14話 疑い
かつての聖菜は、姉が少しでも帰りが遅くなれば、玄関の三和土で膝を抱えて待っているような少女だった。「どこに行っていたの」「危ないことはしていない?」と、幼い正義感と姉への執着から問い詰めてくるのが日常だったのだ。
しかし、ここ数日。聖菜は千聖が深夜に帰宅しても、何も聞かなくなった。
「おかえりなさい、姉さん。お風呂、沸いてるよ」
リビングでタブレットを操作していた聖菜が、穏やかに微笑む。その様子には不自然なほどの落ち着きがあり、以前のような執拗な追求は微塵も感じられない。
(……おかしい)
千聖は、脱いだコートの襟を握りしめた。
妹が自分を信じてくれているのなら、それは喜ばしいはずだ。だが、この静寂は「信頼」というよりは、何かを「受容」してしまった者の冷たさに似ていた。
「聖菜、最近……あんまり、私のこと聞かなくなったわね。バイトのこととか」
「だって、姉さんが頑張ってるのは見てればわかるもの。私が騒いでも、姉さんの疲れが増えるだけでしょ?」
聖菜は画面から目を離さず、淡々と答える。その指先が、流れるような動作でデータを処理していることに、千聖は気づかない。
翌朝、千聖が家を出た後。
聖菜が向かったのは、あの店の地下にある秘密の訓練場だった。
「……遅い。もう一度だ」
老人の冷徹な声が響く。
聖菜は荒い息をつきながら、木製の標的に向かってナイフを投じた。
**ドスッ。**
刃は中心から大きく逸れ、壁に突き刺さる。
「情報分析の才能は認めるが、現場に出るなら体技が足りん。千聖は15歳で地獄を見た。お前にその覚悟があるのか?」
「……あります」
聖菜は震える手で、再びナイフを手に取った。
松濤でピアノを弾いていた繊細な指先は、今やマメだらけになり、数日間の訓練で全身は痣だらけだ。
「姉さんは、一人で戦いすぎている。……もし姉さんが標的を仕留め損ねた時、背後を狙う奴を消せるのは、私しかいない」
聖菜の脳裏には、埠頭で見た姉の孤高な後ろ姿が焼き付いている。
自分はもう、姉さんの「守られるべき重荷」ではいたくない。姉さんの盾になり、あるいは獲物を追い込む猟犬になりたい。
その夜。
千聖は任務を終え、重い体を引きずって帰宅した。
鏡の前で顔を洗おうとして、ふと、洗濯カゴの中にあった聖菜の長袖シャツが目に留まった。
何気なく手に取ると、袖口にわずかな**「湿布」の匂い**と、**「鉄錆」の匂い**が混じっていることに気づく。
(聖菜……? 怪我をしているの?)
千聖は心臓の鼓動が早まるのを感じ、寝室へ向かった。
毛布にくるまって眠る聖菜の寝顔は、かつての幼い頃と変わらないように見える。しかし、その枕元には、独学用の数学の参考書に紛れて、見慣れない「解剖学」の専門書が置かれていた。
「……まさか」
千聖は、その可能性を打ち消すように首を振った。
聖菜が自分の後を追って闇に触れることだけは、何があっても避けなければならない。たとえ自分の手がどれほど血に染まろうとも、妹だけは、両親が愛した「聖菜」のままでいさせなければならないのだ。
だが、千聖の知らないところで、聖菜の「牙」は確実に、そして鋭く研ぎ澄まされていた。
「姉さん、おやすみなさい」
寝たふりをする聖菜の唇が、音もなく動く。
二人の間に流れる沈黙は、もはや安らぎではなく、互いを欺き合うための防壁へと変わりつつあった。




