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第四章 銅貨と紙片の弥縫録《びほうろく》 三国志向朗伝  作者: こくせんや
第四章 銅貨と紙片の弥縫録《びほうろく》 

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第三話:|向朗《しょうろう》の|偏愛《へいあい》と|弥縫《びほう》策その2

本日2話目になります。

3.四者(りくしゃ)誓約(せいやく)、混迷の産声


 深夜。章陵(しょうりょう)の役所の一角、水鏡門下生たちが実務に使用している控えの間は、呼吸するのも憚られるほどの熱気と、焦燥感に包まれていた。

 机の上には、崔州平(さいしゅうへい)から提供された数枚の白紙と、山積みの算木(さんぎ)、そして何十回と書き直された墨だらけの木簡(もっかん)が散乱している。


 「――無茶だ。話にならん」


 沈黙を破ったのは、牙行の頭目・(ちょう)だった。彼は太い腕を組み、机上の白紙を睨みつける。


 「巨達さんの言う『引き換え券』という理屈は分かった。だがな、広元さん。銭ってのは、あの『重み』があるから銭なんだ。銅を掘り、溶かし、形を作る。その手間があるから価値がある。……それがどうだ。この紙切れに筆でひょいと『麦一石』と書くだけで、本当に麦が動くと思っているのか?」


 「理屈の上では、動くはずだ」


 石韜(広元)が必死に食い下がる。だが、その声には迷いがあった。


 「麦一石と交換できるという『約束』が守られるなら、その紙は麦そのものと同じ価値を持つ。……向朗はそう言いたいんだ」


 「その『約束』を誰が信じるんだ!」


 布行の老主人が身を乗り出した。石韜はその視線を真っ向から受け止めると、ふと思いついたように、隣に座っていた崔州平(さいしゅうへい)の手から一枚の白紙をひょいと受け取った。


 「魏さん。あんた、さっき夜食にしようと懐に饅頭(まんじゅう)を突っ込んでいたな。それを一つ、貸してくれ」


 饅頭屋を兼ねる雑貨商の魏は、戸惑いながらも包みを出した。石韜は、衆人環視の中で、崔州平の白紙を魏に手渡し、代わりにその饅頭を受け取った。


 「……?  何をしてるんだ、広元さん」


 石韜は答えず、今度は受け取った饅頭を魏に返し、魏が持っていた白紙を取り戻した。そして、それを再び崔州平の元へ戻した。


 「今、何が起きたか見ていたか。紙は一時、魏さんの饅頭に変わり、そして再び紙に戻った。魏さんが私の顔を見て『後で紙を返せば、この男は必ず饅頭を返してくれる』と信じたからだ。この一瞬、この紙と饅頭は同価値であったのだ」


 何かに辿り着いたような石韜の瞳に、強い光が宿る。


 「『麦一石引換券』と書いた紙が麦と交換できる原理は単純だ。今、目の前で起きた饅頭のやり取りと同じことだ。皆がその『約束』を違えないと信じれば、紙は麦に成る!」


 「……理屈は、そうかもしれねえ」


 石韜(せきとう)が見せた饅頭のやり取りに、牙行の頭目・(ちょう)が苦々しく顔を歪めた。


 「だがな、広元さん。饅頭一つならあんたへの義理で済む。だが、これが何千石という麦になったらどうする。この紙なぞ、世の中に何万枚、何十万枚とあるんだぞ?  誰かが勝手に同じ紙を持ってきて『麦をよこせ』と言い出したら、章陵の蔵は一日で空だ。偽物が溢れたら、その瞬間に『物語』は終わりだ!」


 「その通りだ!」と商人たちが一斉に同調する。紙という素材の、あまりの「軽さ」と「ありふれた性質」が、彼らの恐怖を煽っていた。


 「ならば、太守(たいしゅ)様に署名(しょめい)を頂いてはどうか?」


 一人の商人が提案した。蒯越(かいえつ)という名士の直筆があれば、それが価値の保証になるのではないか、という発想だ。だが、隣に座っていた老練な文具商が即座にそれを鼻で笑った。


 「甘いな。筆跡など、路地裏に転がっている書生崩れを一人捕まえれば、いくらでも真似ができる。この乱世、官の威光より、詐欺師の筆先の方がよほど速いぞ。太守様の署名一つに、十万の民が命を預けられると思うか?」


 「なれば……」


 別の商人が、焦燥に駆られたように身を乗り出した。


 「その引換券を使う者が、受け渡しのたびに裏に自らの名を書き連ねていくのはどうだ?  誰の手を渡ってきたか分かれば、出所も洗える。信用(しんよう)を書き足していくんだ!」


 「馬鹿を言え!」


 趙が机を叩いた。


 「数人が書き重ねただけで、この薄い紙は墨に濡れて崩れていくわ! そもそも、人足や農夫の誰が自分の名を書けるというのだ? 署名どころか、泥で汚れた指で触り回すだけで、価値が消える代物だぞ。銅貨なら溝に落ちても洗えば済むが、紙は一度汚れたらそれでおしまいだ!」


 侃々諤々、議論は紛糾を極めた。


 誰もが「信用(しんよう)」の重要性は理解しつつも、それを「一片の脆い紙」に定着させる術を見出せずにいた。重さのない価値、形のない約束。それがいかに脆く、危ういものであるか。商人たちは、自分たちが積み上げてきた財産が、風に舞う木の葉に変わってしまう恐怖に震えていた。


 その混沌とした熱気の中に、冷や水を浴びせるような硬質な声が響いた。


 「……ならば」


 孟建(もうけん)(公威)が、木簡を握りしめながら絞り出すように言った。その瞳には、冷徹な計算の先にある、ある種の「覚悟」が宿っていた。


 「署名ではない。我ら『水鏡党』、牙行、銀行、布行……この街を支える銭、資産を扱う4つ力の『印』を、特定の法則で一枚の紙に重ねて捺すんだ。さらに、我々が管理している『十万人の名簿』から固有の番号を振る。発行された紙が誰の手に渡り、いつ麦と引き換えられたか。そのすべてを、巨達が残したあの帳簿の要領で、一分一厘の狂いもなく照合し続ける」


 「そんな手間のかかること……!」


 「手間をかけなければ、『信用』など生まれない!」


 石韜が叫んだ。その声は、広間の空気を震わせた。


 「董卓の小銭がなぜゴミなのか。それは誰も責任を取らないからだ。ならば、この紙の責任は、我ら全員で背負う。この紙を拒否することは、章陵の全経済から追い出されることを意味する。我ら四者が『この紙は麦と換えられる』と誓い、その誓いを破った者は、この街での名誉も商売もすべて失う。……これは単なる紙ではない。陽翟からこの地まで命を共にしてきた、我ら十万人の『絆の証明』なんだ!」

 

 石韜の熱い吐露に、場に沈黙が降りた。


 それは、これまで「銅」という物質に依存していた彼らが、初めて「自分たちの誠実さ」そのものを貨幣に変えようとする、恐るべき転換の瞬間であった。


 趙は、しばらくの間、無言で机の上の白紙を見つめていた。やがて、彼は大きな溜息をつくと、懐から年季の入った自身の印を取り出した。


 「……あー、クソ。巨達さんの『めんどくさい』が、俺たち全員に伝染しちまったな。……いいだろう。この街が沈むのを黙って見てるよりは、自分たちの面目を懸けた博打の方が、まだマシだ」


 黎明。


 崔州平が提供した純白の紙に、四つの重厚な印が、互いを監視し合うように重なり合って押された「試案」が完成した。


 これが経済の城壁(じょうへき)となるのか、あるいは更なる混乱を招く呪符(じゅふ)となるのか。

 前代未聞の「紙の銭」を前に、その場にいた全員が、底の見えない暗闇の縁に立っているような、言い知れぬ不安に震えていた。


 4.符呪(ふじゅ)完成(かんせい)


 翌朝。章陵(しょうりょう)の空を白ませる黎明の光が、役所の窓から差し込んだ。


 室内には、徹夜で議論と検討を続けた、石韜、|孟建、そして牙行、銀行、布行の代表者たちが、どろのように疲れ果てた姿で座り込んでいた。

 机の上には、ようやく作り上げられた『章陵札(しょうりょうさつ)』の素案(そあん)が置かれている。


 崔州平(さいしゅうへい)が提供した純白の紙を四角く切り出し、その四隅には、互いの信用(しんよう)を縛り合うようにして『水鏡党(すいきょうとう)』、牙行(がこう)銀行(ぎんこう)布行(ふこう)の四つの重厚な(いん)が、中心を向いて微妙に重なり合いながら押されていた。


 「……これが、本当に麦と交換できるのか?」


 布行の老主人が、震える指でその紙に触れた。

 四つの力が結集した印影は確かに重々しい。

だが、中央の空白があまりにも白く、頼りなく見えた。ただの「印の集まり」が、飢えた民の目を欺き、腹を満たすための「銭」に成るなど、やはり正気の沙汰とは思えなかったのだ。


 「理屈の上では、成るはずだ。だが……」


 孟建が言葉を濁した。計算上、この四者の合意があれば経済は回る。しかし、人々の「心」を動かすための最後の一押しが、この無機質な紙片には欠けていた。


 そこへ、ひょっこりと、どこからともなく李譔(りせん)(欽仲)が現れた。

 彼は徹夜の疲労など微塵も感じさせない涼しい顔で、石韜が握りしめていた筆をひょいと奪い取った。


 「違うよ。こうすればいいんですよ」


 「李譔(欽仲)?  お前、何を……」


 石韜が止める間もなかった。李譔は流れるような動作で筆を墨に浸すと、紙のど真ん中、四つの印に囲まれた空白へ、さらさらと大きな文字を書き込んだ。


 『麦一石』


 呆気にとられる商人たちの前で、李譔は書き上げたばかりの紙を掲げて見せた。


 「……なんだ、それは。あまりにも……そのまますぎないか?」


 銀行の主が呆れたように声を出す。あまりに無造作なその三文字は、これまで彼らが命懸けで議論してきた「信用(しんよう)の設計」を、ひどく安っぽく汚したように見えたからだ。


 「そう、僕が書いたら意味がない。ただの落書きだよね」


 李譔は、ふふ、と影のある笑みを浮かべ、石韜を真っ直ぐに見つめた。


 「でも、これを――司馬徽(しばき)先生に書いてもらったら、どうかな?  陽翟からこの地まで十万の民を導いた、あの徳の塊のような水鏡(すいきょう)先生の直筆で、『これは麦一石に等しい』と記してもらうんだ」


 石韜の心臓が、大きく跳ねた。


 そうだ。四つの印は「実務」の保証だ。だが、この中央に記されるべきは、民が拝みたくなるような「聖域(せいいき)」の証明。


 「この街の民は、役人の判子なんて信じちゃいない。でも、先生が『これは麦だ』と言えば、彼らはきっと泥水だって麦の粥だと思って啜る。……これはもう銭じゃない。先生の徳を分かち合う、最強の符呪(ふじゅ)になるんじゃないかな?」


 李譔の謎かけのような提案に、室内の空気は一変した。


 得体の知れない「紙片」が、十万人の信仰を背負った「宝物」へと、その色彩を変えようとしていた。


 黎明の光を浴びて、中央に『麦一石』と記された白紙が、不気味なほど鮮やかに輝いて見えた。



■ 第三話・結


向朗が物価高騰への取り繕い策、導き出した「紙片」という解答は、章陵の街に静かな、しかし決定的な変革をもたらす。


「銭の価値とは物質の重さではなく、その背後にある物語(信用)である」――。

向朗が投げ捨てたそのあまりにも非常識な命題は、十万の民が抱く彼への絶大な恩義と、崔州平が語った「富の本質」という光によって、暗闇の中に道筋を見出します。

銅の重さに縛られ、董卓の悪銭という「嘘」に喘いでいた商人たちは、ついに自らの誠実さを担保にすることを決意。

水鏡党、牙行、銀行、布行の四者が互いを監視し、責任を分かち合う「四者の誓約」が結ばれる。


向朗が「めんどくさい」と放り出したパズルの断片は、四百年続いた金属貨幣の呪縛を解き放つ、新たな経済の産声となったのです。


次回予告


章陵の市場に、かつてない「軽い富」が産声をあげる。

だが、四つの印だけでは足りない。民が命を預けるための最後の一押し――それは、十万の民を導いた「水鏡先生」司馬徽の徳を分かち合う、最強の符呪であった。


「この紙に綻びが出れば、関わった者すべての首を撥ねる」


私鋳銭は死罪極刑と最も重い刑であり、太守・蒯越が突きつける死の掟と、一片の紙に宿る城壁。


偽造を企む悪意と、検証コストという名の「摩擦」を削ぎ落とす、向朗の神算(おもいつき)」、再び乱世の常識を嘲笑う。


第四話:筆先(ふでさき)に宿る城壁(じょうへき)

――信頼の重さは、もはや一片の草にも勝り、山をも動かす。

『行』商業組合。


乱暴に例えるなら、ファンタジー小説における『ギルド』です。

後漢末期は、郡内をまとめる程度の組織ですが、唐の時代まで下ると、国家規模の組織もあったそうです。


唐の時代において塩は半分官製、半分民間(密売人。塩行)によって支えられましたが、唐朝が慢性的な財政難を解消するために導入した「塩の専売制度」が、密売人(塩行)や飢えた民衆の怒りを買い、大規模な農民と塩の流通業が国家規模で反乱を起こした、黄巣の乱に発展したという経緯があります。

この時の大規模な塩密売人の反乱が、塩密売人の用心棒だったと伝わる「関羽」が「武財神」として一気に全国で神格化していくのも三国志の面白い歴史ですね。


牙行:輸送組合、物流ギルド。郡を越え、諸侯、国間の物流は、彼らがいないと出来ません。運ぶ荷財の価値に応じて、その割合で費用を徴収します。なので運ぶものの価値が分からないもの、運び先で価値が変わるものには、特に敏感に反応します。


銀行:金銀財宝の組合。銭は国有、太守で管理されるものですが、当時も金や財宝でも取引されていました。現代の『銀行』というより、『質屋』をイメージした方が近いです。金は格別な報奨なので、庶民や商人にはなかなか手に入りません。金は、「秤量貨幣」で当時は、金貨のような一定の価値はなく、重量で価値が変わる「記念品」のような扱いです。文字通り「金塊」です。五銖銭よりも遥かに高額なので、現代的には記念コイン『100万円金貨』がみたいなイメージです。


布行:絹織物を扱う商業組合。銭の価値が混乱した世の中で、ある程度普遍な価値で、ある程度簡単に商人庶民が手にはいる物です。銭の価値が乱高下するため、「絹織物」を取引の中心に据え、銭の代わりにしました。


なお、五銖銭のような円形ではなく、農具のすきくわの形をした特殊な形の銅銭を『布貨』『布銭』と呼ぶことから、紛らわしいので、この物語では、絹の反物そのものを銭取引に使用することは『布帛』と呼ぶことにしました。



「その引換券を使う者が、受け渡しのたびに裏に自らの名を書き連ねていくのはどうだ?  誰の手を渡ってきたか分かれば、出所も洗える。信用(しんよう)を書き足していくんだ!」


 ブロックチェーンとPoWですね。Proof of Workプルーフオブワーク取引履歴を全て残すことで、改ざんを防止し信用を得る技術。


 手書きでは……できるわけありません笑

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