第4話 脱出
加賀谷が培養タンクに沈められてから、二週間が経過した。
意識が浮上したのは、感覚を麻痺させていた『ソーマ』の供給が止まった時だった。
この地下室のレイアウトは、残酷なほど機能的だ。加賀谷の入った十二番タンクは、桐生の作業台の真正面に据えられている。そしてそのすぐ横には、完成した薬液を保管する重厚な金庫が鎮座していた。
首筋に、昨日まではなかった異物感がある。皮下で何かが蠢き、盛り上がっている。
反射的に自分の体に触れようとしたが、固定具に阻まれ、指先ひとつ動かせない。
静寂を破り、壁のスピーカーが震えた。
「おはよう、十二番」
「おはよう、桐生」
加賀谷は掠れた声で応じた。
白衣をまとった桐生が入室してくる。その手には青白く発光する粉末が詰まった数本の小瓶が握られていた。桐生はタンクが並ぶ通路を抜け、作業台のすぐ横にある金庫の前で足を止めた。加賀谷の視線の先で、桐生の指先が操作盤を叩く。
〈三―五―七―四〉
重厚な電子音とともにロックが解除された。
桐生は扉を開き、小瓶を一本ずつ、壊れ物を扱う手つきで棚に並べていく。
「……それが、ソーマか」
加賀谷の問いに、桐生は最後の一本を光に透かし、愛おしそうに目を細めた。
「ええ。昨日の採取分です。特に七番の発育が良く、実に素晴らしい密度です。十二番、わかりますか? この青く透き通るような光の美しさが。これこそが、生命が最後に辿り着く究極の輝きですよ」
「……ただの粉末にしか見えないな。そんなに美しいと思うなら、なぜわざわざ金庫の中に隠すんだ。外に飾っておけばいいだろう」
加賀谷の皮肉に、桐生は最後の一瓶を棚に置くと、慈しむように扉を閉ざした。
「大切なものは、鍵をかけて守らなければならない。これはどこへでも運べる完璧な形ですが、同時に、未熟な者に触れさせれば容易に汚されてしまう」
金属音がして、金庫が再び沈黙する。
用を済ませた桐生は、そのまま加賀谷のガラスの前に立ち、検温計をチェックするように、愛おしげにその顔を覗き込んだ。
「首筋に何かある。今朝からだ」
「菌糸が表層に出てきました。順調ですよ」
桐生は淡々と手帳にペンを走らせる。
「俺はどうなる」
「収穫までにはまだ時間がかかります。焦らないでください」
問いへの答えは拒絶に等しかった。加賀谷が沈黙すると、桐生はふと、遠い目をして語り始めた。
「私が大学にいた頃、清掃員として廊下を磨いていました。毎朝四時から、誰にも見られない場所で、一マスずつ丁寧に。研究者たちは私を空気のように扱い、目の前で平然と機密を話した。ある朝、一人の男が言ったのです。『人間を苗床にすれば、最高の粉ができる』と」
「冗談には聞こえなかった、というわけか」
「私には、それが必要な真実に思えた。透明な存在だった私に、初めて世界を塗り替える力が与えられた瞬間でした」
ガラス越しに視線が交差した。スピーカー越しの沈黙は、獲物と捕食者の境界が曖昧になるような、奇妙な親和性を帯びていた。
その夜、再びソーマが降り注いだ。白い粒子が視界を埋め尽くす。
『逃げなければ』という生存本能は、甘美な痺れにかき消されていく。それは凍てつく闇の中で産湯に浸かったような、暴力的なまでの安らぎだった。加賀谷の意識は、自我が溶け出す多幸感の渦へと沈んでいった。
翌朝、事態は急転する。
加賀谷は微かな電子音で意識を引き戻された。桐生が巡回を開始し、いつものように加賀谷のタンク横にあるタブレットを起動した合図だ。
「おはよう、十二番。顔色が悪い。菌糸の吸い上げが強すぎますか?」
「……朝飯を抜かれた気分だ。最悪だよ」
こうした皮肉を交えた定時連絡は、ここ数日の加賀谷にとって、狂気に呑み込まれないための唯一の精神的支柱となっていた。桐生もまた、自らの『最高傑作』である加賀谷との対話を愉しんでいる節があった。
だが、その歪な平穏は、重い金属扉が乱暴に跳ね上がる音によって打ち砕かれた。
「海老原さん」
桐生の声に緊張が走る。現れたのは、コートを着た五十代の男だった。
「ソーマを渡せ」
「契約外です。供給スケジュールは――」
「変えると言っているんだ。渡せ」
海老原の冷徹な一歩に、桐生がたじろぐ。金庫の主権を巡る対立は、瞬時に暴力へと転じた。海老原が桐生の胸ぐらを掴み、壁に叩きつける。
「番号を吐け、老いぼれ! さもなくばここで終わりだ」
「断る……あれは、私の……生命そのものだ……」
桐生が組み伏せられ、首を絞められる。通信が繋がったままのタブレットが、桐生の苦悶の喘ぎを生々しく拾い、加賀谷の耳元で増幅させた。
「知ってる!」
加賀谷の叫びが、スピーカーを通じて培養室全体に轟いた。
「俺は、金庫の暗証番号を知ってるぞ!」
二人の動きが止まる。その隙を見逃さず、海老原が桐生を床に押し倒した。馬乗りになり、細い首に太い指をかける。桐生の爪が海老原の腕に食い込み、足が虚しく床を蹴ったが、やがてその力も抜けていった。
静寂が戻った室内に、海老原の荒い呼吸だけが響く。
彼はナイフを手に加賀谷を睨みつけた。
「番号は?」
「拘束を解け。そうしたら話す」
海老原は迷った末、パネルを操作した。扉が開き、加賀谷を縛っていたチューブとベルトが外される。床に這い出した加賀谷の腕からは、正体不明の液体が滴っていた。
「三、五、七、四だ」
海老原が金庫を開ける。青い光に魅せられた男は、一本の瓶を仰ぐように吸い込んだ。
「……本物か」
「ああ、間違いない」
海老原が目を閉じ、恍惚に浸る。今しかない。加賀谷は震える足に力を込めた。
「座れ。……お前にも分けてやる」
拾い上げた小瓶。これを投げつけ、あの扉へ走れば助かるかもしれない。
しかし、指先が勝手に栓を抜いた。鼻腔をくすぐる香りが、逃走の意志を霧散させる。肺に吸い込んだ瞬間、恐怖も痛みも消えた。二人は壁に背を預け、ただ圧倒的な光の中にいた。
夜が明けた。空になった小瓶が床に転がり、動かなくなった桐生が横たわっている。
「なあ、加賀谷」
海老原が、陶酔の残滓を湛えた笑顔で言った。
「もしあんたさえ良ければ、ここの管理者にならないか? 桐生はあそこで死んでいる。代わりが必要だ」
加賀谷は答えず、ただ床の桐生を見つめていた。絶命したはずの桐生の、青白く変色した指先が、ぴくりと動いた。




