02.一滴の違和感
数日後、国王陛下より、モルドレッド殿下と共に呼び出された。
先日提出した地方視察の経路についてのお話だそうだ。
殿下が朝の鍛錬を終えたあと、私たちは並んで王宮へと向かった。汗をかいたからと湯浴みまでなさった殿下からは、清潔な石鹸の香りがふわりと漂っている。
「君に汗臭いと思われなくないからね」
そうおっしゃるけれど、私はそんなこと気にしない。
午前中の王宮は、出勤してきた貴族や清掃中のメイド、慌ただしく行き交う政務官たちで賑わっていた。
開いた窓からは、庭園に咲き誇る花々の甘い香りが流れ込んできていた。
私は殿下と並んで、通りすがる人々と挨拶を交わしながら謁見の間に向かう。
「基本的には例年と同じ内容だから、大丈夫だよ。前回は数年前に叔父上が奥方やお子たちと一緒に、家族旅行がてら行っているね」
「そこまで形式張ったものでもないのですね」
「うん。地方のこともちゃんと見ていますって示すためのものだからさ。基本的にはその土地を治める貴族に任せているけど、見捨てているわけでも、完全に放任しているわけでもない。これからも友好的にやっていきましょうっていう意味合いだね。社交シーズンだから、王族が戻るときに一緒に王都へ向かう貴族もいるくらいだし」
「なるほど、王族に同伴することで忠誠を示すのですね」
「そういうこと」
殿下が笑って頷いたところで、謁見の間の扉の前についた。
「モルドレッド・ドレイク、参上致しました」
「ジェニファー・ヴォーティガン、同じく参上致しました」
「入ってまいれ」
ウーサー王の声に従い、扉が静かに開かれた。
……?
なにか、不思議な香りがした。
先程までの花の香りとは違う、香を焚いたような重たい香り……?
でもモルドレッド殿下は何もおっしゃらないし、気のせいなのかもしれない。
殿下とともに、国王陛下の前で頭を下げた。
「よいよい、たまたま別件でこの部屋が都合良かっただけだから、かしこまった挨拶などせず、本題に入ろう」
モルドレッド殿下が顔を上げるのに倣い、私もそっと顔を上げた。
……が、違和感があった。
国王陛下はいつもの玉座に腰をおろしていらっしゃる。けれど、その斜め後ろには、ぴたりと寄り添うようにアーサー殿下が立っておられた。
ずいぶん近くにいらっしゃる……?
側近でもあそこまで寄り添わないというくらい近くで微笑んでいるのに、国王陛下は気にした様子もなく、そのまま話を続けられた。
「先日の地方視察についてだが、問題なかろう。各地の領主に事前に通達を済ませた後、出立するが良い」
「はは、そのように」
「また、ジェニファー嬢も同行すると良い。ヴォーティガン卿も久方ぶりに娘の顔を見たいであろう」
「国王陛下の温情に感謝申し上げます」
「よいよい、君のことは第二王妃が娘のようにかわいがっている。つまり、私にとっても娘のようなものだからな」
ちらりと斜め前に立つモルドレッド殿下を見たけれど、後ろ姿ではどんな表情をなさっているのかわからなかった。
その向こうにいらっしゃる国王陛下へ視線を向け、さらにその後ろに立つアーサー殿下を見た。
アーサー殿下はやはり穏やかな表情を浮かべていたけれど、じっと国王陛下を見つめたまま微動だにしなかった。
こちらへ視線を向けることすらなかった。
その後、日程や雨期についての注意を聞き、私たちは謁見の間をあとにした。
「よかった、案が通って。……ジニー、どうした?」
「あ、いえ……」
廊下へ出ると、先程まで漂っていた不思議な香りは消えていた。
代わりに、庭園から流れてくる花々の香りが鼻先をくすぐった。
モルドレッド殿下は笑顔で私を見ていた。
「えっと、離宮に戻りましょう。私にも詳しい日程や経路を教えてくださいな」
「もちろん」
モルドレッド殿下とともに第二王妃の離宮へ戻り、そのまま殿下の執務室へ向かった。応接セットを挟んで向かい合い、私は視察について詳しく教えていただく。
低いテーブルの上へ書類を広げると、開いた窓から吹き込む春風に紙端がふわりと揺れた。殿下の補佐官が苦笑して、文鎮を持ってきた。
殿下は春の日差しに目を細めながら窓の外を一瞬眺め、それから行路を記した地図を広げた。
「――ってな感じで、国の東側の領地を順に回っていくんだ」
「なるほど、なかなか大がかりですのね」
「そう。だからさっき父上も言っていたけれど、事前に各領地にいつごろ、どのくらい滞在するか連絡して用意をしてもらわないといけない。だから経路が決まったといっても、そんなにすぐには出立できないんだな」
「回るのも準備も大変ですわね。できる限り、お手伝いいたしますわ」
そう告げると、殿下は嬉しそうに頷かれた。
しばらくは視察の準備に手を取られるけれど、出立してしまえば他の地域へ目を配れなくなる。そのため、そちらについても事前の根回しが必要になるのだそうだ。
他の地域については第二王妃に、それでも回らない部分はアーサー殿下に頼むそうだ。
モルドレッド殿下は暦を指した。
「戻ってくるのは社交シーズンの中盤から終わり頃かな。悪いね、今年は新しいドレスをあまり用意してあげられなさそうだ」
「何をおっしゃいますの」
私は小さく肩をすくめてみせた。
「わたくし、質実剛健を家風とするヴォーティガン伯爵家の娘ですもの。ドレスももちろん嬉しいですけれど、殿下と市井を見て回れることを楽しみにしていますわ」
「そう言ってくれると嬉しいよ。とはいえ、行く先々で歓迎のパーティや食事会を開いてくれるだろうから、ドレスやアクセサリーをまったく用意しないわけにもいかない。でも、その辺りは全部俺が選ぶから、ジニーは気にしなくていい」
「殿下は私を着飾らせるのがお好きですわねえ」
「そりゃそうだよ。愛しい君が俺の隣で輝くのに、手間を惜しむなんて男として情けないだろ。問題は、君がドレス姿のときより、朝晩の鍛錬場で木剣を振っているときのほうがずっと綺麗なことだな」
殿下は、さほど困った様子もなくそうおっしゃった。
いったい、いつそれをご覧になっていたのだろう。
私の軟禁理由が理由だから、訓練には早朝か夜も更けた時間にしか参加しないようにしていたのに。
「なんにせよ、忙しくなる。ジニーの手も大いに借りるから、よろしく頼むよ」
「はい、殿下」
「ところでジニー」
さきほどまで穏やかに笑っていたモルドレッド殿下が、わずかに眉を下げた。
「なにか、気になることでもあった?」
「気になることですか?」
聞き返すと、殿下は手にしていた書類を揃え、静かにテーブルへ置いた。いつの間にか、窓から吹き込んでいた風も止んでいた。
「うん。さっき謁見の間から出たとき、心ここにあらずの様子だったから、どうしたのかと」
先程の違和感を思い出した。
部屋に入ったときの不思議な香りと、そしてアーサー殿下の挙動。
モルドレッド殿下へ打ち明けるほどのことなのだろうか。
顔を上げると、モルドレッド殿下はいつもどおり穏やかな表情で私を見つめていた。
切れ長の深い緑の瞳に、通った鼻梁、薄い唇。今日は白金の髪もきちんとまとめられている。
いつもどおりの、見慣れたモルドレッド殿下だった。
なんら違和感はない。
それなら、聞いてみても構わないはずだ。
私も手にしていた書類を揃えてテーブルに置き、モルドレッド殿下をまっすぐに見つめた。
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