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第五章 魔王の遺産と幽霊の算譜 「丞相を継ぐ者」三国志向朗伝  作者: こくせんや
第四章 銅貨と紙片の弥縫録《びほうろく》 

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結|臨沮《りんじょ》の|春風《しゅんぷう》

1.桃源(とうげん)安寧(あんねい)


初平(しょへい)三年(一九二年)、春。


荊州(けいしゅう)の山々に抱かれた小さな県、臨沮(りんしょ)の街道に、数台の馬車がゆっくりと入ってきた。

章陵(しょうりょう)での臨時の勤務を終え、任地へと戻ってきた向朗(しょうろう)(巨達)と、その随員(ずいいん)となった崔州平(さいしゅうへい)、そして(さい)家の従者たちである。


街を包んでいたのは、染み渡るような深い静謐(せいひつ)であった。


街道沿いの柳は淡い緑の芽を吹き、柔らかな微風に揺れている。田畑では農夫たちが牛を追い、隣り合う郷党(きょうとう)の間では相扶共助(そうふきょうじょ)の精神が息づいている。

外の世界では董卓(とうたく)が放った悪銭が経済を焼き尽くし、襄陽(じょうよう)の地では袁術(えんじゅつ)孫堅(そんけん)の野望がぶつかり合い、孫堅は討たれ、大軍が飢えに喘いで瓦解したばかりであった。


吹き荒れる「外」の冬嵐に対し、この臨沮だけは、まるで春の陽だまりの中に守られた桃源郷のように穏やかであった。


その安寧を守り抜いたのは、傍目にはのんびりと本を眺めているだけの「本好きの小役人」にしか見えない向朗が、数ヶ月前に残した極めて事務的な一言であった。


「あー……。董卓様の新しい小銭ですが、あれは街の中に入れずに、街の外に作られた取引所と仮の市場だけで扱い、街の中に入れてはなりませんよ。面倒な汚れは、最初から中に入れないのが一番ですから」


その水際対策が、結果としてこの小さな街を未曾有の物価高騰から守り抜いている。民たちは今日も、価値の変わらぬ五銖銭(ごしゅせん)や現物の米を手に、平和に、かつ適正に日々の取引を続けている。自分たちが嵐のような情勢から無傷でいられるのは、向朗の「小銭の処理方針」の結果であることなど、誰も気にしていない。


だが、その「静かな数ヶ月」を一人、戦場のような心地で過ごした男がいた。


「お、お帰り、巨達くん……。いや、本当によく戻ってきてくれた……」


県庁の門前で向朗を出迎えた若き臨沮県長・呉宏(ごこう)は、この数ヶ月で随分と痩せこけたように見えた。


向朗が不在の間、呉宏は「やっと私の番だ」と意気込んで執務に当たった。だが、現実は残酷であった。


向朗がいれば一刻で終わるはずの苦情処理が終わらず、次から次と溢れていく。言い争う商人と農民との間で、解決策がなかなか思い浮かばない。

そして、彼が欠伸をしながら片付けていた徴税の計算が合わず、七日七晩頭を抱えた。

さらに、街の外で徹底させた「小銭の流入阻止」を維持するため、連日のように市場へ足を運び、商人たちの不満をなだめ、帳簿の整合性を保つ――。


向朗が「何もしていない」かのように涼しい顔でこなしていた日々の業務が、どれほど異常な密度と手際で処理されていたか。呉宏は、身をもってそれを思い知らされたのである。


「あ、呉県長。お疲れ様です。……なんだか、少しお疲れのようですが」


「……ああ、少しね。いや、何でもない。事務仕事というものは、思いのほか……奥が深いものだと痛感していただけだよ」


呉宏は引き攣った笑みを浮かべ、震える手で懐から一通の書状を取り出した。


それは大叔父である蒯越(かいえつ)(異度)から届いた、極秘の指示書であった。


『向朗の動向を、以前にも増して厳重に監視せよ。奴は章陵において、紙片一枚で袁術の軍勢を霧散させ、猛将・孫堅を死地へと追い落とした。……あれはもはや、ただの事務屋の領分を超えている。くれぐれも目を離すな』


呉宏は、目の前でのんびりと荷解きをしている向朗を盗み見た。


(紙切れ一枚で猛将を殺し、大軍を壊滅させた、だと?なんだそれは……。何をどうすれば、そんな大叔父の指示になるというのか。)


そんな不気味な人物には、どうしても見えなかった。


「……巨達くん。蒯越(異度)様から聞いたよ。君が章陵で、信じられぬような策を講じて危機を救ったと」


呉宏の問いに、向朗は荷車から大事そうに白紙の束を取り出しながら、どこ吹く風で答えた。


「あー……。異度様は、少し計算を大袈裟に捉えすぎなんですよ。僕はただ、章陵の商人達が作りました、お札の有効期限を帳簿に書き込んで、期日が来たらその通りに処理しただけです。特に何もしていませんよ。……それより県長、報告書の印が溜まっていませんか? 早く片付けて本を読みたいのですが」


「……。ああ、そうだね。……変わらぬ君で、安心するよ」


呉宏は、力なく頷いた。


大叔父の懸念も理解できるが、実際にこの男と二年間過ごしてきた呉宏には分かる。


この男に天下を覆すような野心など欠片もない。ただ、自分の周囲を「事務的に正しく」整えたいだけなのだ。その結果として英雄が死に、大軍が自壊したとしても、それは彼にとって「収支が合った」という結果に過ぎない。


(監視しろと言われても……。竹簡を楽しそうに読んでいるだけの男の、何を報告すればよいのだ)


呉宏は深い溜息をつくと、向朗が当然のように整理し始めた執務机へと、ふらふらと歩み寄っていった。


2.人類初の「本」


臨沮(りんじょ)の執務室。墨の香りと静寂が、室内を心地よく満たしていた。


窓から差し込む夕陽が、机の上に広げられた真っ白な紙の束を琥珀色に染めている。


机には、褒美として得た蔡倫(さいりん)紙の端切れ数万枚が山となっていた。


向朗は小さく溜息をつき、使い慣れた小刀の刃を研ぎ石で軽く整えると、定規を当てて紙を切り出し始めた。


「あー……めんどくさい。これ、少しでも寸法が狂うと、後で端が揃わなくて指に刺さるんですよね」


向朗はぼやきながらも、その手つきに迷いはない。繊維の強い紙を、刃先を滑らせるようにして一定の大きさに切り揃えていく。傍らでそれを見つめる崔州平(さいしゅうへい)は、唾を呑み込んでその「部品」を丁寧に積み重ねていた。


「巨達さん、この紙……意外と滑りますね。少しでも力を抜くと、せっかく揃えた束が逃げてしまう」


「ええ、だからそこをしっかり、体重を乗せて押さえていてください。州平くんが離したら、僕達のこれまでの苦労が全部最初からになりますから」


二人は、まずこの「紙の積層」という単純な、しかし極めて神経を使う工程から始まった。


次に待ち構えていたのは、最大の難関――穿孔(せんこう)、穴あけである。


「よし、開けますよ。……くっ」


向朗は、竹簡(ちくかん)の紐を通す際に使う鋭利な(きり)を手に取ると、重ねられた数十枚の紙の端に押し当てた。だが、一枚なら容易く貫ける紙も、これほど重なれば強固な障壁(しょうへき)と化す。無理に押し込めば紙が歪み、斜めに穴が開けば、頁をめくることすらままならなくなる。


向朗の額に、微かな汗が滲んだ。彼は立ち上がり、自らの全体重を錐の柄に乗せる。


ミシリという紙の悲鳴のような音がし、ようやく切っ先が裏側へと突き抜けた。


「……はあ、次。州平くん、そのまま、一分いちぶたりとも動かさないで」


「わ、わかってます。……手が、手が攣りそうだ」


一つ、また一つ。等間隔に四つの穴が開けられる頃には、二人の呼吸は激しい運動の後かのように乱れていた。


「……さて。次はこれを通します」


向朗が取り出したのは、丈夫な麻の細糸を蜜蝋(みつろう)で固めたものだった。

穴に糸を通し、複雑な運針(うんしん)で紙を綴じていく。向朗が糸を回し、州平が反対側でその張り具合(テンション)を絶妙に調整する。


「少し緩いな。……そう、そこで締めて。……あー、いい感じです」


糸が穴を通るたびに、バラバラだった「紙の束」が、一つの「塊」へと統合されていく。


「最後、ここをしっかり結んで……。……よし、終わりです」


向朗が余分な糸を切り落とし、完成したものを州平に手渡した。


それは、かつての巻物のような(かさ)張りもなく、竹簡(ちくかん)のような重苦しさもない。掌に吸い付くような適度な厚みと、しなやかな弾力。州平が恐る恐るその端に指をかけ、親指の腹で弾くようにめくると、パラパラ、という軽快で小気味よい音が、夕闇の室内に木霊した。


「……信じられない。こうも、易々と……。巻物のように巻き戻す手間もなく、瞬時に知の奥底に触れられる。巨達さん、これは……単なる記録の道具ではない。知の(うつわ)そのものの形が変わったのでは……」


崔州平は震える声で感嘆したが、向朗はすでに次の白紙の束を手に取り、満足そうに語りかける。


「あー……。これで、寝転びながら読んでも、顔の上に竹簡(ちくかん)が落ちてきて鼻血を出す心配がなくなりますね。……この軽さ、とても良いですよ」


『本』


それは、冊子であった。


それは歴史的な画期的発明であったが、向朗の頭にあるのは、どこまでも個人的で切実な「読書の快適化」だけだった。


「あ、そうだ。糸で括り付けた側に更に紙を張りわせて背表紙を作りましょう。これで強度も上がりますし、綻びも少なくなります。」


だが、二人が苦労して綴じたその一冊の背表紙(せびょうし)には、乱世の騒乱を静かに、しかし力強く封じ込めるだけの強度(きょうど)が、確かに宿っていた。


州平の震える声とは対照的に、向朗は「あー、上手くいきましたね」と、単に工作の成功を喜ぶ子供のような顔で、その頁を軽やかにめくってみせる。


彼にとって、これは後世に名を残すための大発明でもなければ、知の革命を志した成果でもなかった。ただ、めんどくさい竹簡(ちくかん)の持ち運びから解放され、寝転びながらでも快適に注釈を書き込みたいという、あまりにも個人的で切実な「効率化」の帰結に過ぎない。


「上手くいきましたね。百枚くらい閉じたでしょうか。これだけで竹簡数巻分の文字を手軽に書くことができます」


事務屋の合理性と、一人の青年の偏執(へんしゅう)的な知識欲。


それが産み落とした小さな(つづ)り。

そして向朗は背表紙に、サラサラと細筆で題目を書き込む。それは、


『銅貨と紙片の弥縫録びほうろく


「今回の事を書き記しておきましょう。まあ、紙なので、すぐ綻び、読み返しは、出来なくなるかもしれませんが……」


それは乱世の記憶を、知識を、そして人々の営みを、より軽く、より遠くへ運ぶための、新たなる知の城壁(じょうへき)の誕生であった。


「さて。次はどの本を読みましょうかね」


向朗の穏やかな独り言は、平和を取り戻した街の夕闇の中に、心地よく溶けていった。


第四章『銅貨と紙片の弥縫録びほうろく』完

本作、最後、向朗(巨達)が図らずも産み落としてしまった「書籍(しょけい)(冊子体の本)」。


三国志などのゲームでも普通に登場する『書籍』。


史実において、私たちが今日目にする書籍「ページをめくる本」の形式が東洋で定着するのは、およそ8世紀頃、唐の時代の木版印刷の普及を待つことになります。


後漢末期という、まだ竹簡(竹の板を紐で綴ったもの)が主流だった時代において、向朗が個人的な「読書の効率化」のために作り上げたこの綴りがいかに異質で、知の革命であったかがお分かりいただけるかと思います。


とはいえ、向朗のように、多くの人々が一時的な記録用、忘備録、付箋紙的に紙を使っていましたので、錐で穴を空け紐を通し「本」の形態にしていたとしても不思議ではありません。当時の紙はすぐ綻びますので、現代まで後漢末期の「本」は綻び朽ちて残らなかっただけなのかもと、思いを寄せます。


また、劇中で章陵を救い、袁術軍を自壊させた「章陵札」『麦一石』の仕組みについても、歴史的なモデルが存在します。


飛銭(ひせん)

唐の時代に登場した「飛銭(ひせん)」は、重く持ち運びに不便な銅銭の代わりに発行された引換券であり、世界最古の紙幣の原型とも言われています。この頃、仏教の隆盛とともに、銅銭を溶かして仏像や鐘、あるいは高級な鏡や食器を作る「潰銭鋳器(かいぜんちゅうき)」という現象が蔓延しました。銭の額面上の価値よりも同じ重さの銅で銅像を作った方が儲かってしまったのです。


現代に例えると、十円玉1000枚を溶かして、銅像を作ると、その銅像は5万円で売れ、4万円の儲けがある様なおかしな現象です。そして、儲けた4万円で4000枚の十円玉を入手し、また銅像を作ると……。


「貨幣としての価値」よりも「金属材料としての価値」が上回ってしまったことで、市場から通貨が消え、経済が麻痺する――。


董卓が粗悪な小銭を発行してハイパーインフレを引き起こした史実と、向朗がそれに対抗して「紙」による信用経済をぶつけた本作の構図は、数百年後の唐代に起きる、壮大な経済的混乱を凝縮して投影したものでもあります。


英雄たちが剣を振るう華やかな表舞台の裏側で、数字と、紙と、そして「めんどくさい」という一人の青年の美学が、いかに冷徹に時代を書き換えていくか。英雄ではない者の英雄譚。いかがでしたか。


『銅貨と紙片の弥縫録びほうろく』をお読みいただき、ありがとうございました。


次回予告

章陵を救った「紙片の魔法」は、更なる巨大な利権の渦中へ。


次なる舞台は、章陵の南隣、漢水の要衝・江夏郡。

そこに君臨するのは、数万の私兵と水軍を操る巨大軍閥「江夏黄氏」の族長・黄祖(こうそ)。彼らを武力による屈服させることが不可能ならば、向朗はどう動くのか?


「彼らを家臣にするのではなく、物流の『専売公職(エージェント)』にするのです」


向朗が提示する、江夏全域の利権独占という名の「毒饅頭」。その計略を見抜くかのように立ちはだかるのは、黄祖の息子、若き才気・黄射(こうしゃ)

「章陵の向朗殿、君の算盤を私に預けてはくれないか?」

狐と狸の化かし合い、そして「入りと出」を正す兵站の戦い。


そして、ついに歴史を動かす大事件が起こる。


『董卓暗殺』


董卓が斃れ、長安は王允の無策により未曾有の債務不履行(デフォルト)に陥る。崩壊する世界の中、魔王の老臣と一人の少女が、『価値を識る者』を探しに南へ奔る。


次回 第5章

魔王まおう遺産(いさん)幽霊(ゆうれい)算譜(さんぷ)

――算盤の音が、歴史の余白を埋めてゆく。


ただいま作成中。2026年5月前後に公開予定。


向朗の盟友であり、ライバルである黄射(こうしゃ)が遂に登場!そして遂に、遂に!あの女性キャラの登場です。って、知名度のない人物で埋め尽くされる三国志小説でした。


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