12話 覚悟
千聖がアパートに辿り着いたのは、夜が白み始める直前だった。
階段の軋む音を殺し、息を潜めてドアを開ける。室内は静まり返り、聖菜の規則正しい寝息が聞こえてくる。
千聖は暗闇の中で深く安堵の息をついた。
(気づかれていない……よかった)
洗面所で、返り血がついたドレスを脱ぎ捨て、入念に手を洗う。爪の間に入り込んだわずかな赤を、ブラシで執拗にかき出す。鏡に映る自分の顔は、死線を越えた直後のせいか、幽霊のように青白い。
彼女は、自分が脱ぎ捨てたドレスのポケットを弄り、血の気が引いた。
「……スマホがない」
どこで落としたのか。倉庫街か、それとも途中の道か。
GPSで追跡されるリスクを考え、千聖はすぐに予備の端末を起動しようとしたが、ふと視線を落とした。
玄関の靴箱の上に、自分のスマートフォンが「置いて」あった。
「……え?」
千聖は凍りついた。昨夜、確かに家を出る時に忘れた自覚はある。だが、なぜそれがここにあるのか。聖菜が気づいて、そこに置いたのか。だとしたら、彼女はどこまで見たのか。
千聖は、寝室で眠る妹の背中をじっと見つめた。
聖菜は微動だにせず、眠りに落ちているように見える。
「……考えすぎよ。聖菜が気づいて、家の中で見つけて……ここに置いたのね」
そう自分に言い聞かせ、千聖は冷え切った布団に潜り込んだ。
翌朝。聖菜はいつも通りに起き、朝食の準備を始めた。
千聖は、昨夜の動揺を隠しながら食卓につく。
「あ、姉さん。スマホ、玄関に置いてあったよ。バイトに行くとき忘れてたでしょ?」
聖菜は、卵焼きを皿に盛りながら、明るい声で言った。その表情には、一点の曇りも、恐怖の破片も見当たらない。
「あぁ……そうなの。助かったわ、聖菜。どこで失くしたかと思って焦っちゃった」
「もう、しっかりしてよね。姉さん、最近疲れすぎだよ」
聖菜はそう言って笑い、千聖の向かいに座った。
その屈託のない笑顔を見ながら、千聖は心から安堵した。
(よかった)
だが、千聖は見ていなかった。
聖菜がテーブルの下で、エプロンの裾を白くなるまで強く握りしめていることを。
数日後。千聖が再び「仕事」で家を空けた午後。
聖菜は、独学で身につけた情報収集能力を駆使し、ある場所へと向かっていた。
それは、かつて松濤の家が差し押さえられた際、姉を連れ去っていった車に刻まれていた紋章――天園家の息がかかった、古びた店だった。
向かったのは、昨日訪れたあの古びた骨董品店だ。
店の奥、埃っぽいカーテンの向こう側に、天園家の連絡員である老人が待っていた。
「……本気なんだな、聖菜。千聖に知られれば、私の首も飛ぶぞ」
「わかっています。だから、姉さんには絶対に悟らせません。……指示を」
聖菜は老人の前に、一台のノートパソコンを広げた。
学校に通っていない彼女にとって、独学で身につけたプログラミングとデータ解析だけが、今すぐに提示できる「武器」だった。
「掃除屋に必要なのは、引き金を引く技術だけではないはずです。標的の足取りを掴み、警察の介入を阻み、完璧な逃走経路を確保する……。私は、姉さんの『眼』になります」
老人は、聖菜が差し出した画面を見て、息を呑んだ。
そこには、昨夜千聖が実行した任務の周辺監視カメラの映像が、天園家のサーバーを介さず、独自のルートでハッキング・解析されていた。
「これ……お前さんが一人でやったのか?」
「姉さんの命がかかっていますから。これくらい、当然です」
聖菜の瞳には、かつて松濤で父の蔵書を読み漁っていた頃の知的な輝きと、復讐という猛毒に侵された冷徹な光が共存していた。
守られるだけの日は終わった
その夜。千聖は天園家のセーフハウスで、次なる標的の資料を読み込んでいた。
最近、なぜか情報の精度が上がっている。今までは自分で裏取りをしなければならなかった細かい逃走経路や、ターゲットの隠れた愛人の住所までが、完璧な形で提供されているのだ。
(……佐伯さんの手配かしら。でも、あんなに几帳面な人だったかしら)
千聖は首を傾げながらも、提供された「最適解」に従って準備を進める。
それが、家で「姉さんの帰りを待っている」はずの、最愛の妹の手によるものだとは露ほども思わずに。
一方、アパートの自室で。
聖菜は暗い部屋の中、青白いモニターの光に照らされていた。
「姉さん……これでもう、後ろから撃たれたりさせないよ」
キーボードを叩く指先に、迷いはない。
千聖が銃で闇を切り開くなら、聖菜は情報で闇を支配する。
二人は互いに「嘘」をつきながら、同じ復讐という名の迷宮へ、より深く足を踏み入れていく。




