第二章 呼吸の仕方
第二章!
科学者、研究者、それは人間の好奇心を材料に新しいものを見つける人種のことだ!
楽しんで!
科学者とは、異常を前にしたとき、逃げ出す代わりに定規を持ち出す人種のことを言う。
俺の行動は、まさにそれだった。
翌日から、俺の生活は一変した。大学の講義が終わると同時に研究室へ直行し、指導教官の目を盗んで機材をリュックに詰め込めるだけ詰め込んだ。
空間の三次元的な気流を測定するアネモマスター風速計。空気中の微粒子をカウントするパーティカルカウンター。そして、壁や空間の微小な温度変化を視覚化する高解像度の赤外線サーモグラフィカメラ。
総額で中古の軽自動車が軽く一台買えるレベルの精密機器が、俺の家賃三万二千円のボロアパートに並んだ。六畳一間の狭い部屋は、さながらマッドサイエンティストの実験室のようだった。
「オカルト現象だろうが何だろうが、現実世界に物理的な影響を及ぼしている以上、そこには必ず『法則』がある」
缶コーヒーを飲み干し、俺は部屋の四隅に設置した三脚のカメラの位置を微調整する。
すべての機材の同期を完了させ、ノートPCの画面に映るマルチモニターのログを確認した。時刻は午前一時五十分。あと十四分で、あの「湿度九九%」の臨界点がやってくる。
俺はパイプ椅子に深く腰掛け、ノートPCの画面を凝視した。心臓の鼓動がいつもより少しだけ速いのは、恐怖からではない。実験の結果を待つときの、あの特有の昂ぶりのせいだ。
午前二時三分。部屋の湿度計は四六%を指している。
午前二時三分五十五秒。五十六、五十七、五十八、五十九。
――二時四分。
ピピッ、と短い電子音が部屋に響いた。
同時に、眼鏡のレンズがじわ、と白く染まる。肌にまとわりつく、あの不快な、生温かい湿気。部屋の空気が一瞬で、熱い風呂場のように変わった。スマートフォンの結露警告アプリが、真っ赤な画面を明滅させている。
「よし、記録開始だ」
俺はキーボードを叩き、各センサーから送られてくるリアルタイムのデータを画面に呼び出した。
赤外線サーモグラフィのモニターを見る。
青く冷え切った部屋のグラフィックの中に、突如として『赤く燃え上がるような熱源』が出現していた。
場所は、ベッドの真上。何もない虚空。
やはり床下でも、天井裏でもない。俺がさっきまで頭を乗せていた枕の、ちょうど三十センチほど上の空間に、直径十センチほどの球体状の熱源が浮かび上がっていた。その温度は、摂氏三十六・五度。
「三十六度五分……人間の、体温か?」
鳥肌が腕を駆け上がった。だが、俺の指は止まらない。
次に、アネモマスター風速計が弾き出す、気流のベクトルマップを開く。
その空中の一点から、湿った空気が『周期的に』外側へと吹き出しているのが分かった。
吹き出し、止まり、また吹き出す。
その周期を、画面上のグラフが波形として描き出していく。俺は画面に表示される数値を、頭の中で素早く計算した。
一分間あたりの換気回数、約四十回。
一回あたりの吐出空気量、約五百ミリリットル。
そこから算出される、一分間あたりの水蒸気放出量。
その規則的なデータの波形を見た瞬間、俺の脳裏を、ある一つの医学的な事実がよぎった。
「これは……過呼吸のデータだ」
それも、ただの過呼吸ではない。
呼吸の浅さと、吐き出される水蒸気量に含まれる異常な熱量。それは、人間が極限の恐怖やパニックに陥り、激しく息を荒げ、涙と汗を流しながら命乞いをしているときの――【極限状態の呼吸】のデータそのものだった。
つまり、こういうことだ。
毎晩、深夜二時四分になると、俺のベッドの真上に『目に見えない、体温三十六度五分の何者か』が出現する。
そして、仰向けに横たわった状態で、狂ったように激しい息を、十分間にわたって吐き出し続けているのだ。
その激しすぎる吐息に含まれる水分が、六畳の狭い部屋の飽和水蒸気量を一瞬で超過し、湿度九九%という異常値を叩き出していた。これが、結露の正体。
「はは、なるほど……そういうことかよ」
乾いた笑いが口から漏れた。
謎は解けた。しかし、ロジックが完成した瞬間に、今まで感じたことのない濃厚な恐怖が、背筋をじわじわと這い上がってきた。 俺は、サーモグラフィの画面をじっと見つめる。
そこには、今も苦しげに熱い息を吐き出し、赤く明滅する『見えない誰かの口元』がはっきりと映っている。
そして、そのデータの波形を眺めていた俺の目が、ある【致命的なバグ】を捉えた。
呼吸のデータが、おかしい。
おかしすぎる。
人間じゃない。
人間の呼吸は、息を吸い(イン)、息を吐く(アウト)の連続で成立する。
だが、このセンサーが記録しているデータは、二時四分から現在に至るまで、ずうっと【吐く(アウト)】の数値しか記録していなかった。
吸う動作が、一切ない。ただひたすらに、湿った熱い息が、虚空から吐き出され続けている。
肺活量という物理的な限界を無視して、無限に吐き出される死者の息。
それが意味することは、一つしかなかった。
「こいつ……呼吸をしてるんじゃない。塞がれた口から、空気が漏れ出してるんだ」
そのとき、部屋の隅にある古い木製のクローゼットから、パキ、と小さな軋み音が響いた。
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