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【AI小説】胞子の園|2026  作者: 茉莉花イツカ


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第2話 夢

 加賀谷は探偵事務所の古ぼけたソファに座っていた。

 向かいには、痩せた女が座っている。四十代半ばだろうか。安物のバッグを両手で強く抱え込むようにして、縋るような目でこちらを見ていた。

「費用は……どのくらいかかりますか。知人から、ここは良心的だと聞いて来たのですが」

「まずはお話をお伺いしましょう」

 加賀谷の言葉に、依頼人——柴田恵子は小さく頷いた。彼女は震える手でバッグの留め金を外し、一枚の写真と、数枚のメモ書きをテーブルに並べた。

「息子が行方不明になったんです。健太といいます。どうか、探してください」

 加賀谷は写真を手に取った。それはどこにでもある家庭の、誕生日パーティーの風景だった。テーブルにはバースデーケーキがあり、灯された蝋燭がオレンジ色の光で部屋を温かく満たしている。とんがり帽子を被った青年が、照れくさそうに視線を外して笑っていた。

「写真を嫌がる子で……これが最後の一枚なんです」

 恵子の表情から一瞬だけ笑みがこぼれ、そしてすぐに絶望の色に塗り潰された。

 加賀谷は手書きのメモに目を移す。

〈仕事辞めて旅に出る。しばらく連絡できないけど元気だから〉

「警察は自発的な家出だと言って動いてくれません。でも、健太はこんな整った文章を書く子じゃない。もっと……もっとこう、感情がぐちゃぐちゃっとした文を送ってくる子なんです。急に連絡が途絶えるなんて、絶対におかしいんです」

「……警察の理屈はわかります。事件性がなければ腰は上げない」

「あの……加賀谷さんも元は刑事さんだったと伺いました。どうして……」

「父も私も、組織の理屈に馴染めなかった。それだけのことですよ」

 加賀谷は短く答えた。視線の先には、壁に掛けられた父の遺影がある。『正しくあれ』それが、実直すぎるほど実直だった父の口癖であり、同時に加賀谷家を破滅させた呪文でもあった。不正を告発し、孤立し、失意の中で死んでいった父。その背中を見て育った加賀谷は、探偵となった今も、その言葉に縛られ続けている。

「このGPS情報の最後の地点は?」

「北川食品……研究所の跡地、だそうです」

 恵子は再びバッグを強く抱え、絞り出すような声で言った。

「お願いします。助けてください」

「引き受けましょう。……費用は、健太君が見つかってから考えればいい」


 気がつけば、事務所は夜の闇に沈んでいた。

 依頼人はすでに去り、加賀谷は一人、テーブルの写真を見つめていた。オレンジ色の光。とんがり帽子の青年。幸せそうな家族。

(助けたい)

 探偵としての報酬のためではない。ただ純粋に、この光を守らなければならないという使命感が胸を突いた。

『正しくあれ』

 亡き父の声が、沈黙した事務所に低く響いた気がした。その遺志に報いることが、自分に残された唯一の道であるかのように。

 加賀谷は、重い顔を上げた。


 ソファに座った加賀谷の正面に、いつの間にか健太が立っていた。隣には恵子と妹が寄り添い、テーブルのケーキに灯った蝋燭がゆらゆらと揺れている。

 並べられた料理、壁の飾り付け、温かなオレンジ色の空気——それは先ほどまで眺めていた、あの一枚の写真の中の世界そのものだった。

 だが、何かがおかしい。

 三人は笑い、何かを語り合っているようだが、そこからは一切の音がしなかった。壁のクリーム色がみるみる褪せていき、無機質なコンクリートの灰色へと変質していく。窓が消え、棚は金属のフレームに姿を変えた。

 恵子の横顔を照らしていた蝋燭の炎が、不意に、オレンジから青白く変わった。

 部屋全体が溶けていく。恵子も、妹も、背景に吸収されるように青い光の中へ消えていった。


 健太だけが残った。


 青年の首から肩にかけて、不気味な隆起が広がっていく。皮膚を突き破り、網目状の菌糸が肉を侵食していくのが見えた。そこから生え出した無数のキノコが青白く発光し、暗闇の中で幻想的に揺れている。

(……美しい)

 そう思った自分に戦慄した。

 健太の腕に無慈悲なチューブが絡みつき、彼は傾斜台へと固定されていく。やがて周囲を冷淡なガラスが覆い、一つの『完成された検体』として闇に鎮座した。

 加賀谷はその光景を、ただ茫然と見つめることしかできない。だが、ふと気づく。ガラスの向こうで身動きもできず横たわっているのは、本当に『彼』なのだろうか。

(痛い。熱い。喉が、焼ける――)

 心臓を鷲掴みにされるような激痛。

 突如として溢れ出したその苦痛は、見つめていたはずの『彼』のものではなく、紛れもなく加賀谷自身の肉体が叫んでいるものだった。

 激痛の衝撃とともに、温かなオレンジ色の幻影はボロボロと剥がれ落ち、代わりに冷徹な現実がその姿を現していく。


 気がつくと、加賀谷は猛烈な熱感の中にいた。

 首筋を抉るような激痛は、かつて打ち込まれた注射の名残か、あるいは今まさに肉体に突き刺さっているカニューレの生々しい感触か。まぶたの縁はどろりと重い分泌物で癒着し、視界を半分塞いでいた。

 今すぐ指をかけ、その異物を引き剥がしたい。だが、そう思った瞬間に、全身を貫くような拘束感に突き当たった。腕が動かない。指先すら、わずかな遊びもなく固定されている。

 焦燥に駆られて目をしばたたくと、溜まった涙が不純物を押し流し、わずかに視界がひらけた。

 絶え間なく循環しているのか、青白い霧の濃度がゆっくりと明滅するように変化している。その薄らぐ波間に、冷たく澄んだガラスの向こう側が、不意に、剥き出しになった。

 歪みのない視界に映ったのは、地下室の全貌だ。

 整然と並ぶ培養タンクの列。その通路を、一人の男の影がゆっくりと歩いていた。


 腕に刺さった針がズキズキと痛み、腹部を『何か』が這い回る感覚がある。

 脳裏に、先ほどの健太の姿が焼き付いて離れない。皮膚から直接生え出した、あの白く細いキノコの柄。

 自分も、苗床にされたのだ。

 加賀谷は喉が裂けるほどに叫ぼうとした。だが、肺に流れ込むのは高湿度の熱い蒸気と、むせ返るような胞子の匂いだけだった。声にならない喘ぎが、タンク内のスピーカーから微かなノイズとなって漏れる。

(……ああ……)

 その微かな音に反応したのか、通路を歩いていた男がこちらへ向きを変えた。コツン、コツン。硬い足音が近づいてくる。

 ふたたび、視界が青白い光に侵食されていく。

 感覚は徐々に麻痺し、意識の輪郭が溶けていく。あんなに忌まわしかったはずの光が、今は慈愛に満ちた楽園の輝きのように、優しく加賀谷を包み込んでいた。

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