03.香る疑念
「先程の謁見の間、不思議な香りが充満していませんでしたか?」
私が言うと、モルドレッド殿下はわずかに目を細めた。
「香り?」
「はい、香を焚いたような香りが、室内に満ちていました」
「俺は気づかなかったな。でも、香みたいな匂いか。……もしかして、少し花っぽい感じ?」
「そんな気がします」
殿下は手を口元へ当てたまま、伏せるように視線を落とした。
そして小さく、「んー、でも……」「いや、まさか」と独り言のように呟いた。
「殿下?」
「ごめん、ジニー。君にごまかしても仕方ないし、話しておくよ。少しだけ、心当たりがあるというか……」
「はあ」
殿下の視線が右上へ泳ぎ、次いで右下へ落ち、また右上へ戻る。
口元へ当てていた指を、いつの間にか噛んでいた。まだ血は出ていないようだけれど……。
「殿下、傷になってしまいますわ」
「あ……ごめん」
「いいえ。ですが、なにか懸念されていることがおありなんですね?」
そう尋ねると、殿下は渋い表情のまま口を閉ざした。
膝の上で握りしめられた手には白く骨が浮いていた。
薄い唇が一文字に閉じられていた。
春先のまだわずかに冷たい風が、殿下の前髪をさらりと揺らした。
モルドレッド殿下は視線を窓の外へ向けた。すると補佐官が音もなく歩み寄り、机の上の書類へ静かに文鎮を置いた。
私もつられるように窓の外を見たけれど、眩しい春の日差しと、風に揺れる木々の影しか見えなかった。
「少し、考えてもいいかな」
「はい」
「心当たりはある。懸念もある。ただ……それを断定していいのかわからなくて」
殿下の口元が、不安そうにわずかに下がる。
「承知しました。お待ちしております」
「えっ、いいの、そんなあっさり」
何度も瞬きをしながら、殿下がこちらを見つめ返した。
安心させるように、できるだけゆっくり微笑み返した。
「いつかは、教えてくださるのですよね?」
「そうしたいと思ってる」
「でも、今は言っていいかわからないのですよね?」
「……うん」
殿下は眉を下げ、口をへの字に曲げていた。幼い頃、二人で庭園で迷子になったときと同じ顔だった。
「でしたら、お待ちしております。私には先ほどの香りに心当たりがございません。だからこそ、殿下のお考えをお聞かせいただきたいです。でも、まだ言えないことを無理に聞き出したくはありません」
私はソファから立ち上がって、向かいのソファの隅に腰を下ろした。
深い緑の瞳が、静かに私を見つめている。
硬く握られた拳に、指先で触れた。
「ねえ、ルディ」
それは、モルドレッド殿下が幼い頃に呼ばれていた愛称だ。
いつからか誰も呼ばなくなっていたけれど、私はこの呼び方が嫌いではなかった。
「そんな顔、なさらないで。あなたがそうしてくれたように、私はいつだってあなたの味方よ」
「……うん。ありがと、ジニー」
うつむいてしまった殿下の肩の震えが収まるまで、私は隣で静かに春の風を受けていた。
***
ジニーが執務室を去ったあと、俺――モルドレッド・ドレイクは補佐官を呼び、今日の予定を確認した。
「……今日は昼食を兄上と摂ろうかな」
「さようでございますか。何か、お約束でもされていらしたのですか?」
「してない。兄上に確認を……いや、俺も行く。訪問先の貴族には兄上と親しい者もいるから、俺が顔を出すことを先に伝えてもらおう」
さきほどジニーと見ていた書類の中から、訪問先の領地を統治している貴族一覧を取り出した。
そして余白へ、家系ごとの派閥を書き込んでいく。
派閥と言っても、露骨に敵対しているわけじゃない。ただ、それでも自然と付き合いの深い家同士というものはある。
父王と近しい家系。兄上を推す家。そして俺の後ろ盾になってくれている人々。ほかにも宰相派や辺境伯一派なんかがあるけど、今は置いておく。今回気にするべきはそこじゃない。
――先程、ジニーが気にしていた香り。
あれは、妖精の香なのではないか――そんな疑念が頭から離れなかった。
ブリテニアに住まう人間は、生まれたときに妖精から一人につき一つの能力を贈られる。
父王は『調和』、俺は『抑制』、ジニーは『鼓舞』、そして兄上は……『扇動』。
授けられる能力は、その人物が将来強く求める力なのだと伝承されている。
だから統治者である父王が、人々との調和を成す『調和』を持つことも、辺境伯の娘として有事には兵たちを力づけるジニーへ『鼓舞』が与えられたことも、不思議ではない。
兄の『扇動』は使い方が難しいと、兄上の家庭教師が言っていた。
「その気になれば国を乗っ取ることも、戦争を起こすこともできます。ですが、単純に政治的駆け引きの場で、周囲の意見を自分に都合よく誘導することも可能です。王族の方が持つ能力としては、使い勝手が良いのかもしれませんね」
それを聞いたとき、幼かった俺は少し背筋が冷えた。
俺の『抑制』とは、まるで正反対の力だったからだろう。
能力を使うには、妖精の力を借りる必要がある。そして、妖精が力を使うと匂いがする。
ただ、自分に力を貸す妖精は生まれたときからずっと同じだ。だから匂いもすっかり慣れてしまっているし、そもそも妖精は家系ごとに種類が異なる。
つまり、父上にも兄上にも同じ系統の妖精が力を貸している。だから二人が能力を使っても、俺にはその匂いがわからない。
貴族の一覧への書き込みを終えて、俺は補佐官と共に王宮に向かった。
兄上はまだ謁見の間にいるらしく、俺は今度は裏手からそちらへ入った。
「モルドレッド、どうしたんだ?」
薄暗い柱の陰から姿を見せた俺に、兄上はわずかに目を見開いて声をかけてきた。
「さっき、地方視察の話をしただろ? 行き先の何カ所か、兄上に先に声をかけておいてほしくて」
「ああ、そういうことか。もちろん構わない。少し待ってくれ。父上」
兄上は父上へ二言三言ささやき、それからこちらへ戻ってきた。
父上の様子は、重厚な椅子の背もたれに隠れてよく見えなかった。
兄上の補佐官も交えて、連絡の順序などを相談した。
「ありがとうございました、兄上。助かります」
「たいしたことじゃないさ。……ところで、ヴォーティガン嬢とはうまくやっているかい?」
「な、なんですか急に……。先日もプロポーズを断られたばかりですよ」
「なぜ? あんなに仲睦まじいのに」
心底不思議そうに眉をひそめる兄上へ、俺は苦笑を返した。
「国王陛下がお許しにならないだろうから、だそうですよ。俺としては、政治的にも悪い話じゃないとは考えてるんですけど」
「そうだな。モルドレッドは、僕が戴冠したら地方政治にも関わるようになる。だから地方随一の権力を持つヴォーティガン家と縁があるのは、悪くないはずなんだけど……」
兄上は父上の背を見て肩を竦めた。
父上はヴォーティガン郷が第二王子という後ろ盾を得ることを、決して良しとはしないだろう。
「まあ、頑張れよ。欲しいものがあるなら、どんな手を使ってでも手に入れるべきだ」
「……兄上にも、そのように欲するものがあるのですか?」
少し意外だった。
兄上は穏やかで、でも間違いなく優秀な人物だ。
欲しいものなら、たいてい手に入りそうな人なのに。
兄上は父上の背へ視線を向けたまま、囁くような声で言った。
「そりゃあ、僕にもあるよ。どうしても欲しいものの一つくらいね」
「それは……?」
「んー、秘密」
そう言ってこちらを振り向き、笑みを浮かべた兄上は、ぞっとするほど綺麗だった。
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