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【AI小説】胞子の園|2026  作者: 茉莉花イツカ


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第3話 ソーマ

 アラームの鋭い音が、加賀谷の意識を暗い泥の中から引きずり出した。無意識に目覚まし時計へ手を伸ばそうとしたが、指一本動かない。

 視界を覆うのは、青白く濁った空気と、ガラスの内側に滴る水滴。状況を理解するまでに数秒を要した。そうだ、俺はあの廃墟で――。

 タンクの中に囚われているという厳然たる事実が、冷水のように背筋を駆け抜ける。腕には数本のチューブが食い込み、腹部には何かが内側からせり上がってくるような、不気味な異物感があった。


 アラームの音に混じって、乾いた靴音が近づいてくる。

 加賀谷は、濃度の薄まった霧の隙間からガラスの向こうに目を凝らした。白衣を着た老人が、作業台に並べられた『証拠品』を確認している。加賀谷の使い古された手帳、スマートフォン、財布、そして探偵免許証。


「俺を、ここから出せ」

 力を込めて叫んだつもりだったが、口から出たのはただの喘ぎとなり、タンク側面のスピーカーから電子的なノイズとして吐き出された。

 老人がタンクの側面のパネルに指を滑らせる。

「気がつきましたか」

 スピーカー越しに届く声には、一切の熱がなかった。老人が操作を加えると、頭上のノズルから微細な粉末が噴霧された。それは青白く発光しながら、加賀谷の肺へと吸い込まれていく。

 瞬間、内臓を灼くような激痛が消え、腹部の不快感も霧散した。

「あなたのことを教えてください。なぜここに来たのですか?」

「……柴田恵子の、依頼で。息子の、失踪調査だ……」

 加賀谷は驚くほど滑らかに、隠すべき事実をすべて吐き出していた。弁当屋のパートの切実な顔、GPSの記録、ここへ至るまでの足取り。思考のフィルターが外れたように、老人の質問に『正解』を答えられることが、今の彼には何よりも心地よく、誇らしいことのように思えた。


 どの程度の時間が経過しただろうか。やがて薬効が切れると同時に、刺すような寒さと、腕や腹の痛みが潮のように戻ってきた。

 ――全部、話してしまった。

 プロの探偵としてあるまじき失態に、胃の腑がねじれるような後悔がこみ上げる。だが、嘆いている暇はない。加賀谷は痛む眼球を動かし、周囲を観察した。

 視界の端で、老人が巨大な金庫の扉を開けていた。中には青白く光る小瓶が、まるで精密な電子部品のように整然と並んでいる。


 老人がこちらへ歩み寄ってきた。六十代、細身。白衣の下にセーターを着込み、眼鏡の奥にある眼球は、加賀谷を人間ではなく、ただの『検体』として値踏みしている。

「気分はどうですか」

「ここから出せと言っているんだ」

「私は桐生です」

 老人は加賀谷の抗議を完全に無視し、淡々と自己紹介をした。

「お前はここで何をしている。あの不気味なキノコは何だ!」

「栽培ですよ……」

 桐生は背後に並ぶ、無数のタンクへと視線を投げた。

「人体を培養基として、子実体を育てる。成熟した子実体から採取した極微細な胞子粉末、それこそが、究極の意識体験をもたらす『ソーマ』です」


 桐生の手が、冷たいガラスを一度だけ愛おしそうに撫でた。

「あなたなら、きっと良質なソーマを生産してくれることでしょう」


(狂っている)


 戦慄が走る。奴の手順、パネルの操作、出入り口の鍵の配置……すべてを記憶に刻まなければならない。観察しろ。それだけが、この地獄から生還する唯一の道だ。


 脱出の算段を必死に組み立てようとした時、頭上から再び粉末が降ってきた。

 今度は、先程よりも強く、青白く発光している。

 粒子が皮膚に触れた瞬間、構築しかけていた論理的な思考が音を立てて崩壊した。消えたのではない、どこか遠く、手の届かない深淵へと流し去られたのだ。

 自分の肉体の輪郭が、液体の中に溶け出していくような錯覚。


 不意に、部屋全体が圧倒的な光で満たされた。

 目を閉じているはずなのに、視覚の奥が開けていく。

 それは、凍てつく闇の中で産湯に浸かったような、暴力的なまでの安らぎだった。指先から脳髄までが甘美な熱に侵食され、自我という境界線がドロドロに溶けて、世界と一体化していく。抗うことなど不可能だった。ただそこに在るだけで、全宇宙から肯定され、許されているという万能の恍惚が、爆発的に押し寄せてくる。


 知らなかった。わかった気でいて、自分は何もわかっていなかったのだ。

 恐怖も、後悔も、探偵としての矜持さえも、この圧倒的な『光の洪水』の前では無意味な塵にすぎない。

 加賀谷は、自分が巨大な愛のようなものに包まれようとしているのを感じた。


 漆黒の絶望の向こう側には、きっと、この楽園が待っている。

 ソーマの粉末が、どこまでも、どこまでも降り続いていた。

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