第四章 狂気
第4章!
楽しんで!
「天井裏のデッドスペース……」
通話を切ったスマートフォンの画面を凝視したまま、俺は図書館の地下資料室で立ち尽くしていた。
ひんやりとしたコンクリートの壁に囲まれた資料室は、いつもなら俺にとって最も落ち着く思考の避難所だった。しかし今、この場所の静寂さえも、俺の神経を逆撫でするための罠のように感じられる。
ノートPCの画面に表示された、昨夜の赤外線サーモグラフィの録画データ。
佐藤の熱源――狂ったように過呼吸を繰り返す赤く燃え上がるような光のすぐ横にある、あの冷たい『青緑色の歪み』。
一分間にわずか十二回という、恐ろしいほど静かで、恐ろしいほど安定した呼吸のログ。
それが意味する最悪の結論が、脳裏で何度も明滅していた。
犯人は七年前の事件の後、この部屋から去っていないのだ。
大家すら全貌を把握していない天井裏の隠し物置、あの暗黒のデッドスペースに、今も潜み続けている。
俺が毎日ベッドで眠り、大学の課題をこなし、飯を食っていたその頭上で、その「何か」はずっと息を潜めて、俺の一挙手一投足を見下ろしていたのだ。
そう考えた瞬間、自分の肌が粟立ち、全身の毛穴が収縮するのが分かった。
「早く、あの部屋から機材を回収して逃げないと……!」
ガタガタと指先を震わせながらノートPCをリュックに押し込み、資料室を飛び出そうとしたその時、ポケットの中でスマホが激しく振動した。
突然の電子音に心臓が喉まで跳ね上がる。画面に表示された名前に、俺は細く長い息を吐き出した。
『白石 結衣』
同じ大学の文学部に通う、中学からの幼馴染だ。
直感型で、俺のガチガチの理系脳とは真逆の感性を持っている。幽霊だの占いだのといった不確かなものを嫌う俺とは違い、彼女は「なんとなく嫌な予感がする」という理由だけで行動を変えるような奴だった。
そのくせ、俺が研究に没頭して飯を食うのを忘れていると「はい、お惣菜」と強引に部屋に踏み込んでくるような、妙にしっかり者で世話焼きな奴でもあった。
「もしもし、結衣か。悪いが今ちょっと急いでて――」
『ちょっと高瀬!今日の講義、全部サボったでしょう。指導教官の教授が研究室でカンカンに怒ってたよ? あんたの事だから、昨日もまともに寝てないし飯も食べてないんでしょうね。今、あんたのアパートの前にいるから。お惣菜置いていくよ』
「――なっ!? 待て、結衣! 部屋に入るな!」
『え? もう大家さんに鍵開けてもらって、部屋に入っちゃったよ。……うわ、何これ。部屋の中、すっごくカビ臭いし、なんかジメジメしてて気持ち悪いんだけど。あんた、エアコン壊れてんじゃないの?』
「結衣、頼むから今すぐそこから出ろ! 廊下で待ってろ!」
『ちょっと、高瀬……? なんでそんなに焦って――』
俺は電話を耳に押し当てたまま、夕暮れの街を全力で疾走した。
心臓が破裂しそうなほど激しく脈打ち、肺が引き裂かれるように悲鳴を上げる。アスファルトを蹴る自分の足音が、妙に遠くで響いているように感じられた。
あの部屋には、毎晩二時四分に『窒息死する男』のデータが再生される。だが、それはただの過去の残滓だ。物理的な実体はない。
問題は、その男を殺した『本物の狂人』が、今、結衣が一人で立っているその部屋の天井裏に潜んでいるということだ。
もし、結衣の立てる物音や気配で、天井裏の住人が「自分の存在に気づかれた」と誤認したらどうなる。
「頼む、間に合ってくれ……!」
アパートの階段を二段飛ばしで駆け上がり、二〇二号室のドアの前にたどり着いた。時刻は午後六時を回ったばかり。
ドアノブに手をかける。鍵は開いていた。
勢いよくドアを押し開けると、ちょうど結衣が俺の部屋のドアを開けて出てくるところだった。
夕方の薄暗い廊下で、結衣は俺の酷い息切れと青ざめた顔を見るなり、呆れたようにため息をついた。
「もう、幽霊みたいな顔して。本当に全力疾走してきたの? ちゃんと鍵は閉めときなさいよ。お惣菜、机の上に置いといたから。じゃあね、明日ちゃんと学校来なよ?」
「あ、ああ……わざわざ、悪かったな」
結衣はそれだけ言うと、いつも通りあっさりと階段を降りて帰っていった。
本当に、ただお惣菜を届けに来ただけだった。彼女のその屈託のない日常の光景が、俺の張り詰めていた神経を少しだけ弛緩させた。結衣をこの異常な状況に巻き込まずに済んだ。その安堵感だけで、膝の力が抜けそうになる。
部屋に入り、ドアの鍵を三重にしっかりと閉める。
机の上には、結衣が置いていったスーパーのプラスチックパックに入った惣菜がぽつんと置かれていた。部屋の中はまだ、夕方の静けさに包まれている。
ゆっくりと天井を見上げる。そこにはいつも通りの、薄汚れた白い壁紙があるだけだ。物音ひとつしない。
だが、俺は知っている。
リュックからノートPCを取り出し、部屋のセンサーシステムと同期させる。
画面に映し出されるリアルタイムの熱源データ。
そこには、あの冷たい『青緑色の歪み』――天井裏の住人の静かな呼吸のログが、今も変わらず、部屋の構造の裏側で一定のキャパシティを保ちながら脈打っていた。向こうは、俺が戻ってきたことも、結衣が来たことも、すべて分かっているのだ。
時計の針が、非情に進んでいく。
午後八時、午後十時、午前一時。
夜が深まるにつれて、部屋の空気がじわじわと変化していくのが肌で分かった。
エアコンの除湿機能は最大で回している。それなのに、空気がまるで重油のように重く、肌にまとわりついてくる。
気のせいではない。ノートPCの数値が、一分ごとに〇・一%ずつ、確実に湿度の上昇を捉えていた。天井裏の隠しスペースから、生温かい湿気が、床板の隙間や壁の裏を通じてこの部屋へとゆっくりと漏れ出しているのだ。
暗闇の中、ノートPCの液晶画面だけが、俺の顔を青白く照らしている。
俺は逃げ出す選択肢を捨てていた。理系としてのプライドが、そしてこの怪異の『法則』を完璧に突き止めたいという狂気的な好奇心が、俺の足をベッドの前に縫い付けていた。
「水分子は、嘘をつかない。お前がただの人間なら、必ず物理的な法則で処理できる」
俺は研究室から持ち込んだ高濃度の工業用アルコールのボトルを手に取り、ベッドの脇に設置された超音波加湿器のタンクへとなみなみと注ぎ込んだ。これは、俺の最後の防衛策であり、実験の解答を用意するための準備だ。
午前二時三分。
部屋の空気はすでに、息をするだけで喉が濡れるほどじっとりと湿っていた。
午前二時三分五十五秒。
五十六、五十七、五十八、五十九。
運命の二時四分に向けて、部屋の全てのセンサーが、一斉に不気味な警告音を鳴らし始めようとしていた。
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