10話 狙われる
埠頭の倉庫街は、潮の香りと錆びた鉄の匂いが混じり合う、死の静寂に包まれていた。
重厚なコンクリートの壁が月光を遮り、巨大な迷路のような影を作っている。
千聖はクレーンの影に身を潜め、ターゲットの到着を待っていた。
黒塗りの車が二台、低い排気音を響かせて倉庫の前で止まる。中から出てきたのは、商社幹部の男とその側近たちだ。
「……位置につきました。これより観測を開始します」
耳元のインカムに、氷のような声を吹き込む。
男たちはコンテナの影で、何やら大きなトランクを運び出していた。松濤の家を壊し、父を絶望へ追いやった組織の、その末端に連なる男。
千聖はゆっくりと銃を抜き、消音器のねじ込みを確認した。
心拍数は一定。感情は、冷たい海の下へ沈めてきたはずだった。
その頃、二人のアパートでは。
家を出たはずの聖菜が、一度玄関へ戻っていた。姉が「バイトの必需品」と言っていたはずの**スマートフォン**が、靴箱の上に置き忘れられているのに気づいたからだ。
(これがないと、連絡も取れないし、お店の人も困るんじゃ……)
一度は「どこにも行かない」と約束した聖菜だったが、姉の困った顔を想像すると居ても立ってもいられなくなった。
スマートフォンを手に取ると、スリープ画面に一通の通知が表示される。
『19:00 芝浦埠頭 D-4倉庫』
「代官山」のカフェとは、正反対の場所。
その簡潔すぎる無機質な文字列を見た瞬間、聖菜の胸にざらりとした不安が広がった。
「……お姉ちゃん、本当にカフェにいるの?」
聖菜は姉のスマホを握りしめ、夜の街へと駆け出した。
最寄りのバス停へ向かう足取りは、かつてピアノの発表会に向かう時のような、得体の知れない緊張感に支配されていた。
倉庫街の闇。千聖は、ターゲットの男が部下から離れ、一人でトランクを確認し始めた瞬間を見逃さなかった。
音もなくコンテナの上を移動し、真上から銃口を向ける。
だが、引き金に指をかけた瞬間、背後の暗闇で**「カチリ」**という微かな金属音が響いた。
(……っ!)
千聖は反射的に身を低くし、横に跳んだ。
**シュッ。**
消音された弾丸が、先ほどまで千聖の頭があった場所を通り過ぎ、コンテナの鉄板に火花を散らす。
「……動くな、掃除屋」
闇の中から現れたのは、千聖と同じような「掃除屋」の風貌をした二人組の男たちだった。彼らの目的は、ターゲットの護衛ではない。天園家が送り込んでくる刺客を、逆に「掃除」することだ。
「あいにくだが、大河原は君たちの飼い主を信用していなくてね。別の『保険』を雇っていたんだよ」
千聖は舌打ちし、コンテナの迷路の中へ滑り込む。
一対二。それも相手は訓練されたプロだ。
「……状況変更。敵対勢力と接触。至急、バックアップを」
インカムで佐伯を呼ぶが、返ってくるのは不気味なノイズだけだった。
通信妨害。
完全に嵌められたのだ。天園家の内部情報が漏れているのか、あるいは自分自身が「試されている」のか。
千聖は狭いコンクリートの隙間に身を潜め、荒くなる呼吸を整えた。
自分を狙う男たちの足音が、左右から挟み込むように近づいてくる。
(逃げ場はない……。やるしかない)
千聖は予備の弾倉をポケットから取り出し、冷たい銃を握り直した。
自分がここで死ねば、家で待つ聖菜はどうなるのか。あの子に「偽りの平和」を与え続けるための嘘も、ここで途絶えてしまう。




