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第四章 銅貨と紙片の弥縫録《びほうろく》 三国志向朗伝  作者: こくせんや
第四章 銅貨と紙片の弥縫録《びほうろく》 

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第四話:|筆先《ふでさき》に宿る|城壁《じょうへき》その1

本日1話目です。

 1.水鏡(すいきょう)沈黙(ちんもく)覚悟(かくご)


 初平(しょへい)二年(一九一年)、秋。


夜明け前の章陵(しょうりょう)は、深い霧に包まれていた。


街の北側に位置する静かな邸宅――司馬徽(徳操)の居室には、数個の油皿(あぶらざら)が灯され、その淡い光の中に石韜(せきとう)孟建(もうけん)、そして商人たちの代表が、祈るような面持ちで平伏していた。


彼らの前には、昨夜、徹夜の議論を経て作り上げられた一片の白紙が置かれている。


四隅を牙行(がこう)銀行(ぎんこう)布行(ふこう)の印で固められたその紙は、未だ中心が空白であり、魂の入らぬ(うつわ)のようであった。


「――紙を、銭の代わりにする、と申すか」


長く、重苦しい沈黙を破り、司馬徽が口を開いた。


その声には、驚きと困惑、そして深い懸念が混じり合っていた。

陽翟から十万の民を率い、この地に安住の地を求めた碩学にとっても、「物質としての価値を持たぬ紙」に命を預けるという発想は、あまりにも常軌を逸していた。


「左様にございます。董卓の小銭により、物流は止まり、民は飢えの淵にあります。このままでは、三日と持たずこの街は自壊いたします」


石韜が額を床に擦り付け、必死に訴える。


「この紙には、実務を司る我ら四者の印を捺しました。ですが、民が真に信じるのは、官の判子でも商人の帳簿でもございません。陽翟からこの地まで、我ら十万の命を繋ぎ止めてくださった、先生の『徳』にございます。どうか……どうか、この中央に、先生の親筆を賜りたいのです」


司馬徽は、机上の白紙をじっと見つめた。

その指先が、わずかに震える。


――その時、司馬徽の視界から、周囲の光景が消え失せた。


灯火の爆ぜる音も、石韜たちの荒い息遣いも、霧の湿り気さえもが遠のき、ただ、目の前の空白の紙だけが、永遠のような静寂の中に浮かび上がっていた。


(……あぁ、向朗(巨達)。……これは、お前の仕業だな)


司馬徽は、この無謀な提案の背後に、ここにはいない一人の弟子の影を鮮明に感じ取っていた。


向朗。いつも「めんどくさい」とぼやきながら、誰よりも速く事務を片付け、隅っこで本を読みたがっていた、あの男だ。


この紙は、単なる知恵ではない。


向朗が導き出した、あまりにも冷徹な「数式」の回答だ。


彼は、己の愛する「平穏」を守るためだけに、師である司馬徽の数十年かけて築き上げた『徳』という名の無形資産を、冷酷なまでに正確に算出し、この紙の担保(たんぽ)として供物(くもつ)に捧げたのだ。


「先生の徳を、数字に変換しましょう」


かつて向朗が、冗談とも本気ともつかぬ口調で漏らした言葉が、司馬徽の脳裏に蘇る。


もしこの紙が破綻すれば、司馬徽の人生は、その「徳」とともに紙屑となって消えるだろう。

向朗はそれを承知の上で、この「賭け」を司馬徽に丸投げしたのだ。

師ならば、十万の民を見捨てぬと確信して。


(不遜な弟子よ。……私に、全責任を負えというのだな。お前の平穏のために)


司馬徽は自嘲気味に、心の中で微笑を漏らした。


だが、同時に、その合理的な弥縫(びほう)策に、抗いがたい期待を感じている自分にも気づいていた。


これほどまでに潔く、これほどまでに残酷な「救済」を、他に誰が思いつくだろうか。


司馬徽の葛藤は、時間にすればわずか数瞬。


しかし、その一瞬は、章陵の十万の民の運命を左右する、果てしない永遠のようであった。



「……うむ。よいぞ」


司馬徽は静かに目を開くと、愛用の筆を執った。


もはや迷いはなかった。弟子の投げた無慈悲な算盤の玉を、師として受け止める。その覚悟が、筆先に宿(やど)った。


力強い筆致で、純白の紙の中央に、三文字が刻まれた。


『麦一石』


その瞬間、ただの紙切れが、十万の信仰と、一人の事務屋の執念を宿した符呪(ふじゅ)へと変貌を遂げた。


石韜たちは、その文字の放つ気圧されるような威風(いふう)に、思わず息を呑んだ。



 2.太守(たいしゅ)天秤(てんびん)と死の(おきて)


 司馬徽先生を伴い、石韜、孟建、そして主要な商人の代表ら数十人が、太守府(たいしゅふ)の重厚な門を潜ったのは、日が昇りきった頃であった。


 本来、役人でもない彼らがこれほどの大挙をして押しかけるのは異例であったが、司馬徽の存在が、門番の槍を退けさせた。


 章陵太守・蒯越(かいえつ)(異度)の執務室には、徹夜(てつや)の疲労を隠しきれない男たちが揃っていた。


 蒯越は、差し出されたその奇妙な「(ふだ)」を燭台の明かりに透かし、冷徹な眼光で眺めた。


 「――石韜。これは、私鋳(しちゅう)ではないのか?」


 蒯越の声は低く、刃物のような冷たさを孕んでいた。

 漢の法において、貨幣を勝手に鋳造することは皇帝の権威を侵す重罪。発覚すれば即座に死罪であり、その罪は一族三代にまで及ぶ。たとえ戦乱の世であっても、経済の根幹に触れる行為は、政治家である蒯越にとって容認し難い暴挙であった。


 「滅相もございません。これはあくまで『麦一石引換券むぎいちせきひきかえけん』にございます。麦一石を抱えて歩くのは困難ゆえ、この紙を預かり証とし、取引を円滑にするための札に過ぎません」


 「言い訳に聞こえるな。これが市場を流れれば、民はこれを銭として扱う。それは実質的な新貨の発行だ」


 「左様にございます。ですが、董卓のゴミ銭がもたらした物価(ぶっか)の高騰と市場の機能不全を放置すれば、章陵は数日のうちに袁術の餌食となるか、内部から崩壊いたします。……太守様、これは『銭』を作るのではなく、止まった血液を流すための『器』を作るのでございます」


 蒯越は、司馬徽の筆跡、そしてその下に捺された牙行や銀行の印を指でなぞり、沈黙した。


(確かに、市場は死に体だ。劉表様から預かったこの地が、経済の窒息で瓦解するのは避けねばならん。だが……)

 蒯越は冷徹な政治家として、目の前の男たちと章陵の命運を天秤にかけた。


 「……まあ、よい。劉表様への報告は私が引き受けよう。だが、条件がある」


 蒯越は印影から顔を上げ、石韜たちの目を真っ直ぐに見据えた。


 「もし、この紙に綻びが出れば。偽造が横行し、市場がさらに混乱するようなことがあれば、即座にこれに関わった者すべての首を撥ねる。……司馬先生であっても、例外とはせぬ。それでも、やるか?」


 「承知の上でございます」


 司馬徽が微塵の迷いもなく頭を下げると同時に、蒯越は重厚な公印を、司馬徽の文字に重なるようにして紙の上に押し当てた。 


「権威」という名の、あまりにも危うい城壁が、一片の紙の上に築かれた瞬間であった。


執務室を支配する、身を切るような冷たい静寂。


石韜や孟建が、その重圧に息を呑んで立ち尽くす中、これまで沈黙を守っていた司馬徽が、ゆっくりと歩み出た。


「……異度(蒯越)殿。過酷な責務を、この若者たちに負わせてくださり、感謝いたします」


司馬徽の声は、春の陽だまりのように穏やかであった。しかし、その響きには山を動かすほどの確固(かっこ)たる芯が通っている。


彼は机の上に置かれた、二つの印が重なる「紙」を慈しむように見つめ、静かに微笑んだ。


「この紙の重さは、もはや一片の草にも勝りません。ですが、ここに記された文字が裏切られ、信頼という名の(きず)が断たれたとき、それは十万の民を圧し潰す凶器となるでしょう。……首を撥ねるならば、どうか、真っ先にこの私からになさい。若者たちの命を散らすのは、私の徳が尽き、文字が紙屑に変わった後で十分です」


「……司馬先生。貴方ほどの御方が、これほどまでの泥を被ると?」


蒯越の鋭い眼光に、司馬徽は迷いなく頷いた。その脳裏には、今頃どこかで欠伸をしながら古い竹簡を捲っているであろう、あの「めんどくさがりな弟子」の顔が浮かんでいた。


(……あぁ、巨達。お前の描いたこの『弥縫策』、たった一枚の紙で、太守の心さえも天秤にかけてしまうとはな)


司馬徽は、石韜と孟建の肩にそっと手を置いた。怯えに震えていた彼らの肩から、不思議と力が抜けていく。


「さあ、行きなさい。広元(石韜)、公威(孟建)。私たちは今、この乱世の理を書き換える、最初の一歩を踏み出したのです。……この紙が、民の(かまど)に火を灯し、明日を繋ぐ希望となる。それを証明するのが、私たちの仕事ですよ」


司馬徽の言葉は、単なる命令ではなく、未来への祈りそのものであった。


章陵の街に、新たな時代の産声が上がる。

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