9話 秘密
千聖がアパートのドアを開けたのは、午前2時を回った頃だった。
心臓の鼓動はまだ速いが、顔には「深夜まで働いた疲れ」という仮面を完璧に貼り付けている。
「……ただいま」
返事はない。狭いリビングの明かりは消えていた。
千聖が安堵と罪悪感の混じった溜息をつき、靴を脱ごうとしたその時。
「……遅かったね」
暗闇の中から、低く、湿った声が響いた。
ソファの端で膝を抱えて座っていた聖菜が、ゆっくりと顔を上げる。その瞳は赤く腫れ、頬には乾いた涙の跡が白く残っていた。
「聖菜……起きていたの? ごめんね、今日は本当に上がれなくて……」
千聖が近寄ろうとすると、聖菜の体が目に見えて強張った。その拒絶の反応に、千聖の足が止まる。
「お姉ちゃん。……その腕」
聖菜の視線が、千聖の右腕に注がれる。
千聖はハッとして自分の腕を見た。ドレスの袖が、先ほど非常階段を駆け上がった際に擦れたのか、わずかに綻び、下層の皮膚には赤い線が走っていた。
「……あぁ、これ? カフェのバックヤードで、棚の角にぶつけちゃって。ドジよね」
「……そうなんだ」
聖菜はそれ以上、何も聞かなかった。
先ほど新宿の闇で自分を組み伏せた「怪物」の腕にも、同じ場所に傷があったのではないか――。そんな疑念を口にする勇気は、今の聖菜にはなかった。もしそれを指摘して、目の前の優しい姉が「怪物」に変貌してしまったら、自分には帰る場所がなくなってしまうからだ。
鏡合わせの孤独
翌朝、二人の間に会話はほとんどなかった。
千聖は手際よく朝食を作り、聖菜はそれを黙々と口に運ぶ。
トーストを噛む乾いた音だけが、かつて松濤の食卓を彩ったピアノの音色の代わりに部屋を満たしていた。
千聖は、聖菜が自分の持ち物を調べたことに気づいている。
聖菜は、姉が自分に「プロの嘘」をついていることに気づいている。
互いの手の内を察しながらも、決定的な一線を越えないための、危うい沈黙。
「聖菜。……今日は、家でゆっくりしていなさい。最近、物騒な事件も多いみたいだから」
千聖が玄関で靴を履きながら言うと、聖菜は背中を向けたまま答えた。
「……うん。どこにも行かないよ。お姉ちゃんが言う通りにする」
その従順な響きが、逆に千聖の不安を煽る。
しかし、千聖には立ち止まる時間はなかった。今夜、商社幹部――父の死に関わった可能性のある男を「掃除」する任務が控えている。
処刑の準備
千聖が向かったのは、天園家が管理するセーフハウスの一つだった。
そこには、今夜の仕事に使う「道具」が揃えられている。
「顔色が悪いな。昨夜、妹君に情を移しすぎたか?」
部屋の隅で、佐伯がナイフを研ぎながら嘲るように言った。千聖は彼を無視し、支給された新型の自動拳銃を手に取った。スライドを引き、薬室を確認する。金属が噛み合う冷たい音だけが、今の彼女の心を落ち着かせる唯一のメロディだった。
「……仕事に支障はありません。ターゲットの動線は?」
「例のクラブから出た後、人通りのない埠頭の倉庫街へ向かう。密輸ルートの確認だそうだ。……目撃者はいない。掃除にはうってつけの場所だ」
千聖は銃を腰のホルスターに収め、鏡を見た。
そこには、妹に見せる微笑みの欠片もない、虚無の瞳をした「道具」が立っていた。
(これでいい。私が闇を引き受ける。聖菜、あなたはその光の中にいればいいの)
千聖は黒いライダースジャケットを羽織り、獲物が待つ夜へと、再びその身を投じた。




