24.夜風と星空
夜。湯浴みを終えて部屋へ戻ろうとしたところで、モルドレッド殿下に呼び止められた。
「ジニー、寝る前に少しだけ話さない?」
「よろこんで、殿下」
殿下と肩を並べて、バルコニーへ向かった。
ヴォーティガン家のタウンハウスは王都の東端、小高い丘の上に建っている。バルコニーへ出ると、頭上には星空が広がり、その下には王都に住まう人々の灯りがどこまでも続いていた。
殿下はバルコニーの柵へ手をかけ、夜風に白金の髪を揺らしていた。
「ここに来るのは初めてだ」
その横顔をまともに見られないまま、私はそっと目を伏せた。
「私も最後に来たのはいつだったか、覚えていませんわ」
……本当は、忘れるはずがない。
私が最後にここに来たのは人質になる前夜、両親と弟と共に泊まったときのことだ。
脳裏に浮かぶのは、悔しさを押し隠していた父と母の顔。そして、両親と私を見比べながら、不安そうに私の手を握っていた弟の小さな手だった。
最後まで私の手を離そうとしなかった弟も、今では遠いヴォーティガン領で領主代行として政務に励んでいる。
そして、私は。
私は唇をきゅっと噛み、王城のほうへ視線を向けた。
城壁の上では松明の火が揺らめいていた。あの灯が十年前と同じものかどうかなんて、さすがに覚えてはいないけれど。
「ジニー」
「……はい」
モルドレッド殿下の声に、私ははっと我に返った。
顔を彼へ向けると、殿下は先ほどまでの私とは逆に、静かに城下町を見つめていた。
その視線はどこまでも穏やかで、私の訓練を見守る父の眼差しにも似ていた。
「あそこの屋台の串焼き、おいしかったよな」
殿下が指さした先には、かつて二人で歩いた通りがあり、夜更けだというのにまだ人々の姿が見えていた。
「……そうですわね。その先で喧嘩があって、止めに入りましたわね」
「ああ、酔っ払いが騒いでいたやつだ。その先の酒場だったな」
殿下と城下町を歩いていたのは、ほんの半年前の数か月ほど前のことなのに。
それなのに、次から次へと思い出話があふれてくる。
「こんな時間でも、人は働いてるんだな」
殿下が、夜景を見つめたままぽつりと呟いた。
屋台が並ぶ通りを見下ろしていると、夜の王都がまだ眠っていないことがよく分かった。
酒場の扉が開くたびに陽気な笑い声が漏れ、店先では遅くまで働く職人たちが灯りをともしていた。石畳を馬車がゆっくり通り過ぎ、パン屋の裏口からは明日の仕込みだろうか、焼く前の小麦の香りが夜風に乗って漂ってくる。
「王都は眠らない街ですもの」
「……昔はそんなこと、考えたこともなかった」
柵へ肘を預け、殿下は街を見下ろしたまま静かに続けた。
「王子ってさ、城の中にいると国のことなんて分かった気になるんだよ。地図とか、税とか、軍とか……数字ばかり見てさ」
「ええ」
「でも、こうして見るとさ」
殿下は指先で、灯りの連なる通りをゆっくりとなぞった。
「あそこにいる一人一人が、この国なんだよな。……父上や兄上が守ってきた国なんだ」
私は何も言わず、その横顔を見つめた。
夜風に揺れる白金の髪の向こうで、殿下の横顔はどこか穏やかだった。
「兄上は、どうしてこんなことをしたんだろうな」
その声には怒りよりも、深い戸惑いのほうが滲んでいた。
「殿下」
「……いや、分かってる。明日には決着がつく」
殿下は苦笑して肩をすくめた。
「でもさ。もし俺が国王になったら、この灯り全部守らなきゃいけないんだろ?」
「そうですわね」
「……荷が重いなあ」
「今さらですの?」
思わず笑ってしまうと、殿下もつられたように小さく吹き出した。
「ジニーは本当に容赦ないな」
「辺境伯の娘ですもの」
「知ってる」
殿下はふっと息を吐き、星の瞬く夜空を見上げた。
「でもさ、もし俺が明日負けたら」
夜風に溶けるような静かな声が、ふと途切れた。
私は小さく首を傾げた。
殿下は笑って続けた。
「そのときはジニー、全力で逃げてくれ」
思わず眉をひそめた。
「嫌です」
「少しくらい考えてくれよ」
「嫌です」
私は冷えた柵へ手を置き、灯りの広がる街を見下ろした。
「逃げるくらいなら、私は死ぬまで殿下の隣で剣を振り続けますわ」
「それはそれで困る」
「なぜですの?」
「君が死んだら、俺が困る」
あまりにも真剣な顔で言うものだから、思わず吹き出してしまった。
「殿下」
「ん?」
「私、結構しぶといですわよ」
「知ってる」
殿下は笑った。
「君、人質十年やってたんだもんな」
「ええ」
夜の王都を見つめながら、私は静かに息を吸い込んだ。
「だから、もう逃げません」
十年前の私は、父と母に守られながら、この街を遠くから眺めることしかできなかった。
けれど、今は違う。
この灯りの下で生きる人々の姿を、私はもうはっきりと見ている。
「殿下」
「ん?」
「明日、勝ちましょう」
「……そうだな」
殿下は静かに頷いた。
秋の夜風は涼しく、息を吸うたびに体の奥までひんやりと冷えていくようだった。
乾かしたばかりの髪が、夜風にさらわれてふわりと広がる。
ふと殿下が黙り込み、夜空を見上げた。
つられて見上げた空には、降ってきそうなくらい無数の星が瞬いていた。
「ついに明日だからなあ」
「そうですわねえ」
決戦前夜だというのに、気の利いた慰めの言葉は何ひとつ浮かばなかった。
ぼんやりと星空を見上げていると、そっと伸びてきた手が私の手へ重なった。
「明日うまくいったら、母上のティアラを君に贈りたいな」
「そういうの、“フラグ”って言うらしいですよ、殿下」
以前、王都を散策していたときに、若い女性たちの間で流行っている小説を教えてもらったのだ。
そこに、そんなことが書いてあった。
「今の俺は、殿下じゃなくて逆賊だからさ」
「がんばって返り咲いてくださいな。私を逆賊の妻にするおつもりですか?」
「それは嫌だな。……いっちょやってやろうかな」
重なった手が、強く握られた。
私も同じように握り返した。
「ええ、兄上にぶちかましてやりましょう」
目を合わせて笑う。
夜風は冷たさを増していくのに、寄り添う肩だけは驚くほど温かかった。
十年前には見えなかった人々の営みが、今ははっきりと私の瞳に映っている。隣に立つのも、両親ではない。私が支えたいと願った殿方だった。
私はもう、人質令嬢ではない。
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