壱
桂木春香。十九歳。山口県のとある市に生まれた。春真っ盛り。花が咲き誇って花々の香りが満る季節に生まれたからという理由で名付けられた、と父親から聞いた時は分かりやすいけれど、安直なことにちょっと落ち込んだのは、小学校で自分の生い立ちを調べる宿題の時のこと。
後から母親に
「それは照れ隠しよ。確かに春真っ盛りで生まれてきたあなただけど、お父さんはね、花々のように可愛く、でも雨に打たれても真っ直ぐ育つ花の逞しさのように心根の真っ直ぐで逞しい子になって欲しいって言っていたわ。香りの字はね、芳しい。つまり良い匂いでしょう? そこから品があるという意味も持つのよね。品があるというのは、誇り高いという意味にも通じる。誇り高いって難しいかもしれないけれど、そうねぇ、理不尽なことに合っても折れない強さ、みたいな感じかしら。お母さんも上手く言えないわね。でも嫌なことは嫌って言って良いと思うの。そういう強さを持つ子に育って欲しいって思ったのよ。それがあなたの名前」
細かく意味を教えてくれた母親は、きっとその時には既に春香が友達から仲間外れにされて、一人ぼっちだったことを知っていたのかもしれない。
春香は、本人が欲しいと思っていないのに関わらず、物心ついた頃から他人には見えないモノを見てしまう人間だった。
それに気づいたのは、幼稚園の頃。両親が近所で亡くなった人の葬儀に出た日のこと。
「パパ、ママ、こわい、こわい。ヤダ。こないで。うしろのくろいのヤダ、ヤダぁあああ」
葬儀時間は春香が幼稚園に通っている時間帯だったため、二人揃って参列したのだが、喪服のままで春香を迎えに行ってしまったことで、春香が普段とは何か違う雰囲気を感じ取って泣いたのだろう、と両親も周りの保護者も幼稚園の先生たちも思った。
今思えば、そう勘違いしてもらえたのは幸いだったのかもしれない。
泣きながら二人を拒否する春香は、それでも父親に抱き上げられて宥められると大人しくなり、そのまま泣き疲れたように眠りについた。
本人も、両親も誰もがそう思っていた。誰も気づかなかったが、真相は違う。
春香はこのとき泣き疲れて眠ったのではなく、抱き上げられた父親の背後に居る怖いモノを見たくない、という自衛本能が働いて気絶したように意識を失ったのである。
そしてこの日を境にして、春香の状況は一変した。
人には見えないモノが見える日々を送ることになってしまったのである。
その日、意識を失った春香は帰宅して目覚めた後、清めの塩で春香の言うところの怖いモノを追い払った両親を見て安堵した。あれは夢だったのだ、と。
だが、それは始まりに過ぎなかった。
両親の居るところで怖いモノを何度も見て泣き叫ぶようになり、両親を困らせた。春香の話をよく聞いてみた両親は、直ぐに気づいた。
この子は人には見えないモノを見るのだ、と。
春香の父親の母親。つまり春香の祖母もそういった人だったから。春香の言葉を二人は否定しなかった。けれど、彼女を守るために春香に言い聞かせた。
「春香。あなたは、他の人に見えてないモノを見ているの。他の人には見えていないから、見えたことは言わないでね。言うと、みんなが嫌な気持ちになって怖い気持ちになって、春香を嫌うからね」
母親に言われた春香は、みんなを怖がらせたくない、と幼心に強く思った。またみんなから嫌われたくない、とも思ったが。
抑々、みんなは、春香の見えるモノの“何が”見えないのかが分からず、取り敢えず、見えた黒いモノについて、あっちにいる、こっちにいる、と両親に教えていた。両親にしか言わなかったものの、常に“何か”に怯えたような顔をし、楽しく歩いていたはずなのに突然立ち止まって方向転換して怖いものを見たとばかりに夢中で逃げ出す姿を度々見かければ、噂にならざるを得なかった。
幼稚園からそれである。
小学校に入学してからも同じようなことをしていれば、その先は言わずもがな。
「あの子はおかしな子。あの子は変わった子。関わると自分もおかしくなる」
子どもというのは、時に残酷なまでに正直だ。
そして、善悪の区別が付かないことが多い小さなうちは、尚酷い。
いや、善悪の区別が付いても酷いことは変わらない。
自分たちとは違う存在に対して、攻撃的になったり排除行動を取ったり、というのは、大人も子どもも変わらないもので。
小学生の時から春香は、虐めの対象にはならなかったものの、関わると何かが起こる、とでも言うように避けられる存在になった。
グループワークなどは、嫌々組まれることなどほとんどで、学校の先生たちも無理やり仲良くしなさい、と強制するわけにもいかず、困惑していた。
三者面談などで春香と春香の両親の気持ちや考えを聞いて対処を練る先生も居たが、劇的に変化が起こることもなく。
そのまま小学校を卒業し、中学校へ。そして高校。中学も高校も小学校から一緒の子たちが居たものだから、春香の環境は変わることがなく。
虐められないが、最低限の関わりしか持ってもらえない学校生活を送った。
とはいえ、春香もただ黙ってその環境に耐えていたわけではなく、みんなに笑顔で挨拶をする、とか、困っていた子に手助けをする、とか、やれることはやってみた。それでも避けられる環境であったのだから、もうそれは集団心理が働いたのかなんなのか。
学校を休んだこともあった。
転校したい、と親に泣きついたこともあった。
辞めたい、と暗い顔で呟いたこともあった。
両親は全て肯定してくれた。
それが春香には救いだった。
これが「虐められていないのなら問題無い」とか「頑張って行けば何とかなる」とか根拠の無い励ましでも受けていたら、春香は壊れてしまっていたかもしれない。
でも、両親はただ只管に話を聞いて頷いてくれた。
だからこそ、春香は次はまた頑張ってみよう、と思い直すことが出来た。
結果が伴わなかっただけで。
そして、春香は心機一転と言うのか、逃げ出したと言うのか。
都内の大学に通い始め、そろそろゴールデンウィークが近づいて来た、という頃合いで、とても恐ろしい経験をした。
お読みいただきまして、ありがとうございました。




