなリスト」を見て驚愕した。
そこには、自分が独自に洗っていた「両親の仇に繋がる人物」のデータが、非の打ち所のない完璧な形でまとめられていた。
「これ……どこの情報班が?」
『……最近、やけに仕事が早い外部の協力者がいてな。天園家でも重宝されている』
佐伯は、珍しく満足げな声を出す。
『今夜、そのデータにある場所へ向かえ。標的の逃走経路はすべて封鎖済みだ。お前は、ただ引き金を引けばいい』
千聖は、漆黒のドレスに身を包み、夜の街へ駆け出した。
指定されたビル、指定された時間。
すべてが完璧に整えられた戦場。千聖は、まるで見えない誰かに守られているような感覚に、強い恐怖を覚えた。
(誰が……。誰が、私のためにこんなことを?)
屋上から狙撃のポイントを探る千聖。その視界の端、向かい側のビルの窓に、一瞬だけ見覚えのある人影が映った気がした。
「……っ、聖菜!?」
千聖は思わずスコープから目を離した。
だが、そこにはただの夜の街が広がっているだけだった。
姉を想うがゆえに、自ら毒を喰らう妹。
妹を想うがゆえに、その変化を認めたくない姉。
二人の距離は、同じ目的を追い求めるほどに、取り返しのつかない形で歪み始めていた。




