16話
深夜の静寂が漂うアパート。千聖は、重い足取りでリビングの扉を開けた。
任務は終わった。完璧な情報提供のおかげで、一度も危機に陥ることなく標的を排除できた。しかし、千聖の心はかつてないほどに波立っていた。
(あの向かいのビルにいたのは、本当にただの見間違い……?)
リビングでは、聖菜が机に向かって眠っていた。
傍らには、ページが開かれたままの数学の参考書。その光景は、どこからどう見ても「勉強中に寝落ちしてしまった健気な妹」そのものだ。
千聖はそっと聖菜の肩に手をかけ、ベッドへ運ぼうとした。その時、聖菜のパジャマの袖から、**ひやりと冷たい金属**が床に滑り落ちた。
「……っ!」
千聖は息を呑んだ。
床に転がったのは、プロが使うような医療用のメス。そして、聖菜の手のひらには、ペンだこではない、**銃のグリップやナイフを握り込んだ者に特有の硬いマメ**ができていた。
千聖は、震える手で眠る妹の顔を見つめた。
聖菜のまつ毛がわずかに震える。起きているのか、それとも悪い夢を見ているのか。
「……聖菜。あなた、何を……」
その呟きは、沈黙に吸い込まれた。千聖はメスを拾い上げると、自分のポケットに隠し、何事もなかったかのように聖菜を抱き上げた。
翌朝。聖菜はいつものように「姉さん、おはよう」と笑った。
その瞳の奥を、千聖は射抜くような視線で見つめ返す。
「聖菜。昨日の夜、何か探し物をしなかった?」
「え? ううん、ずっと勉強してたけど……どうしたの?」
聖菜の返答は淀みない。あまりに完璧な演技。
千聖は、ポケットの中にあるメスの鋭い感触を確かめながら、決意した。これ以上、この子をこの世界に踏み込ませてはいけない。
「聖菜、今日……バイトが休みになったから、久しぶりに外で食事しない? 松濤の頃によく行った、あのお店に似た洋食屋を見つけたの」
「……ごめんね、姉さん。今日はどうしても外せない用事があるの」
聖菜は、申し訳なさそうに眉を下げた。
「図書館で、友達と調べ学習の約束をしちゃって」
(嘘よ。あなたにそんな友達はいない。……私たちから、すべてが奪われたあの日から)
千聖は何も言わずに、聖菜を送り出した。
そして、彼女が角を曲がるのを確認すると、漆黒のジャケットを羽織り、妹の「追跡」を開始した。
聖菜が向かったのは、図書館ではなかった。
港区の外れにある、廃棄されたボウリング場。そこは、天園家が下っ端の構成員を訓練するために使う非公式の練習場だった。
千聖は気配を消し、キャットウォークから下の様子を覗き込んだ。
そこで彼女が目にしたのは、信じられない光景だった。
数人の屈強な男たちを相手に、聖菜が踊るように立ち回っていた。
彼女は姉のような圧倒的な筋力はない。しかし、敵の重心の崩れを見逃さず、関節や急所を、あの日床に落ちていた「メス」で正確に切り裂いていく。
「……甘い。次!」
聖菜の声が響く。それは、千聖すら聞いたことのない、鋭く冷酷な響きだった。
訓練を終えた聖菜は、肩で息をしながら、傍らで見ていた老人に向かって言った。
「……これで、姉さんの『掃除』に同行させてもらえますか。もう、画面越しに見てるだけじゃ、限界なんです」
「フン……。いいだろう。今夜、千聖に下される任務に、お前を『観測員』として付ける」
キャットウォークの上で、千聖は絶望に目の前が暗くなるのを感じた。
自分が守りたかった「光」が、自分と同じ「闇」に染まり、あろうことかそれを自ら望んでいる。
(止めてみせる。たとえ、あなたに嫌われても)
千聖は、腰の銃を強く握りしめた。
今夜、二人の姉妹は、互いが「掃除屋」であることを知らぬふりをしたまま、同じ現場で対峙することになる。




