第5話 管理者
加賀谷誠にとって、培養室の仕事は朝の巡回から始まる。
白衣の擦れる音と、床のコンクリートが足音を吸い込む無機質なリズム。地上では陽光が世界を照らしている頃だろうが、この地下施設に朝も夜もない。左右に並ぶ円筒形のタンクからは、常に一定の青白い光が揺曳し、霧に煙る内部を淡く照らし出している。その光景は、どこか静謐な聖域のようでもあり、あるいは巨大な標本室のようでもあった。
六番タンクの前で、加賀谷の足が止まった。
ガラスに顔を寄せると、霧の向こうに横たわる輪郭が、以前よりいっそう希薄になっているのがわかった。宿主の生命力と引き換えに、その肉体を食い破って咲き誇る子実体は、今や完成の時を迎えようとしている。
加賀谷は感情を排し、タブレットに数値を入力した。そして十二番タンク――かつての『管理者』であった桐生が入っている場所へ回線を繋ぐ。
「桐生」
「んっ……なんだ?」
スピーカーから漏れる声は酷く不鮮明だったが、加賀谷には聞き取れた。
「六番がもうダメそうだ」
「そうか……。質はまあまあだったが、収穫量はそれなりに期待できたのだがな」
桐生の声には、自身の現状への悲観も、死への恐怖もなかった。あるのは、一人の研究者としての純粋な損得勘定だけだ。
「死体は冷凍庫へ。次の『苗床』の準備手順は、後で教えよう」
加賀谷は黙って操作盤を叩き、十二番タンクへ至上の安楽をもたらすソーマの霧を送り込んだ。桐生が短く喘ぐ。
巡回の最中、ポケットのスマートフォンが震えた。画面には「柴田恵子」の文字。行方不明になった息子の捜索を依頼してきた、あの母親だ。
「もしもし」
「加賀谷さん、何度もすみません。その後、息子のことで何か進展は……」
受話器越しに伝わる震える声。加賀谷は目の前の七番タンクを見つめた。そこには、首から顎にかけて青白く光る菌糸に覆われた、彼女の息子であったはずの『個体』が漂っている。
母親というのは、これほどまでに執着が強いものか。
その愛情の深さに、加賀谷は微かな羨望と、それ以上に冷ややかな憐憫を感じた。彼は淡々と、しかし優しく嘘を紡ぐ。
「実は、廃墟の周辺で手がかりが見つかりました。現場を見ていただいたほうが早い。直接お会いしましょう」
「え……本当ですか。すぐに行きます。どこへでも」
声に灯った希望の光。加賀谷は密かに場所を指定し、通話を終えた。
七番タンクの『息子』は、霧の向こうでただ静かに発光し続けていた。
夜、加賀谷は培養室のメイン照明を落とした。
闇の中で、十二基のタンクだけが命の灯火のように青白く浮かび上がる。彼は七番タンクの前に腰を下ろし、壁に背を預けた。
手の中には、一瓶のソーマ。
栓を開け、掌に落ちた白い粒子を深く吸い込む。
瞬間、世界の境界が溶け出した。
肺から全身へ巡る感覚の奔流。それは、かつて味わったあらゆる快楽を一つに凝縮し、無限に増幅させたような衝撃だった。肉体の重みは消え、意識は青白い光の粒となって、この地下室を満たす濃密な胞子の海へと溶け込んでいく。
視界が眩いほどの光に支配される中、ふいに父の声がした。
『正しくあれ』
厳格だった父が口癖のように言っていた言葉。かつての自分なら、その重圧に押しつぶされていただろう。だが、今の加賀谷は揺るがなかった。
光の洪水の中で、彼は微笑む。
(ああ、これこそが俺の『正義』だ)
誰にも見られない場所で、丹念に、完璧に、この園を管理し続けること。
悲しみも苦しみも、すべてをこの美しい光の中に溶かし、楽園を維持すること。
それ以上に『正しい』ことなど、この世に存在するだろうか。
加賀谷は天を仰いだ。
頭上に掲げた瓶から、光り輝くソーマの雪が降り注ぐ。
漆黒の虚無の向こう側で、圧倒的な光に満たされた楽園が、彼を優しく迎え入れようとしていた。
──THE END──




