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弐拾壱

「確かに私は桂木春香ですが、あなたはどなたでしょうか」


 春香が名も知らぬ人、と対応すれば息を呑む姉に対し、妹は困惑した表情で姉と春香を交互に見比べる。

 姉が黙っているので妹が姉の様子を窺いながらも春香に視線を向けた。


「あの、姉のことをご存知無いのでしょうか」


「知りません」


 春香から放たれる鰾膠も無い(にべもない)返事。


「ですが」


 妹は続けようとして姉に袖を引かれ黙る。

 姉が話の穂を継ぐのかと思ったがそうでもないようで、沈黙が訪れる。春香が息を一つ吐き出すと、姉の方が身を震わせた。


「私はあなた方を存じ上げません。それにも関わらず一方的に我が家を訪れ、用件を口にせず黙り続ける。申し訳ないのですがお引き取りいただけますか」


 春香は自分で言っていて実は自分で驚いている。こんなに冷たく素っ気無い態度を自分が取れることに。でも、と冷静にも考えられている。目の前の女性が、虐められていたわけじゃないけれど、居ない者として扱われていたあの頃に出会っていた人なら。

 怖くて声が出ない、とか。

 また同じことになったらどうしよう、とか。

 そんなことが脳裏に過ぎっても。


 私は私を大切にしてくれる両親が居るから。


 怖くても無視されても居ない者として扱われても、前へ進もう。


 春香は自分を鼓舞する。

 テーブルの下の見えない部分では、震える手を抑え込むのに精一杯だし、帰れ、と言う言葉だって声が震えていないかと思う。それでも。もうあの頃の自分とは違う。あの頃だったら言えなかったかもしれない。震えたままで心細かったかもしれない。

 でも、嫌な気持ちは消せないけれど、少しだけあの頃より自分が大人になって。強くなったかは分からないけれど、ただ震えて身を縮こまらせるだけじゃなくなったから。


 言おう。

 この女性があの頃の自分のことを、どんな風に扱っていたのか、知る気もないけれど。あの頃の春香を自分で救うためにも。

 はっきりと。


「もう一度、お伝えします。一方的にやって来て黙ったままならお帰りください」


 喉がヒリついて、きちんと出せただろうか。声が震えていて、相手に聞こえなかったのではないか。それでも春香は、精一杯口にした。虚勢だろうと。

 あの頃の春香が今の春香を見て、泣き笑いを浮かべて「強くなったね、良かった」と言った気がする。そんなことは現実に無くても。少しはあの頃の自分を今の自分が救ってあげられたような、そんな気持ちになれた。

 目の前の女性が、あの頃の春香をどんなふうに扱っていたとしても。

 あの頃の春香を知らない、とは言わせない。だって春香の記憶に無いのに向こうは春香を知っているなんて、その頃でしかないはずだから。


「あの、桂木さん、覚えてないって言っていたけど。小学校でクラスは隣のクラスだったんだけど」


 それから小さく名乗った女性。ユキという名前の音を聞いて、蓋をしていた記憶がまた一つ開く。確か、幼稚園の時に春香のことを疎外する切っ掛けとなった出来事を引き起こした、トモという名前の音を持った女の子のグループに居た子だった。

 トモから春香のことを聞かされ、ヒソヒソ話を春香に見せつけるようにしながら、けれど春香と視線が合いそうになれば逸らして居ない者として扱っていた人たちのうちの一人。


「覚えてませんね。私と親しかったのですか」


 少し思い出したけれど、春香は敢えて覚えてない、と言い切った。春香が覚えてない、と言ったことで安堵の顔を浮かべたことを春香は見逃さない。だから、さらに親しかったですか、と尋ね返した。

 ユキの妹は春香が覚えてないことに、小学校の頃じゃそういうこともあるのかな、というような顔をしている。姉の方は覚えているのに。けれど、続く春香の問いかけに、姉をチラリと見やった。


 ここまで春香を訪ねて来るくらい、姉は春香のことを忘れていないのだから、少なくとも姉の方は春香と親しいと思っているはずだ、と妹は考えて、チラリと姉を見たのだが。

 顔色が蒼白な姉を見て、親しいはずの相手にこんな顔をするなんて、と驚く。もしや、春香に忘れられていることがショックなのか、と妹は姉を案じてまた黙ってしまった姉の代わりに妹が口を開く。


「あの、桂木さん、は、姉のことを覚えてない、と言いましたが。本当でしょうか。姉は少なくとも、桂木さんに会いたい、会わなくちゃ、と言ってこの家を訪ねて来たのですが」


 春香は姉思いなのだろう、妹に視線を向ける。


「ユキさん、というお名前はもしかしたら聞いたことがあるかもしれないですが、覚えてません。私に会いたい、会わなくちゃならない理由をお姉さんはあなたに話しましたか」


 ユキの妹には、何かされていた記憶は無いので、春香はユキに対するよりもまだ冷静に言葉を紡げる。春香の問いに妹の方は「いいえ」と短く否定する。


「でも、引き篭もりだった姉が、あなたには会わないといけない、と思い詰めたような顔で部屋を出て来て、そしてこちらに久しぶりに来たので、桂木さんと姉は友人だったのか、と思ったんです」


 引き篭もりだった、という一言に春香は口を引き結ぶ。そんなプライベートなことを妹とはいえ、軽々に口にしてもいいのか、という気持ち。そして、それなのに春香に会いたいとやって来たユキの用事がなんなのか、という警戒心が春香を包んだ。

お読みいただきまして、ありがとうございました。

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